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第16話

「そんなら行きまひょ、お姫さん」 血塗れで意識のない成田を放って、眞澄は静の腕を引いて歩く。静は、その成田を何度も振り返った。 水族館の前の大通りに周りの景観とは不似合いな何台も黒塗りのベンツが停まり、眞澄達を出迎えた。 眞澄はちょうど真ん中のベンツに静を押し込むと、自分も乗り込んだ。 「…お前…最低だ」 後部座席に押し込まれた静が、ギリッと音が出る程に歯を噛みしめ膝の上の拳を握りしめた。 「最低でかまへんわ。やて、お前が一緒に来はるって言うたんやけどな」 「お前!」 「ちゃうん?ん?」 眞澄は静を侮蔑した目で見て笑うと、煙草を銜えて馴れた手つきで火を点ける。心のそれとは違う香りに、静は唇を噛んだ。 「何がしたい」 「別に、これといってはなぁんもあらへん。ただ、心が骨抜きにされた身体なんやったら、味わっときたいって思うやろ」 くつくつと喉を鳴らして笑う眞澄に静は愕然とし、目の前が真っ暗になるのを感じた。 静かな病棟に何人もの高い靴音が響く。その中央に居る相馬は、珍しく硬い表情をしていた。 会社でプレゼンを受けていた相馬は、崎山からの緊急電話に仕事を他の者に任せて会社を飛び出した。 その電話の内容は、到底、信じ難く耳を疑うものだった。 成田は組員の中でも腕っ節のいい男だ。その成田がやられ、静が攫われた。 静の様子がおかしいからと外出を許可したが、こんな事態になるとは浅慮だった。 特別階にある病室の前に、数名の組員が見えた。組員は相馬を見ると一斉に頭を下げた。相馬はそれに目を向けることなく、ノックもせずにドアを開けた。 「若頭!」 中に居た崎山達が慌てて立ち上がる。その表情を見て、相馬は舌打ちをした。 「…成田」 ガラス張りの向こうに、管だらけの成田が眠る。その周りでは看護婦や医者が忙しなく動き原型がないほどの成田の顔に、相馬が顔を顰めた。 「申し訳ありません。自分のミスです…」 崎山は深々頭を下げ、他の組員も頭を下げる。相馬は嘆息して、腕を組んだ。 「で、相手は?」 「はい、今…芝浦たちが俺らに絡んで来たチンピラ締めてます。ですが、無関係のようです。金で買われたみたいで」 「眞澄さんはホテルは?」 「佐々木達が朝、関西に向かって帰るのを確認しています。京都まで一緒に行った訳じゃありませんが…」 「そうか」 眞澄がここまで馬鹿なことをするとは思えない。大体、心の逆鱗に触れるとどうなるのか、眞澄も知らないわけではないだろう。 なら誰が静を?静の存在を知っている人間が居るとすれば、まさか大多喜組の残党か? 静と心が知り合ってから、まだ時は浅い。組員ですら静の存在を知らない人間も居るのだ。 限られた人間しか知らないなかで、静が攫われるとはどういうことか。もちろん、外部に静のことが漏れるようなヘマをするようなことはない。 なら、どうやって静の存在を掴んだ?どうやって今日の行動を知った? 相馬は乾いた唇を指で撫でた。 「そこ、防犯カメラはないのか?」 「あ、ないって言ってたんすけど駐車場のガードマンを捕まえて聞いたら、四台くらいベンツが停まってたって」 崎山の隣にいた相川が口を開くと、崎山が鬼の形相で睨みつけた。それに相川はあたふたとし、話し始める。 「一瞬っすよ?ずーっと停まってた訳じゃなくて、ざーっと来て、さーっと帰ったみたいな?」 「ナンバーは?車種は?」 「いや、そこまでは…聞き込み周りますか?」 「早く行け!行き先だけでも掴んで来い!」 相馬は言うなり壁を蹴り上げた。それに相川達が驚き慌てながら蜘蛛の子を散らすように、部屋から出て行った。 無理もない。相馬がこんなにも感情を露わにする事は、未だかつてないことだからだ。 そう、恐らく初めてだろう。 感情のまま暴走するのはどちらかと言えば心の方で、相馬はいつでも沈着冷静で、あの全てを見透かすような笑みを浮かべ傍観している。 それが鬼塚組若頭、相馬北斗だった。 「チッ、くそったれが…」 小さく呟き、壁を拳で殴った相馬を一人残った崎山は信じられないものを見たような瞳で見た。 こんなにも激昂している相馬は見た事がない。それが今起こっていることの重大さを如実に表しているようで、崎山はこれから起こるであろう状況に畏怖した。 「あの…組長には…」 「もう少し待て。風間の所に居るのに、こんな事が知れたら…。あっちも今、小さい戦争起こしかけてるらしい。風間からしたら他愛ない戦争だろうけど、鬼塚がこの事知れば必ず狂う。俺は今、鬼塚の近くに居る訳じゃないから、そうなった時に鬼塚を止める人間が誰も居ない…」 いつもの穏やかな口調もなく、相馬は唇を噛み締めた。 一体、静を連れ去ったのは誰なのか、鬼塚組を快く思っていない人間は少なくない。仁流会の中にも外にも、鬼塚組を潰したいと思っている者は多いだろう。 だが今、組の勢力は増す一方だ。どこの組からみても力の差は歴然で、そんな愚かな真似をする組があるとは到底思えなかった。 「成田の容態は?」 「肋六本と顎の骨、肩を外されて、内臓に血が溜まってました。人気無いところに逃げ込んだみたいで…頭も結構強く殴られてるみたいで、今日がヤマだと。どう見ても、プロの仕業だと思います」 崎山は、身動き一つ取らない成田を見つめながら淡々と答えた。 「お前も悔しいだろうね」 「そう、ですね。コマに気を取られて本命に逃げられ仲間やられたら、やっぱり面白くないし…」 二人は目も合わせずに、成田を見ながら話した。 成田が目覚めれば、一体誰が自分をこんな目に遭わせ、静を攫ったのか聞き出せる。 だが完膚無きまでにヤられた成田が、今日明日に目覚めるか…寧ろ、目覚めるかさえ疑問だった。 あれから何時間走っただろう。すっかり薄暗くなった空を見ると、長い事、車に揺られてるのがよく分かる。 車窓から見える景色はどれを見ても見知った景色には程遠く、低い建物が軒を連ねていた。遠くには寺院が見え、ここが京都だという事は標識で分かった。 だがそんな景色を楽しめる訳もなく、静の頭には血塗れで倒れる成田の姿がこびり付いていて離れなかった。 成田は大丈夫なのか、それが気がかりで仕方がない。静を攫った超本人、眞澄はずっとあちこちに電話をかけていて、車内のBGMは専ら眞澄の声だ。 「あー、しちめんどくさいな。しんど」 眞澄は電話を切ると、窓の外を眺める静の髪を撫でた。 「触るんじゃねーよ」 静はその手を払い退けると、眞澄を睨みつけた。眞澄はそれを鼻先で笑うだけだった。 「京都は初めてなんか?」 「だったら何?観光案内でもしてくれるの?」 「観光?何を言うとるん。あんたの住まいになるんやし。わしがあんたを心にかやすと思ってるん?」 笑顔で言う眞澄に、静は背中が寒くなった。 瞳は笑っているのに、どうしてこんなにも恐怖を覚えるのか。長年、極道を相手にしてきた静は、それが非道の顔だと言うのが瞬時に理解出来た。 「俺を攫って、アイツにダメージ与えるのは無駄だぜ」 「はぁ…何やて?」 「お前が言ったんじゃねーか。アイツが味見してこいって言ったって。俺はアイツにとったらそれくらいの価値なんだから、ダメージなんか何も与えられねーよ」 「はっ、せやったせやった。忘れとったわ」 眞澄は手を打った。 これはどういうことか、自分がどれだけ執着されてるのか気が付いてもないということか。まさか、あんな大嘘を間に受けるとは。 今まで一人に固執した事がなかった心は静に素直に気持ちを伝えてなかったのか、眞澄のバカみたいな嘘を素直に受け入れていた。静の人を疑わない人間性か、自分が余程、饒舌だったのか。 どちらにしても、それが殊更可笑しくて腹の底から笑いたくなるのを必死に堪えた。 「やて、相馬のプライドはぐちゃぐちゃやのぉ。下手したら破門かいなぁ。まぁ、相馬なしにして組は成り立たへん。崩れるかもな」 「何で相馬さんが!お前、成田さんまでボコボコにしたじゃねーか!」 今にも噛み付こうとする静に、眞澄は冷笑する。 「心のおらん今、責任者は相馬や。何や問題おしたら責任取るのは当たり前や。成田も、わしの精鋭部隊にやられて気の毒になぁ…」 「ざけんな!人数にものいわせやがって!卑怯もんが!」 その静の言葉に、眞澄の双眸が獰猛さを見せた。 「当たり前じゃ。お前が相手しとるんはヤクザや。ヤクザが卑怯でなんが悪い」 至極、それが正当とばかりに眞澄は言い放った。 “極道”が“卑怯”なのは百も承知。それでは心は?心が卑怯ではないなんて果たして言えるのか。 いや、言える訳がないし、そう思うのは難しい。極道は極道なのだ。 「俺は…」 間違えたのか?と、静は眞澄が気がつかないようなか細い声で呟いた。 静の居所も掴めないまま、二日が過ぎた鬼塚組は喧々囂々としていた。 すぐに分かるかと思われた相手だったが、ベンツもありきたりのC250で、それだけでは判別出来なかった。 唯一の手掛かりである水族館の近くにあった防犯カメラには、ナンバーも映ってなければ人数が分かる程度の解析画像で、人相の識別が出来る訳でもなく、まさに八方塞がり。 それに誰しもが苛つき、焦慮していた。 手掛かりである防犯カメラが役に立たない今、出来ることは聞き込みくらい。だが大きな手掛かりもなく、時間だけが虚しく過ぎていった。 一体誰が攫ったのか。攫ったなら攫ったで何らかのアクションがあってもいいが、何のアクションもない。 ただ静を攫っただけ…。あまりにもやり方が狡猾過ぎる。 何も掴めないことに相馬の苛立ちはピークで、見た目は飄々としては居るが普段は吸いもしない煙草を喫み、スーツも着崩しているのを見ると誰一人として相馬に話し掛けれる訳がなかった。 一緒に居る崎山も同じで、一向に意識を取り戻さない成田を見る度に、なぜすぐに駆けつけれなかったのか自責の念にかられていた。 「鬼塚に電話するよ」 「…え?」 突然の相馬の提案に、崎山は耳を疑った。ついに、来るべき時が来たのかと頭を抱えた。 「これ以上は、静さんが危ない」 狐疑逡巡して静にもしもの事があれば、それこそ取り返しがつかなくなる。最悪の事態を避けるためにも、いや、もう遅いかもしれないと相馬は舌を鳴らした。 「…若頭」 徐に携帯をスーツから取り出し、一息おいて相馬は心の番号をダイヤルした。電話嫌いの心が出るだろうかと思われたが、意外なことに3コール目で応答があった。 「お疲れ様です。今、よろしいですか?」 至極、落ち着いているように見える相馬に、崎山の喉は異常に乾いていた。横目で相馬の表情を覗き見ながら、自分が恐怖に震えているのが分かり嘲笑した。 電話の向こう側の心が、この事態にどういう反応をするのか想像がつかなかった。激昂はするだろうが、それがどれぐらいのものなのか。 若い当主は何事にもものぐさで、極端なことを言えば怒るのも面倒くさいというような男だ。なので拳を他人に振り下ろしているところを見たことはあるものの、激怒しているところは見たことがないのだ。 そう、人に拳を振るう時でさえ、実につまらなそうな顔をしているのだ。 今回、静が攫われた責任は自分にもある。護衛までつけておきながら、いとも簡単に掻っ攫われた。 情けなさと悔しさでいっぱいになりながら、心の行動が読めずに慄然としてしまうのが、また情けなかった。 『何や、こっち来てまで仕事の話はいらんで』 何も知らない心が、呆れた様に返事をする。それに相馬が一息ついた。 「静さんが攫われました」 明澄な声で前置きも無く発せられた言葉に、隣に居た崎山の身体がビクリと震えた。 『…ああ?』 「帰ってこれますか?」 相馬に返事をすることなく、電話は切れた。相馬は切られた携帯をテーブルに滑らせ、煙草を銜えた。 「あの…頭は…?」 「切れたよ」 「え?」 「空港かな」 「は?」 「帰ってくるよ。すぐに帰ってくるだろうから、飛行機だね、きっと。相川達を空港に向かわせて」 「はい!」 崎山は聞くなり部屋を飛び出し、携帯を手に取った。 「相川?空港行け。頭が帰ってくる!」 静まりかえった部屋で、相馬はぼんやりと天井の天使を眺めていた。長い付き合いだが、そうされると感じたことはなかった。だが、今回は…。 「…殺されるかもねぇ」 相馬は失笑し、ジャケットの内ポケットからプライベート用の携帯を手に取る。リダイアルボタンを押すと、見慣れた番号と名前。 最後に会いたかった…と、相馬は寂しげに笑った。 二日前、訳も分からないまま静は生まれて初めて京都に来た。 首が痛くなるほどの門構え。開けられた門の両側に極道と思われる男達が、綺麗に45度に腰を曲げて車を出迎える。 放たれた門の向こう側には金殿玉楼と言っても過言ではない壮大な家屋があり、静を圧倒した。 「オマエやっぱりヤクザなんだな」 「今更かいな。あー、そうや、わし、あんたに名前言うてなかったな。鬼頭眞澄や。仁流会鬼頭組若頭、鬼頭眞澄」 「え、仁流会って」 「仁流会や。ほんで、心の従兄弟や…」 ニヤリと笑う眞澄に、静は目を見開いた。 従兄弟と言われると、納得してしまうほどに似ていることは似ている。だが従兄弟と言われると、ならばどうしてという疑問が一気に湧き上がった。 「従兄弟って、そんな、どうして?お前、従兄弟同士のくせにこんな事すんのかよ!成田さんあんな目に遭わせて!」 喚く静の胸倉を眞澄が乱暴に掴み、ドアに身体を押し付ける。容赦なくされたそれに、静の息が詰まった。 息がかかるくらい近くにある眞澄の、精悍な双眸が静を捉える。 「極道に血や家族や、そない綺麗事が通用しはると思っとるんか?極道にあんのは、どこまで上にのし上がれるか、それだけや。あないなクソガキん心が仁流会の会長補佐やなんて、笑けるやろ。わしはな、心を鬼塚組組長から引き摺り下ろして、あいつが悔しがる顔を見たいんや」 その瞳の奥には、恨みや憎しみが一緒になって渦巻いていた。静はそれにただ、困惑した。 どうしてそこまで恨むのか、憎むのか。 眞澄は静のその表情に満足したのか、静の胸ぐらから手を離し、鼻先で笑った。 すると車が停車し、眞澄は静の腕を掴んだまま車から降りた。半ば引き摺り下ろされるように車から降ろされ、静は足元が覚束なかった。 そんな静を眞澄は無理矢理歩かせ、玄関に放り込んだ。石畳の敷き詰められた、だだっ広い玄関に静が崩れる様に転がる。強かに身体をぶつけ、静は顔を歪めた。 「御園、静や。奥に入れとけ。ちょい親父のとこ覗いてくるし」 「乱暴やねぇ。行ってらっしゃい」 眞澄はそう告げると、出て行ってしまった。取り残された静は恐る恐る顔を上げ、目の前に立つ男を見上げた。 そして、拍子抜けした。若い男だった。この家に居るのだから組の人間なのだろうが、訝しんでしまうほどに似付かわしくない風貌。 ボサボサの髪に眠そうな双眸。パーカーにジーンズ姿の出で立ちは、極道というよりは浪人生の様にも見える。 「…あの」 「大丈夫?堪忍ねぇ…。あ、俺ね、御園。御園斎門。これでも鬼頭組の人間やさかい、よろしゅうに」 京言葉独特の柔かい口調に、眠たくなる様な間延びした話し方に思わず力が抜ける。御園はしゃがむと肘に膝をついて、へらっと笑った。 「御園…さ、斎門?」 「あ、今、けったいな名前やて思いはったやろ。せやかて、これ、坊はんにつけてもろた名前やよ」 「坊はん…」 「せや。俺の実家なぁ、お寺はんやの」 調子が狂う相手だ。家業を継ぎ間違えてるのではないかと思わず言いたくなったが、相手は間延びした言葉を話すにしても極道だ。ここで息巻いても、得策ではないだろう。 「あんはん、心はんのとこから来やはった?」 「…ああ」 「心はん、趣向変えたんかいな。ほんま、あん人だけは謎やわ…。せや、北斗元気?」 「北斗って…相馬さん?知り合い?」 「んー。知り合いってゆーか、北斗が世界で一番かなん(嫌いな)男が俺らしいわ。酷いやんねぇ」 楽しそうに言う御園に、静は合点納得した。 この少しの会話で感じた印象から、相馬とは正反対の人間であるということだろう。いうなれば、適当。 嫌いかどうかは知らないが、恐らく、苦手な人間であることは確かだと思う。 静は掴み所のない御園に、どこか警戒をした。

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