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第14話
相馬が部屋に戻ってくると、静は居なくなっていた。だが、相馬はそれに驚く様子も見せずに部屋を見渡した。
念のために入り口は部下達を張らせていたので、部屋を出て行ってはいない。
まるで人っ子一人居ない様な静かな広い室内を相馬はゆっくりと歩き、書斎やバスルーム等を覗いたが静の姿はどこにも見当たらなかった。
広いと言えども、こんなに探し回っても居ないとは…。
もしやと思い、相馬はウォークインクローゼットを覗いた。
そこには心のスーツや普段着が仕舞われていて、そこに心が居るのでは?と錯覚するほど心の香りが強く残っていた。
その奥の、心のロングコートが何着も掛けられた場所の下から、白い足が覗いて見えた。
相馬はゆっくりとコートを避けてみると、スヤスヤと眠る静を見つけた。
あれだけ憎まれ口を叩いていたのに、結局はやはり心に惹かれているのではないだろうか。相馬はふと、そんな事を思った。
不本意と言えども、今、静が頼れるのは心しか居ない。金銭的にも精神的にも、静には心が必要なはず。
だが同時に一人で必死に生きて家族を守ってきて、いきなり真綿で包み込む様に守られれば、張りつめていた糸の行き場が無くなるのも無理は無いのか…。
相馬は心の不厚めのコートをハンガーから外し、静にそっと被せた。
幸い静が眠る身体の下には、使っていないビーズクッションが敷き詰められている。身体が痛くなることもないだろう。
そう考えながらクローゼットのドアを閉めた、ちょうどその時、相馬の携帯がポケットの中で振動を始めた。
相馬はディスプレイに表示される番号を見て、通話ボタンを押した。
「お疲れ様です。大阪はいかがですか?」
相馬の質問に返事をするように、電話の向こう口で長嘆している声が聞こえた。
『お前、イヤな奴やな』
電話の向こうの心が、心底、憎しみを込めて言い放つ。
「今頃気がつきましたか」
『もうええ…静出せ』
何を言っても無駄だと思ったのか、焦燥した様子で心が相馬に言い放つ。それに相馬が呆れて、嘆息した。
「あなた、何を言ってるんですか?今、何時だと思ってるんですか」
時差がある国に居るわけではあるまいに、自分の腕時計を確認すれば静が起きているか眠っているかくらい解るだろう。
もともと我が儘でゴーイングマイウェイな性格ではあるが、静のことになるとそれが殊更酷くなっているような気がする。
『起こしたらええやないか』
どんな要求だ。
相馬はネクタイを外して大理石のテーブルに滑らせると、テーブルの前のソファにどっかり腰を下ろした。
「お断りします。あなたの子供の様な自分勝手な我が儘で、静さんの睡眠を妨害したくありません」
『お前、誰の若頭やねん』
「ワガママで自分勝手なあなたのですが?」
『けったくそ悪い奴やな…』
心が電話口の向こうで、舌打ちした。
「そちらはどうですか?」
『さあな。なんや龍大までおって、面倒や。小さい規模の島争いやな…今時』
「長くなるんですか?」
『せやなぁ…明日明後日は無理やな。風間のジジイ、お前がおるからそっち空けといてもええやろとかぬかしよったわ』
なるべく早く帰ってきて欲しかったが、どうもそうはいかないようだ。風間龍一の息子の龍大まで居るなら、尚更長くなりそうだ。
相馬は電話口の向こうの心に気が付かれない様に、ふうっと溜め息を零した。
『…なんかあったんか』
相変わらず敏い男だ。何事も無い様に振る舞っているのに、その少しの変化も見逃さないのは流石としか言い様が無い。
しかも相手が相馬なのにだ。いや、付き合いが長い分、心には相馬のそれは通用しないかもしれない。
「いいえ、私の仕事量がその間に膨大になるのが目に見えましてね。たまには休息したいものです」
相馬はフフッと笑い、心の疑いをサラリと交わした。
『阿呆…俺のがたまらんわ』
「そうですね」
『静、頼んだ』
少しばかり、トーンの落ちた声で心が言う。相馬は長い付き合いの中、それがどれほど真剣なものか瞬時に判断出来た。
「分かっていますよ。あなたもせいぜい頑張ってください。では」
相馬は通話を切ると、そのまま携帯をテーブルに乱暴に放った。そして長い足をテーブルに乗せると、そのまま天井を仰ぎ見た。
「頼まれる前に、あんな状態じゃあ…ねぇ。若頭失格ですね」
静の怯えよう…一体眞澄に何を言われたのか。極道そのものに畏怖しているのか、相馬にさえ距離を置いて逃げた。
畏怖しているのは極道にか、それとも人にか。
身体は平気だった。される前に阻止出来た。成田が連絡をくれなかったら…。
そう思うだけで音が出るほど奥歯を噛みしめる。だが心がこの事を知れば、間違いなく戦争が起きる。
今のこのご時世、争いごとは拙い。ただでさえ極道の首を取ろうと御上が狙っている。
心ほどの大物となると、尚更、躍起になって一気に畳み掛けてくるだろう。
だが心が潰されれば仁流会は間違いなく均等が取れなくなり、崩壊するのは目に見えている。そうなれば、この土地は大荒れになる。
「…くそったれが」
相馬は深く慨嘆し、重たくなった瞼を閉じた。
深い眠りに入り込みかけた時、携帯のアラームが鳴り目が覚めた。あのまま眠りについた様で、相馬は重い身体を起こし携帯のアラームを止めた。
まだ眠りについて数時間しか経っていないが、今日もクライアントとの打ち合わせがある。
鬼塚組のフロント企業は、極道が経営しているとは思えないほどの大企業である。その経営を一手に担っているのが相馬だ。
極道は今時シノギだけで食べていけるほど、世の中は甘くない。少しでも法を犯せば、ここぞとばかりに御上が首を取りにくる。
暴対法で管理者責任が出来、何かあればトップに君臨する心が捕まる羽目になる。
暴力と脅しでしか生きてこなかった代紋掲げた老舗の極道は、次々潰されてきた。
そうなる訳にはいかない。
一般企業と同じ様に抱えてる構成員と準構成員、フロント企業の社員を全て合わせれば数万の規模となる。
それぞれに家族があり、それを含めるとその数は倍に跳ね上がる。それを守る責任が相馬にはあるのだ。
相馬は徐に携帯を取り出し、目的の番号へダイヤルした。まだ眠っているかと思われたが、相手はワンコールで電話に出た。
「私です。眞澄さんは?」
『ホテルへお送りしました。念のため、岡井達にホテルを見張らせています』
電話の相手は成田だった。
眞澄への対応を押しつけたまま、報告を聞かないでいた。事の発端は眞澄だというのに…。
「そう…。成田…今日、暇をやるから静さんの相手を頼みたいんだが?」
『え!自分がですか!?』
唐突の相馬の頼みに、成田の声が裏返る。
「ああ、ちょっと様子がおかしくてな。眞澄さんに何か言われたのか…。あの状態のまま壊れられでもすれば、鬼塚が暴走するからね」
静の何がどうおかしいかより、”鬼塚が暴走する”という言葉に成田は震駭した。
『でも…自分なんかが静さんと居た方が、組長は腹立つんちゃいますか』
心が誰か、他人を囲うことなど未だかつてなかった話だ。まして男が相手となると、それが気紛れなどではない事は否が応でも分かる。
極道のような男社会では珍しくはない事でも、心ほどの地位がある人間の場合、後先考えてもリスクが高い。
だが心は誰が見ても明らかなくらい、静に執着していた。その静の相手をしろと言うのだから成田にとっては至極、遠慮したい命令だろう。
「あては他にもあるんだけどね、それは私がイヤなんだよ。眞澄さんがこちらに居る間は危険が伴うし、護衛が要るでしょ。何人かつけていいから」
これはもうパワハラかもななどと思いながら、相馬は成田に悟られぬよう口元で笑った。
『はぁ…わかりました』
渋々という感じで成田は了承し、相馬と入れ替わりで静に付く手筈で通話を終えた。
“あては他にある…”
それは静が絶大の信頼を置いている、桜庭 暁のことだ。だが、眞澄が勘付いてここに来たということは、静の存在が外部に漏れ始めた可能性が大きい。
ただでさえ特定の相手を作らず、そういう類の店に行っても一流のホステスを無視して酒を飲むような男だ。
心は何をするにも煩わしいと、なかなか動かない男だ。親である風間の元へ行くのも、幾度となく言われ、ようやくというほどに動かない。
その心が精力的とまではいかないが、動き出している。
これは何かあると勘付かれても、それは仕方がない事だ。その一番手が眞澄だったということ。
もし暁と静が一緒に居て何かあったときに、組員が真っ先に守るのは静だ。そうなった時に、暁が傷つくことだけは許せないことだった。
そう、心が静という固執する相手を見つけたように、相馬もまた暁に惹かれていたのだ。
「私情は持ち込まない主義だったのになぁ…」
誰に言うわけでもなく、相馬は一人呟くと目元を手で覆った。
それから数時間経って、成田がやって来た。が、その姿に息を吐いた。
タイトな黒のスーツがいかにもその筋の者と語っていて、相馬は着替えてこいと成田を追い出した。
護衛と思ったのだろう。なので成田は正装をしてきただけのことなのかもしれないが、静に息抜きをと考えていたのに、あれでは警戒してしまう。
だがアクシデントとはいえビル内をうろついて、出会ったのが成田だったことはラッキーだった。
他の組員は強面の、いかにも血の気の多い連中。あんな連中と会えば、静は部屋から出ないようになってしまう。
程なくして、パーカーにジーンズという出で立ちの成田が申し訳なさげに来た。そうそれ、初めからそういうので来てくれれば良かったんだよ。
相馬の疲労困憊した顔つきに、成田はぐっと唇を噛み頭を下げた。
「すんません!えらい時間とってもうて!ちゃんと聞いとれば良かったんですけど!」
「うるさいよ、静さんまだ寝てるから大声出さないで」
「はっ、すんません」
部屋に通されて、主の居ないキングサイズのベッドを見た成田は首を傾げた。
静は寝ていると言ったが、ベッドは空。奥は心の書斎しかなく、こんな生活感がない空間で過ごす心を舎弟内で心配すらした。
その部屋で、唯一、横になれるのはキングサイズのベッドと大きな応接セットについたソファくらい。だが、その何処にも、静の姿はなかった。
「静さん…」
「ああ、クローゼット」
「…は?」
「クローゼットに居るよ」
成田は自分の耳を疑った。
しかし、確かに相馬は静はクローゼットに居ると言った。着替えてるのか?とも思ったが、先ほど大声を出して静が寝てるのに!と怒られた。と、いうことは…。
「静さん、クローゼットで毎日寝てはるんですか?」
疑問を声に出すと妙にスッキリする。
そうだ、静はクローゼットで寝てるのだ。こんなフカフカのキングサイズのベッドがあるのに…。
「だから?」
相馬のいつになく低い声に、ハッとする。
余計なことは聞くな。言葉に出さなくても、相馬の全てがそう語る。
その鬼塚組若頭の目に見えない威圧に、成田はぐっと押し黙った。
「今日は私も西本建設との打ち合わせあってね、ここへ戻れるのは夜中になりそうなんだ。成田は静さんが行きたがるとこ、連れて行ってあげて。あ、崎山達を一応目立たないように護衛につけて」
珍しく苛立っているのか、早口の相馬に成田は背を正した。
こんなにあからさまに苛立っているのが分かる相馬は初めてだった。“沈着冷静”がスーツを着ているような男だったのに、この苛立ちようは一体。
「何かあったら大池に電話入れてください。折り返します」
スーツのジャケットを羽織り、初めて見るのではないだろうかノーネクタイ姿で相馬は立ち上がった。成田はそれを見て、深々頭を下げる。
それからドアの閉まる音がして、成田はとんでもない仕事を任されたと身体の血の気が引くのがわかった。
ヤバい、これはかなりヤバい。そんなことを考えながら、成田は緊張のまま部屋を見渡した。
舎弟の兄貴分と言えど、組長である心のプライベートルームに一人で入るのは初めてで、しかも、家主の心も若頭の相馬も不在。
居るのは心が囲っている静だけで、その静もクローゼットで眠っていて、いつ起きてくるか分からない。
ソファに座って待つべきかとも思ったが、師弟関係に厳しい世界で育ってきた成田は心が不在の今、誰の許可なく指一本動かすことさえ至極迷う行動であった。
何故、こんな事を引き受けたのか。そもそも、が起きるまで、相馬も部屋に居てくれればいいのに…。
だが自分を静に当てるくらいだ。相馬の多忙さは、成田の想像を遥かに超えるほどのものなのだろう。
崎山を護衛に付かすと言っていたが、崎山は本来は相馬の右腕的役割の男だ。
その崎山までこっちに回すほど、何か拙い状態なのか…。
「あかん…吐きそう」
心は居ないのに心の香りだけが纏う室内は、まるで本人がそこに居るような緊張感が醸し出される。
自分より年下だというのもしっかり分かってはいるが、あの雰囲気だけで人を惹きつけ酔わすカリスマ性は成田の憧れだった。
先代が急死し、関西に預けられてる息子に継承の声がかかったと聞いたときは、ほとんどの構成員が“先代の息子”の存在を知らずに居たので、困惑した。
しかし、盃の時の威風堂々たる心の姿に、皆が皆、“いける!”と拳を握った。
組を抜けた者も居なかったわけではない。
心の年齢に困惑しなかった者が、居なかったわけではない。
だが、鬼塚組は確実に成長を成し遂げている。
ガタガタと静かな部屋に音が響き、成田は姿勢を正した。ガチャと部屋の奥の観音開きのドアが開き、寝惚け眼の静が姿を現した。
その静の格好に成田は安堵した。ハーフパンツにパーカーと衣服はしっかり纏われていた。
静の背後に衣服が見えることから、本当にウォークイン・クローゼットの中で眠っていたようだ。
「おはようございます」
成田の存在に気が付いていない静に声を掛ける。その声に一瞬身体を震わせた静が、成田の方にゆっくりと視線を向けた。
“あれ?”成田は向けられた視線に違和感を覚えた。何か違う。
昨日、成田が逢った静とは明らかに何かが違う。
だが静に逢って二回目の成田には、その“何か”が分からなかった。
「成田、さん?」
なぜ成田が居るのか分からずに、静はきょとんとした。
「昨日、俺と話したい言うたでしょ、気分転換がてらどっか行きましょか?」
「…へ?」
「天気もええし、外行くんもかまいません。何か要望ありますか?」
静は醒めきらない頭に、パズルのピースを嵌める様に一つ一つ言葉を嵌めていく。
何故、此処に成田が居るのか。今、成田は何と言ったのか…。静は覚醒するために、頭を振った。
「どうして此処に、成田さんが居るの」
一番の疑問と言っても過言ではない。心も居ない、相馬の姿さえも見えない部屋に成田が居るのが不思議で仕方がない。
「いやぁ、昨日お相手出来んかったし、今日、自分ちょうど休みで。若頭に聞いたら若頭が今日めっちゃ忙しいから、何やったらどっか行ってこい言わはって」
半ばヤケクソの理由だが、まさか本当の事を言うわけにもいかずに成田は頭を掻いた。
「出て…いいの?」
「構いません。どっか行きません?」
自然に至極自然に、疑われないように成田は笑って見せた。
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