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第12話

それから心は軽くシャワーを浴び、いつまで経っても着慣れないスーツを着ると、スヤスヤと眠る静に口づけ部屋を出た。 静が目を覚ましたのは、それからすぐだった。 寒さで目が覚めたのかとも思ったのだが、どこか違うそれに違和感を覚えつつも、気怠い身体を起こし広い部屋を見渡した。 心の居ない部屋に、心の香りだけが残る。 何だか落ち着かないなんて思いながら、静は奥のカウンターに行き、ドリップコーヒーのスイッチを入れた。 結局、昼頃までTVを見たりして時間を潰していたが、心が言っていた通り相馬も本当に忙しい様で、一度も部屋に来ない。 さすがに組長の心が不在となると、若頭の相馬が全てを担うのだろうか。 極道がどういう仕事をしているのか想像もつかないし、想像しても悪い想像しかつかない。 大多喜組のような商売をしているとは思いにくい。だが、極道が真っ当な生業をしているとは到底、考えにくい。 極道は極道であり、その中でどう動こうが、やはり悪なのだ。 静はベッドに寝転がり、天使の描かれた天井を見上げぼんやりと時間が流れるのを待った。 何もする事が無く、何にも怯える事が無く過ごすなんて何年ぶりだろうか?こんなにも穏やかにベッドに寝転がることが出来たのは、果たしていつぶりか。 今までは時間がある限り何かしらのバイトを入れ、少しでも部屋に居ないで済む様に過ごして来た。普通であれば身体を休め、自分の時間を楽しむ場所である家が死ぬほど落ち着かない空間だったのだ。 「あーあ、暇!!」 誰に言う訳でもなく大声で叫ぶと、静はベッドから起き上がった。 一人で部屋に居ても、思い出すのはろくでもない昔の事ばかりと迷う事無く部屋を出た。 ドアを開けると毛の長い絨毯がエレベーターまで繋がっていて、人の気配はない。 このまま静が逃げてしまうのでは?という不安はないのだろうか? とは言っても、母親や妹を手中に収められていては逃げれる訳も無いが。 静は木目調の壁で囲まれたエレベーターに乗り込むと、1階のボタンを押した。 途中で組の人間が乗り込んで来たらどうしようかとも思ったが、未だかつて、このエレベーターに乗っていて誰かが乗り込んで来た事もなければ、廊下で誰かにすれ違う事もなかった。 これが本当に鬼塚組かと首を捻りたくほどに、組員らしき人間に出会わないのだ。大多喜組の小さな事務所でさえ、所狭しと人相の悪い男が犇き合ってたのにここではそれがない。 そもそも、ここが本部事務所かどうかも定かではないので、色々と分からないことだらけだ。 謎多き組長に、謎多き組というとこか。 「あんなガキの組長だから、誰も付いて来ないのかも」 静は、一人呟いた。 エレベーターで一階に下りてはみたもののロビーは閑散としていて、やはり誰一人と人が見当たらない。 関東の頂点に君臨する組のくせに、何て手薄な。こんな事で大丈夫なのかと、反対に心配してしまう。 とりあえず、はっきりしていることといえば此処は組長の心が寝起きする場所。 もう少し護衛なり何なり配置して人を置いておかないと、襲撃でもあった時はどうするのか。 相馬も家は別にあると言っていたし、これでは殺ってくださいと言わんばかりではないだろうか? 誰も居ないロビーでぐるりと周囲を見渡せば、初めて来たときの駐車場に繋がる扉を見つけて静はノブに手を掛けた。 中から勝手に開けて警報機とか鳴り響かないだろうかという一抹の不安はあったものの、それは容易く開いた。 耳を澄ましてみたが警報機らしい音は聞こえない。どうも問題はないようだ。 少しだけホッとして開いたドアから顔を出すと、見たこともない車がショーウィンドウに飾られた車のように綺麗に並び、その中には相馬のカイエンや心のH2も見受けられる。 静はそれに安堵して、ゆっくりと中に入り込んだ。 「あ…」 その車を、Yシャツ姿で丹念に磨き上げている男を見つけた。赤茶色の髪の背中の広い男だ。静は臆することなく、その男に近づいた。 「おはようございます」 「あ……?」 背後から掛けられた声に、男は眉間に皺を寄せて振り向いた。 低いドスの利いた声に静がたじろぐと、男は一瞬、静の顔を凝視した。そして暫く考えたのち、大きな声を出して立ち上がった。 「あー!あんた!!ちょ!!!困りますよ!こんな所に来られちゃ!!」 先程の威勢はどこへやら、静よりは年上であろう男は静が不憫に思うほど狼狽していた。 品良く赤茶色に染められた髪に、薄手のYシャツから伺えるガッチリした身体。 少し緩められているがタイを着用しているところからただのチンピラではなく、それなりの地位に居る男だろう。そんな男の狼狽ぶり。 やはり勝手に動き回ったのは拙かったか。いや、もしかして何か見られては拙いものがあるのだろうか。 あまりの男の狼狽ぶりに自分がとても悪い事をしている気がして、静は深々と頭を下げた。 「えーっと、ごめんなさい」 「わー!!何で自分なんかに頭下げるんすか!!」 更に狼狽する男に、静は申し訳ないよりも疑問がいっぱいになる。 どうしてここまでこの男は自分がする事なす事一つ一つに驚くのか。やはり心の部屋から、一歩も外に出すなと言われてるのだろうか? 「俺、ここに来ちゃダメなんでしょ?部屋から出すなとか言われてる?」 疑問を投げかけると、男は瞠目して頭を掻いた。そして、いや、ちゃうやろとブツブツと呟く。 静にも言えないような酷いことを命令されているのだろうかと、静は不安に瞳を揺らした。 そうだ、やはり自分は売り買いされた"モノ”なんだ。男はそれを知っていて、内心どう思っているのか。 静がここに居るということは、それに承諾したことも知っているのだろう。 やはり部屋に居れば良かったと、静は唇を噛み締めた。そんな静の表情を見た男は”ちゃうって…”と、呟いた。 そして意を決した様に一つ息を吐くと、グッと静を見据えた。 「来たら…あかんとか、出すなとか言われてるんやのうて…。その、だって、静さんがここに来るなんて、組長も思わへんでしょ?俺等は極力、静さんに逢うなて言われてんのに…」 「どうして?」 男の言葉に、驚いたのは静だ。 逢わない様にとはどう言う事か、理由を聞きたくて静は一歩前へ出た。男はそれに驚き、一歩後ろへ後退する。 華奢で小さい静が、大柄な、いかにもの風貌の男に詰め寄る様は、なかなかの見物だった。 「ね、どうして?」 「あ…」 明らかに”しまった”という顔をして、男は頭を抱える。 あまりにも人が居ない不自然さは、組員が居ない”鬼塚組”ではなく、組員全員が静を避けていたからのようだ。 まるでかくれんぼの隠れてる人間の顔を知らない鬼の気分だと、静は下から男を睨みつけた。 「どうしてですか?」 再度、静が問いかけると、男は双眸を手で覆って”参った…と呟いた。 「だって静さん、俺等みたいな極道には嫌な思い出しか無いし、きっと、俺等みたいなんを見ても、昔の辛い事を思い出すやろうから…って組長が」 至極、言い難そうにぽつりぽつりと話し、男は頭をガシガシ掻いた。 それを聞いた静は、まさか、あの男がそんな事を考えているとは思わずに呆然としてしまった。 「アイツ、そんな事」 「とにかく、中に入って下さい」 男は大きく嘆息して、屋内に入る様に促した。 「え、じゃあ一緒に」 「は?」 「あんな部屋で一人で何しろっていうの。つまんないじゃん」 あの広い部屋で誰と話す事も無く、何もする事も無く一人居るのは耐えられない。昔の思い出に苦しむのも、真っ平だ。 それに嫌な思い出があるだろうなんて、そんな気遣い無用だ。誰がどういう人間で、どういう思考を持っているかどうかくらい自分で判断出来る。 「いやいやいや、無理でしょ。俺に組長の部屋入れって言うんですか?」 壊れた玩具の様に、ぶんぶん首を振る男を静は凝視した。 改めて聞くと、この辺では聞かないイントネーションに言葉。それでも、最近では嫌というほど聞き慣れた…。 「…関西弁」 「へ?」 「イントネーションおかしいなぁって思ってたけど、やっぱり関西弁じゃん。アイツも関西弁だけど、同じ関西の人?」 「アイツ…ああ、組長。確かに俺は関西の人間ですけど」 「名前なんていうの?」 「俺ですか?成田です。あ、成田久志いいます」 「…」 成田と名乗った男の名乗り方に、静は違和感を覚えた。 普通、名前を聞かれたら対外、名字だけではないだろうか?だが、こうして律儀にフルネームで名前を名乗った男を、静は他にも知っている。 「何かちゃいます?それが流儀やて言われたんですけど」 不思議そうな顔をしている静に、成田は”おかしいなぁ…"と頭を掻いた。 「あいつ、バカか…」 自分の言った事を全て真に受けて、組員にまで浸透させているのか?組長形無しではないのだろうか? 大体、退屈しのぎの気紛れと言えども、男を囲っていること自体が信用を失いかけないのに。 男同士という事に、抵抗を持たない人間は少なくない。それを”気持ちが悪い”と思う人間も多いだろう。 この成田はそうでもないのは、話をしてみてすぐに分かったが…。 「部屋がダメなら、俺も洗車しようか?」 グッと腕を掴まれて成田は飛び上がるほどに驚き、その手を振り払おうとしたが、あまりキツくしてケガでもさせるわけにはいかない。 まして極道に対していい印象を持っていない静に、やっぱり極道なんて!と心を閉ざされてしまえば心の逆鱗に触れる事になる。 どうしていいのか分からずにアタフタしていると、それを見た静がその手を離した。 「俺、確かに極道は嫌いだけど、それは大多喜組の連中の話で、成田さんや相馬さんに対して嫌悪感はないよ」 そこで何故、心の名前が出て来ないのか成田は不思議に思ったが、手を離してくれて少しホッとした。 実際、静をこんな間近で見るのは初めてで、遠くから何度か見た事があったが、いざ、こうして間近で見ると確かに綺麗な男だ。 伏せ目がちの時の長い睫毛や、人をジッと見るのが癖なのだろう、大きな瞳は思わず吸い込まれそうになる。 それよりも芯の強さが好感が持てる。これでは心が手中に納めておきたいというのにも、納得してしまう。 「俺、今日大学もないし暇だから。アイツの許可が要るのなら、成田さんの洗車手伝うって俺からアイツに言うし」 「ちょ!!ちょっと待って下さい!!」 何を言い出すのか、血迷った人間の考えとしか思えない。 心を”アイツ”呼ばわりしたり恐怖心もなく物言いが出来るのも、この世の中に静しか居ないだろう。 実際、相馬に聞いた話だと、静は大理石のテーブルを蹴飛ばしたとも聞いた。大人しそうな顔をしていて、実はとんでもない人だと。 成田は先程から、静に心臓を鷲掴みされているのかと思うほど翻弄されている自分が、段々情けなくなってきた。 「俺にも選択権はある。いつ誰と何所で何をしてようと、それは俺の勝手だろ?実際、相馬さんとも飯行ったりしてるんだし。俺は今、成田さんと話したいのに、それをアイツが訳分かんない事言うなら俺がアイツに言ってやるから」 「ち…ちゃうんですって…。若頭と、俺等舎弟とは立場が全然ちゃうんです」 「何言ってんの、俺みたいなのに立場とか関係ないじゃん。アイツのが年もガキだし…どうせ成田さんより、うんと年下なんだろ」 「いや、そうですけどね。違うんです、あの組長はね、ホンマ凄い人なんですって…。俺等、年とか関係なく尊敬してるし、ここにおる奴らはみんな先代の組長に拾われた人間ばっかりで。せやから、組長は…。ちゃうわ。何言いたいんやろ、とにかく、俺等がそんな…」 もう思考回路は煙を上げて限界を訴えている成田は、何をどう言えば納得してくれるのかそればっかりで、頭を抱えていた。 そんな二人の背後からクスクスと笑い声が聞こえる。振り返ってみれば、そこには笑いを堪える相馬が居た。 「わ!若頭!!お疲れ様です!すんません!俺!」 成田は直角に上体を折り曲げ、駐車場に響き渡る様な声で挨拶をした。 心臓が馬鹿みたいに跳ね上がり、過剰なまでの運動をしている。 いつからそこに居たのだろう!?まさか腕を取られた所も見られたのか!? 成田はいよいよ、断指しなければいけないかと真剣に考え出した。 「大丈夫だよ。そんな恐縮しなくていいよ」 「そうだぜ!俺が勝手にここに来たの。部屋居てもつまんねーから。それにアイツ、他には行くなって言ったけど、部屋に誰も入れるなとは言わなかった!退屈だし、相馬さんも忙しいだろ?成田さん、部屋に連れて行っていい?」 もう余計な事を言うのは止めて欲しいと、成田は頭を下げたまま思った。部屋に誰も入れるなと言わなかったのは、成田たちが静に逢うと思ってもみないからだ。 「静さん、成田を部屋に連れて行くのですか?」 意外そうな顔をして、相馬が静を見据えた。 「暇だもん。ダメなら、俺も洗車する」 「それは残念、これでも成田は舎弟の中でも兄貴分でして、結構仕事があるんですよ。時間があれば良かったのですがね」 相馬は、さも残念そうに静に言った。その言葉に、成田は心底安堵した。 どちらにせよ、静が成田を部屋に連れて行く事を相馬が了承する訳が無い。 分かっていることとはいえ、嫌な汗が背中に流れた。 「そうなんだ、そうだよな。ごめんなさい」 少し考えてから、静は直ぐさま深々と頭を下げた。その姿に面食らったのは、成田だ。 「や!やめてください!そんな謝る事やないですって!」 「ダメ。悪い事をしたら謝らないと。よく考えたら、ここって組でも会社だもんな。みんな仕事あるよな。俺が暇だから相手しろなんて、バカだった」 素直に悪い事を謝る静だったが、成田は生きた心地がしなかった。 こうして静の前に居る時はニコニコとしている相馬も、組員連中からしたら震え上がるほど恐ろしい人間だった。 怒りは抑えず全てぶつけて来る心と違い、何を考えているのかさっぱり分からない。あの微笑みが曲者、それが鬼塚組NO.2の相馬北斗だった。 昔、襲撃に遭った時、心に向かって振り翳されたドスを相馬は無駄の無い動きで奪い、躊躇う事も表情を変えることも無く静かに男の眼球にそれを突き刺した。 泡を吹く男を足蹴にし、佇む他の舎弟に相馬はいつもの微笑みを浮かべ”どこの奴か吐かせてきてください。吐くまで病院には連れて行かなくていいから”と命令した。 血塗れで、軽く痙攣を起こす男を拷問して来いと言うのだ。 結局、男は見覚えのある顔で、どこの組の者かもすぐに判明した。そして直ぐさま相馬が組に乗り込み、その組は解散を余儀なくされた。 鬼塚組の若頭である以上、心に危険が及ぶ訳ような事はさせてはならない。というのは建前で、あの時はただ機嫌が悪かったとしか思えない。 組長と若頭との関係といえば血の結束とも言えぬ絆があるが、残念なことに鬼塚組にはそれがない。とても不思議なバランス関係で保たれているのだ。 「じゃあ、俺、部屋に戻るからさぁ…成田さん?空いたら相手してよ。仕事片付いたらいいだろ?」 成田の考えを他所に、静は相馬をチラリと見て伺う。 「仕方ありませんね。私はこれから会社に顔を出さないといけませんし、静さん一人で部屋に居ても暇でしょうし」 相馬は肩を竦まして、息を吐いた。 成田はそれを見て一人、”勘弁してくれ!”と心の中で叫んだ。

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