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第20話

心と相馬が帰ってから、静は眞澄に引き摺られるように小部屋から出された。 部屋に残る微かな心の香りに、静の気持ちがグラリと揺れた。 「ここな、まだ人が腰に刀ぶら下げて歩いとる時代からある家やねん。さかいに、こへんな隠し部屋よーさんあるんやで」 畳に静を転がし、静の白い首筋に吸い付きながら眞澄が話す。 心が嗅ぎ付けて来たと思って早々に静を陵辱してしまおうとしているのか、ゆるりとした愛撫をしだした。 だが静は何の反応も見せずに、なされるがままという事に眞澄がイラついたように頬を打った。 「ええ加減にさらせ!どんだけ意地張っとんねん!飯食わんと、寝らんで、わしへの当てつけか!」 胸倉を掴み怒鳴る眞澄に静はふんっと笑った。眞澄の行動が、静には焦慮している様にしか見えなかったからだ。 「何を焦ってんの?アイツが来て、焦ったか?」 妖艶な表情で静がくつくつ笑いながら言った。今まで全く生気のなかった目に力が宿る。 まっすぐ見据えるその双眸には、恐れも迷いもない。これが本来の静の姿か。 自分は眞澄の手中にあるというのに、静の表情は微塵もそれを感じさせなかった。 「このっクソガキ!」 その表情を見た眞澄は構いもせずに、静を殴りつけた。静の羽の様に軽い身体は、力一杯畳に叩き付けられた。 だが静は特段声をあげる事もなく、恐怖に震えることなく眞澄を見返した。 「お前、そんなんじゃあダメだろ。仮にも若頭のくせに…」 極道相手に長い間、ただ借金を返済してきた訳ではない。 酸いも甘いも噛み分ける”極道”というのが、どういう人間か。どういう人間が極道の中で上に伸し上がるのか、見極める目を自然と養って来た。 今、目の前に居る男が”若頭”としてどこまで通用するのか、静はこの時点で見極めたのだ。 「貴様…」 眞澄は静の言葉に、顔を顰めた。 「図星か…」 ゆらりと静が上体を起こし、目の前の眞澄をじっと見た。 痩せて、もともと線の細い静は殊更、繊弱そうに見えた。繊弱そうなのに、凄艶さも醸し出す静の双眸に眞澄は苛立を覚えた。 どこか、自分を卑下している様に見えたのだ。 「鬼頭組…若頭が笑わせる」 「おんどれが!」 そう吐き捨てた静の顔を、眞澄は躊躇うことなく蹴り上げた。 静の口腔から血が飛び畳を汚した。それでも眞澄の怒りは治まらない様で、転がる静の髪を掴み上げた。 「眞澄!あんた、何したはるん!やめぇ!!」 物音に気がついた御園が部屋を覗き声を上げ、静に拳を振り上げる眞澄を制した。 「眞澄!暴力はあかん言うたやろ!静は堅気ぞ!何をしよる!!」 「じゃかましい!!どけ!御園!このクソガキ殺したる!!」 御園が静を庇う様に抱き締め、片手で眞澄を制したが眞澄は静の腕を掴みあげる。 荒れ狂う眞澄とは対照的に、御園の腕の中の静は抗う事なく掴まれた腕を振り解こうともしなかった。 「やめれ!!秋本!秋本!いーひんのか!眞澄連れていけ!!!」 御園の声に、組員が何人か騒然とする部屋に飛び込んで来た。 だてに鬼頭組の若頭を務めている訳ではない眞澄は、こうして暴れると手がつけられなくなる。 このまま静と居させれば間違いなく静を殺してしまうか、重傷を負わしてしまう。 堅気の、しかも鬼塚の息のかかった人間をそういう目に遭わすのは、のちのち厄介だと御園は打算した。 「若頭!!」 「離さんかい!!御園!そいつ寄越せ!!!クソガキがぁぁぁああ!!!」 数人の組員に羽交い締めにされながらも、眞澄は殺気立った瞳で静を睥睨した。 「阿呆!!頭冷やせ!静殺したら、心はんにこれがバレた時にどへんなるか!!」 「フンッ…だっせぇ」 静が自分を抱き締める御園の腕を解き、血の零れる口を拭いながら呟いた。 眞澄は引き摺られるように部屋から出され、部屋に静寂が戻った。御園は、ほうっと息を吐くと、血を拭う静の顔を覗き込んだ。 「堪忍え」 静の口の端は、既に青黒く変色していた。 肌の色が薄い分、それが痛々しい程に目につく。酷く痣になるかもしれない。 御園はその唇を指で擦った。 「…止めなくても良かったのに」 「ん?」 「アイツに…大多喜組の借金片づけられて、何か糧がなくなって。今こうなってるのに、助けて欲しいと思って思い浮かべるのはアイツの顔で。でも、俺にはヤクザは恨みの相手で…どうしたらいいのかわからない」 眞澄に殴られ蹴られても凛としていた静が吐き出すように言うと、はらはらと落涙した。それに御園は、フッと柔らかい笑みを浮かべた。 「心はんが好きなん?」 「…え」 御園の言葉に静が困惑した表情を見せた。 「心はんが好き言うてるみたいに聞こえるで…」 「…ちが」 「でも、心はんはやめとき」 「…え」 「あへんに非情な男はおらんし、あへんに他人に関心持たん奴はおらん…。母親から離されて無理矢理に連れてこられても、ヤクザばっかりの世界に放り込まれても、眉一つ動かさんかった男や。人の首跳ねたかて、そらおんなじや」 「何…」 「静が今まで相手してきた大多喜組とは、ほんまに訳がちゃうよ」 御園の言葉に静は身体が固まり、全く動かなくなった。 大阪の一等地、閑静な街並に一際目を引く屋敷が建っていた。仁流会総本部総代、風間組組長風間龍一の屋敷だ。 秀麗な門構えで中の屋敷まで見えないが、観音開きの扉を開ければ馬に乗った侍が出てきても不思議ではない。 その観音開きの扉はまた重厚で、年月を物語る木目の年輪がまた風情だ。その門の前に、心たちの乗ったカイエンがゆっくりと停車した。 「お待ちください」 心に一言言うと相馬は車を降り、カメラ付きのインターフォンを押した。カメラで相馬が確認できたのか、門は静かな音を立て開いた。 やはり馬に乗った侍が出て来そうだなんて思いながら、相馬はカイエンに戻るとゆっくり門を潜った。 石畳が屋敷まで長く続いている。適当に車を停めて、心と相馬は二人で本家へ歩いた。 敷地内には分家まで建てられており、そこには幹部構成員と秘書が在住していた。 風間の家は所謂名のある旧家だった。明治の前の時代からここに屋敷を構えていたため、屋敷の敷地面積も半端ない。 名のある旧家が極道になった謂われはあまり知られていないが、どうせろくな話じゃないだろうと、いつか心が鼻で笑っていたのを相馬は思い出した。 「おいでなさいまし」 低い複数の声が心達を迎える。 黒いスーツを身に纏った男達が、花道のごとく並び頭を下げていた。心はその男達に構う事なく、屋敷に近づいた。 「珍しい客やなぁ」 声が響き心の肩越しに前を見ると、風間組の若頭補佐の梶原秀治が驚いた顔をして立っていた。 梶原が驚くのも無理はない。風間の本家を訪ねる人間など、ほとんど居ないのだ。しかもアポなしで。 「オヤジおる?」 「おんで。暇こいてるからなぁ。相馬も久しいなぁ」 「ご無沙汰しております」 挨拶もそこそこに、心は屋敷にずかずかと上がり込む。 眞澄の居る屋敷も鬼頭が古くから持つ屋敷で趣があるが、こちらは桁が違う。 まず敷居を跨ぎ一番に目に飛び込むのが、虎と龍が絡み合い闘う絵の描かれた屏風だ。金箔が雨のように降り、虎の身体に食い込む龍の牙も龍の身体に食らいつく虎の牙も、今にもこちら側に飛び出てきそうな勢いだ。 心はその屏風を気にすることもなく、勝手知ったる他人の家の如く奥へ進む。 本当にこの男には礼儀たるものが微塵もない。”作法”とか”礼儀”を教える人間が居なかったと言えども、ここは会長の自宅でこちらはアポなしの突然の訪問だ。少しは悪びれろと、相馬は心の中で心を叱責した。 縁側から見える庭には立派な松ノ木が立ち並び、今も庭師が手入れをしていた。日本人の性か、そういう風景が酷く心を落ち着かせる。 「そこや、心」 後ろに付いて歩いていた梶原が、心に言う。 屋敷の人間よりも前に歩くという事すら、相馬には理解出来ない。普通、人様の家に来れば主が何所に居るのか分からないので、家の人間が前を歩き案内するだろう。 そもそもどこに何の部屋があるのか分からないし、客人である自分が前を歩くことは普通に考えてもおかしい。だが、心は梶原にそれをさせなかった。 理由は簡単だ。誰かに前を歩かれるのが、基本的に嫌いなのだ。 「…邪魔すんで」 言われた場所の障子を一言声を掛け、返事も待たずに心は開けた。 広い客間に将棋を打つ音が響く。相馬はおのずと心拍数が上がるのが分かった。 「何や心ないか。突然どないした。何ぞ、用か」 心達に背を向けたまま男が放った声は、低く嗄れてはいるものの重みのある声だ。声だけでその気迫を感じてしまうそれは、心にはないものだ。 「用がなかったら来ん」 心はそう言うとズカズカ部屋に入り込む。この男には本当に礼儀作法を叩き込まねばならないと、相馬は人知れず強く思った。 「失礼致します」 まるで悪さをした子供に叱咤するような目を向けながら、相馬は部屋に入った。その後から梶原が入り、ゆっくり障子を閉めた。 「何や相馬か、珍しい。お前と会うんはいつぶりや」 パチンと将棋の駒を将棋盤に置くと、背を向けていた男は心達の方へ身体を向けた。 鷹のような鋭い眼孔に、年相応に彫り込まれた皺。着物の合わせからのぞく胸板は、年を感じさせないほどに厚くしっかりと鍛えられていた。 仁流会総代、風間組組長 風間龍一。今、日本の極道界を牛耳る男だ。 「先代の鬼塚の葬儀と、六代目の襲名式の時にお会いしたのが最後です」 物怖じする事なく堂々と立つ心の後ろで、相馬は深く頭を下げた。 「ああ、せやなぁ…。で、どないした」 龍一は梶原に目を向けると、梶原がすかさず煙草を一本差し出し火を点けた。 それを見た相馬は、自分は死んでも心にこれはしたくないと思った。 「鬼頭と戦争させてくれ」 前置きもなく発した心の言葉に、相馬は場所が場所なら心の頭を張り倒したいと思った。 聞いた梶原は驚いた顔をしているが、放った心は意気揚々としている。龍一はと言えば、動じることなく相馬に目を向けた。 「お前、首どないした」 紫煙を吐き出しながら、龍一が相馬の首に巻かれた包帯に目を向けた。 「ヘマをした代償です」 「お前、将棋は出来るんか?」 龍一はそれ以上、聞き出そうとする事なく梶原の差し出したガラスの灰皿に灰を落とす。 「申し訳ありません。チェスならお相手出来るのですが」 チェスは将棋とあまりルールは変わらないが中途半端な知識で相手をする訳にもいかず、相馬は頭を下げた。 「近頃の奴は将棋も打たんのか。梶原と打つんも飽きたから、お前とならええ勝負出来る思ったのになぁ」 「勉強しておきます」 「将棋いうんもな駒が一個でものうなったら、すぐに王手取られてまう。この小さい駒が王手護るために均衡保っとんねん」 龍一は歩の駒を徐に心に投げた。心はそれを片手で受け取ると、指で相馬に向けて弾いた。相馬はそれを受け取ると、掌の中で転がした。 「仕掛けてきたんはあっちや」 「相馬ぁ、お前はどない思う」 相馬はゆっくりと龍一に近づくと、心に弾かれた駒を将棋盤の王手の近くにパチンと打ち付けた。 「見ての通りこの鬼塚心という男は、自分勝手で傲慢知己で無作法な男です。この恣意的判断で、私達がどれほど迷惑を被って来た事か。許されるのなら今にも張り倒したい気分です。そんな男が鬼塚組組長を襲名出来たのも、仁流会の会長代行を襲名出来たのも全て総代のおかげ…。その総代の恩も忘れ、また自分勝手な理由で仁流会に内紛を招くのですから、破門されても文句は言えないと思います」 日頃の鬱憤を晴らすべく饒舌に心の不利になる言葉を躊躇わずに言う相馬に、梶原は小さく噴き出した。 尊敬し、この男の為になら命を投げ捨てるくらいの覚悟あってこその、若頭。”張り倒したい”等と宣う相馬には、それが微塵も感じられなかった。 「せやなぁ、心は昔っから儂の困ることばっかりしよる。灸据えても、すぐ忘れよる」 そんな相馬に、龍一は喉を鳴らして笑った。 やんちゃをするほど可愛いとは言うが、心のやんちゃは龍一の逆鱗に度々触れ、その都度立てなくなるまで殴りつけた記憶がある。 だが、殴られている間も声をあげる事もなく、殴りつける龍一に笑って見せたのも後にも先にも心だけだった。 「しかし、鬼塚の年であの莫大な組を取り纏め、フロント企業も軒並み業績黒字。御法度の売りやヤクは勿論の事、ファンドの方も名のある投資家に投資をもらい、どこを叩かれても塵一つ出ることはなく、極道という家業ではございますが、構成員並びに準構成員、フロント企業の社員やバイトに至るまで問題を起こした者は皆無です。これは偏に鬼塚の支配力から成り立つものかと思われますし、鬼塚を破門して孤立させれば仁流会にも大きな痛手となることでしょう」 「……」 真っ直ぐ、臆することなく相馬は目の前の龍一を見据えた。 脅しとも取れるそれ…。鬼塚組が居なくなれば、それこそ仁流会は大変な事になると言わんばかりの相馬の言葉に、心がニヤリと笑った。 「お前は…弁護士やったな」 龍一が灰皿に煙草を押し付けて相馬に聞いた。 「法廷に立ったことはございませんが、司法試験には合格しております」 「やっぱり、うちに欲しいなぁ」 「私が居なくなれば、鬼塚組が崩壊いたします」 「ハッハハ…確かにコイツの相手はなぁ。皆が嫌がりよる…。で、何があった」 腕を組み、心を見据える龍一の目がギラリと光った。 鬼頭と戦争をするというくらいだ。それ相応の理由があってのことだろうし、戦争というのは穏やかな話しではない。 そもそも理由も聞かずに内紛を良しとするわけもないし、内紛事態を良しとするわけがないのだ。 「眞澄に大事なもん盗られた」 心の放った言葉に、龍一が鼻で笑った。 「イロか…。やから相馬の首があないなことなっとんか。お前はなかなかエエもんを見つけんかったけど、それ盗られてもうたか」 大事なものを盗られたから戦争をさせろとは、理由は一つしかない。 たかだか色恋沙汰で戦争をする等とは馬鹿馬鹿しい話だが、案外その辺は年相応かと龍一は笑った。 「イロいう言い方は嫌いや」 「お前はいっつもそれや…。極道のくせに極道を否定しよる。お前がそんなんやから、龍大が真似しよる。彫りもんかて、人と同じは嫌や言うてせん。お前はどないも龍大に悪影響や」 一度、一緒にチンピラ連中の暮らす中に放り込んでから、龍一の息子、龍大は心にすっかり懐いた。 極道の世界に入る事すらどこか乗り気ではなかった龍大が、心に逢ってから変わったのも事実だが父親の自分の言う事よりも心の言う事を聞くのは誤算だった。 「もし喧嘩が始まったら、確実に鬼頭組と戦争なる」 「アホ抜かせ。この時期に戦争が出来る思うとんか。如月組ともゴタついてくる時に。大体、鬼頭はお前の叔父貴やないか…。手打ちにはならんのか」 眞澄が年下の心を敵対視していたのは知ってはいたが、心の逆鱗に触れるような事は今までなかった。 早い話しが心の場合は動き出したら止まらずに、やる事なす事半端がない無軌道な男だからだ。それは仁流会のみならず極道の世界では有名な話で、従兄弟にあたる眞澄などは痛いほど分かっているはず。 だが、その心に喧嘩を売ったという事は眞澄も覚悟を決めたのかと龍一は思った。 「俺の腹の虫が治まらん」 「せやけど、お前にイロが出来たなんか初耳やなぁ。いつ出来てん」 「最近拾った」 「眞澄に攫われてどんくらいなる?もう孕まされとるかもしらんぞ」 心は昔から容姿端麗なくせに、好き好んで女遊びをする事がなかった。それどころか、そういうのを疎ましくしているようだった。 金も自由になるのだから、毎日の様に女を変えたりしてもおかしくはない。それに組の頂点に立つ立場なのだから、早い事身を固めるのも悪くはない。 ところがそういう話を一切聞かなかった。 心はどこか変わった所がある上、年齢もまだまだ若い。 何かに縛られるのを酷く嫌う所もあるし、今はまだ自由にしていたいのかと思っていたが知らぬ間に心にもそういう人間が出来、それを眞澄が攫ったといえば、なるほど面白い話ではないだろう。 「そういう心配はいらん。俺の”イロ”は男や」 心の言葉に龍一から笑みが消え眼光が鋭さを増し、梶原は相馬の顔を見た。 「眞澄が攫ったんは、俺が囲ってた堅気の年上の男や」 心は再度力強く言うと、犬歯を見せてニヤリと笑った。

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