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第19話

「お前、もうちょっと加減しろや。可哀想に」 ウイスキーをグラスにも注がずにボトルごと口を付ける心に、塩谷は呆れたように言い放った。 呼び出された塩谷は、あらぬ現状に動じることもなく転がる崎山を手当てして、口腔を血塗れにした相川の手当を鼻で笑いながら施した。 塩谷和人は鬼塚組専属の医師である。 精悍な顔立ちに無精髭、鋭い眼光と乱暴な口調は普通の人間ではないのだろうなとは思えた。 鬼塚組専属の主治医ではあるが、モグリというわけではない。塩谷は正真正銘の国家資格を持つ医者だ。 専門は外科医らしいということだけでそれ以上の事は知られていないが、極道相手の医療なんて外科も整形もこなさなければならないので専門なんて関係がないといっても過言ではない。 「あーあ、北斗の綺麗な首に何てことしやがる!まぁ、切れ味の良いもんでやってくれたから、傷は残らないだろうけどよ」 良かったなと相馬の顔を覗き込む塩谷の顔は、どこか好奇に満ちていて相馬は顔を顰めた。 塩谷が楽しむ様な顔で治療をするのはいつもの事だが、実際に相馬が治療される事など今までなかった。 そして初めて治療をされた今思うことは、確かにこれは遠慮したいものだということか。 とりあえず乱暴。 傷を拡げているのではないかと思うほど、乱雑で乱暴な上に治療の途中で”あれ?”なんて言われると本当に大丈夫かと思ったほどだ。 道端で具合が悪くなったとしても、助けは求めたくないタイプが医者なんて世も末だと思いながら、相馬はツキツキ痛む喉に巻かれた包帯を擦った。 しかし今回は助かったのかもしれない。心はやると言えば必ずやる超特急型の有言実行者だ。なので、これで済んだのが不思議なくらいだ。 「北斗、こんなんと一緒におったら、身ぃがいくらあっても足らんぞ。放り出すなら今のうちってなぁ」 無精髭を撫でながらニヤリと笑い心に目をやるが、当の本人は至って無視を決め込んでいる。組を継ぐ前から塩谷の世話になっている心は、相馬の見たところ塩谷が苦手のようだ。 「やかましいわ、ヤブ医者。…相馬、眞澄が来たやろ」 塩谷を睨みつけ、ウイスキーをゴクリと飲むと急に相馬に言った。 「ああ、はい」 なぜ知っているのか不思議に思いながらも、相馬は頷く。 「御園は」 「来てません」 相馬は露骨に嫌な顔をして、言い放った。 「ああ、お前は御園が嫌いやったか」 その顔を見て、心は喉を鳴らして笑った。 相馬がここまで露骨に他人を嫌う事は珍しく、それがあの御園というのがまた可笑しい。 見てくれは正反対の二人だが、腹黒さや計算高さ等の”中身”は似た者同士。結局は自分を見ているような気がするので嫌いという、同族嫌悪の一種だと思う。 「好きになることはありません」 相馬は早口に言い捨てると、余程、イヤなことを思い出したのか険しい表情になった。 「眞澄は静に手ぇ出したんか」 少し低くなったトーンで言われ、相馬は心を見据えた。 この賢さは本当に感心させられる。この男には、何を隠しても無駄という事か…。 ゲームの駆け引きならばどこまで隠せるか勝負したいが、生憎今はそんな暇はない。 相馬は諦めたように心の向かいに腰掛けた。 ウイスキーの独特な香りが鼻腔をくすぐる。ジクジク痛む喉の痛みを紛らすためにこっちが飲みたいくらいだと思いながら、テーブルに無造作に置かれた心の煙草を一本取り出し火を点けた。 「眞澄さんが来てから、静さんの様子がおかしくなりました。ああ、何かされた訳ではないですよ。きちんと阻止しました…」 「相馬」 心は一言、相馬の名を呼んだ。 「はー、ベッドに押し倒されて、身体に触れてました」 相馬は長嘆し、紫煙を吐き出しながら言い放った。 心はそれを聞いても表情も変えずに、ウイスキーを口に含む。中身は水か?と聞きたくなる程の飲みっぷりだ。 「京都へ行く」 「眞澄さんは関係ないと思いますが?」 いきなりどういった了見なのか。 静が攫われた時は眞澄達はこちらに居なかったはず。それは心に伝えているのに、京都に何の用があるのか。 「何やグダグダ抜かして、あの妙な上機嫌。いやに鼻について…。大体、狙ったように俺の留守中にこっち来んのが気に入らん。京都締めといて、大阪の風間の動き知らんわけがあらへん」 鬼頭組組長鬼頭信次は仁流会の本部長だ。 その息子で鬼頭組の若頭をしている眞澄が仁流会会長補佐である心が動いてるのを知らされてない訳がないはずなのに、眞澄は“来てるとは思わなかった”と言ったのだ。 「まさか」 「あの、くそったれ」 心の周りに溢れ出すどす黒いオーラに相馬はギクリとした。 長年共にしてきたが、心の怒りに恐怖を感じることはなかった。そこまで心が怒ることがなかったというのが正解だ。 だが、今は相馬は未曾有の恐怖を感じていた。 「崎山達を連れて行きますか」 「先に俺らだけや。嗅ぎつけられたら足元掬われる」 「いつ?」 「今から」 「何で?」 「お前ので良いわ」 「畏まりました」 相馬はそう言うと、相川にキーを投げた。相川はそれを受け取ると、用意しますと部屋を出た。 「京都行くなら、”おたべ”買って来てな」 そんな物騒は話を聞きながらも、塩谷はニヤリと笑い、心に言った。 京都に来てから静はろくに食事も摂らず睡眠も取らずにいた。そのせいで、もともと線の細い静が触れば脆く壊れそうな位にやつれ、眞澄は苛ついた。 触れても人形のように表情を変えず、こっちが萎えてしまう。抵抗も見せず表情も見せず、すべてされるがままで何の面白味もない。 「あれ、死ぬんちゃう?」 ソファに寝転がり煙草を吸う眞澄が、向かいの席で雑誌を読む御園に言った。 「せやね、あのままじゃねぇ」 「御園とも口きかんのか」 「せやね。たまに中庭でぼーっとしてはるわ」 「しょおもな…」 眞澄は煙草の煙を吐き出し、苛ついたように言い放った。 「かやす?」 「アホか、静にわしらのこと話されてみぃ、心が乗り込んできよるで」 「せやね…。ほな、もう、どっか売ってまう?あとは隙見て鬼塚を潰すだけなら、静はいらへんのやないの?」 静ほどの艶麗な男はそうは居ない。 そういう専門の裏ルートに売り飛ばせば結構な額が付くだろうし、足がつかない様に海外に売り飛ばせば、それこそ生きているのか死んでいるのか何所に居るのかさえ分からなくなる。 もし見つけることが出来ても、恐らく話が出来るような状態ではないだろう。 なので、何かがあっても証拠がないという事だ。 「まぁ、それも手ぇな。やて、その前に一回くらいヤッてもええやろ。心があへんに骨抜きなって大喜多組潰したくらいやで」 クツクツ笑う眞澄に、御園は呆れ混じりの溜め息をついた。 「ほな、早ようしてまいや」 「あないに痩せこけとったら、勃つもんも勃たへん」 わがままな…。御園は不貞腐れる眞澄を見ると、心底落胆した。 「若頭!」 まったりとした時間を引き裂く様に、ドタバタと忙しなく組員が部屋に飛び込んできた。 「何やの忙しない」 御園が見ると、酷く汗を掻いた男は眞澄に深々と頭を下げた。 「お、鬼塚組の鬼塚心と相馬北斗が来はりました」 ガタッと音を立てて眞澄は起き上がり、御園は直ぐさま隣の部屋に居る静の元へ向かった。 程なくして心と相馬が通され、眞澄は満面の笑みで二人を迎えた。 「なんや急に二人して。京都くんだりまで観光か?」 「相変わらずデカい家やな。なあ、相馬」 心は眞澄の問いかけに答える事なくソファにドカリと腰掛けると、相馬に言い放った。 「本当に。猫が紛れこんでいても分かりませんね」 そう言って、心の座る横に立つ相馬は相変わらず不敵な笑みを浮かべる。 やはり嫌な男だと、眞澄は小さく舌打ちした。 「うちには猫なんかおらんで」 ”猫”が何を指しているのか、眞澄は分からないとばかりに鷹揚な態度を取った。それを聞いてか聞かずか、心は部屋をぐるり見渡す。 「あれはどないした?」 「あれ?ああ、御園か。おるで、席外したはるけど。北斗も逢いたくないやろ」 「そうですね」 異様なまでの緊張感が静の居る部屋にまで伝わる。 心達が部屋に通される前に、御園は部屋の片隅で庭を眺める静の口を塞いだ。 何事か分からない静は初めは驚き抵抗を見せたが、心の声が聞こえた途端に身体を大きく震わせ抵抗をやめた。 「心はんが来たはるな。北斗と二人や。今ここであんはんが暴れたり声あげたら、あの二人の屍が転がることなんで?」 御園に耳元で囁かれ、静の大きな瞳からポロポロと涙が零れた。この屋敷に来て初めて感情を出した静に、御園の胸が痛んだ。 きっと今すぐにでも心の元へ行きたいだろうが、生憎二人の気持ちは通じ合っていない様で心にとって自分は暇つぶしの相手だと勘違いしている。 だが、それはそれで好都合だ。眞澄のしでかした事は、組同士の抗争に繋がる事だ。 鬼塚組の力は圧倒的で、鬼頭組などその気になれば潰せるだろう。 例え同じ会派の人間だろうが、従妹同士であろうが、それこそ親兄弟でも潰しあうときは潰しあう。それが極道だ。 だが負ける戦をするほど馬鹿ではない。まだ今は、その時ではない。 「俺の言うてる意味、分かってくらはる?」 非情な御園の言葉に、静はただ頷いた。御園はそれに微笑み静を抱き上げると、床の間に掛けられた日本画を避けた。 そこには小さな扉があり、御園はそこを開けると静をそこに入れた。 「ええ子にしときや」 御園は静の額に軽く唇を落とし、扉を閉めた。 「久々やねぇ。北斗」 御園は眞澄達の居る部屋に入るなり、北斗の肩に手を置いた。 「お久しぶり」 北斗はそれを軽く払い除けると、御園から数歩離れた。 露骨に嫌な顔を見せる所がらしいと言えばらしくて、だが、御園はそこまで嫌わんでもと思った。 「露骨やねぇ。感じ悪いわぁ…。せや、せっかく京都来やはったんやし、一緒にお参り行こか?」 「極道が神に何を願いますか」 「せやねぇ、確かにねぇ。心はん、あんはんとこの北斗は相変わらずやわ。あら、その首どへんしはったん?むちゃ痛そうやけど」 相馬のスーツの襟裳から覗き見える白い包帯に御園は目敏く気が付き、相馬の顔を覗き見た。どこか嘲笑する様な御園に、相馬は相好を崩した。 「躾のあまりなっていない犬を飼っていまして。今、調教中なんでね」 何か含みを持たせる相馬の言葉に御園は首を傾げた。その隣で心の眉間に皺が寄った。 「今日はほんまに二人なん?成田とか、他の組員は?」 眞澄の言葉に、御園は一瞬、表情を鋭くした。 「あいつ等は仕事があるからな」 ニヤリと笑う心に、眞澄はゾワリと心臓を撫でられるような錯覚を起こした。 成田は鬼頭組の中でも戦闘部隊に入る、格闘を専門とした輩にやられたのだ。眞澄が見る限り、あれは死んだだろうと思っていた。 だが、この心の余裕たる表情は何なのか。まるで何もかも知っていると言われているようで、眞澄は平静を保つのに必死だった。 対峙し、互いが腹のなかを探り合うそんな中、部屋に高い電子音が響いた。 「失礼…」 相馬は内ポケットから携帯を取り出し、通話ボタンを押した。その間も心は煙草を銜え、何食わぬ顔で居る。 御園はそんな心を横目に見て、人知れず笑った。 「ああ…。この隣、枯山水の庭見れたやろ」 心の言葉に眞澄は内心ギクリとした。だが御園がすぐさま、「見はります? 」と言った。 隣の部屋の襖を開け、中に心を通す。眞澄は電話をする相馬と部屋に残った。 人の気配の全くない部屋の奥に庭の見える窓があり、心はそこに近づいた。 もし少しでも静が動けば、この男は気が付くだろう。そうなった時、自分はこの男を倒せるのか。 腕に自信のある御園だったが、心を目の前にして握り締めた拳に汗を掻いている。 この時点で自分は負けだと思った。そして、握った拳を開いて汗をジーンズで拭った。 「いつ見てもええな」 「そないやろ?」 「御園、お前は賢いから言うけど、俺に牙剥いたら高つくで」 庭から目を離さずに、心が言う。その言葉に御園はギクリとした。 「わかってますよ。牙なんか剥きまへんえ」 「眞澄はちゃうみたいやけど」 「眞澄はあへんなタイプやさかいねぇ。いうても鬼頭組次期組長やし。何事も勉強やわ」 「お前がなったらええねん」 「堪忍してや。俺はそへんな器やへんし。北斗と一緒よ」 「そうか…」 心はフッと笑い、部屋を出ようとした。と、急に立ち止まり、床の間を見つめた。 ”気が付かれた?”と御園の表情が強ばり、目の前に立つ心を見つめた。 「どないしはった?」 「いや、あれええな」 床の間に掛けられた見事な水墨画の掛け軸を、心が指差す。それに御園は、安堵の溜め息を小さく漏らした。 「それ、オヤジの趣味やわ。眞澄は芸術には疎いさかい」 「やろうな」 心はそう言って部屋を出た。その瞬間、御園は知らず緊張した身体を解した。 あの男、若輩者ながらあの威圧感は一体何なのか。小さな檻の中で百獣の王のライオンと一緒にされたような、そんな緊張感だった。 御園が眞澄達の居る部屋に戻ると、相馬がようやく電話を終えた所だった。 携帯をスーツのポケットに入れ、戻った心の顔を見ていつもの様に微笑を浮かべた。 「車の修理、終わったそうですよ」 「へぇ…」 心は相馬の言葉を聞くと、どこか思慮している顔を見せた。 「あなたが取りに行きますか?」 相馬が腕時計を確認して、心の顔を見る。 「ああ…行くわ」 「もう帰るんか?忙しないのぉ。一体、何しに来やはったん」 来たばかりで、何を話した訳でもない。早く帰ってくれるに越した事はないが、どこか釈然としない。 眞澄は出入り口に立つ御園に視線を向け、そして心を見た。 「車を修理に出しててな。関西にはおるから、また来るわ。お前も風間のオヤジにちょいちょい呼ばれるやろ」 そう言って部屋を出る心に続き、相馬が頭を下げて部屋を出た。それを見送り、眞澄は渇いた唇を舐めた。 「修理終わったって、死んだんか」 帰りのカイエンの中で、心がシートを倒して言った。 「一時期心肺停止なったのが再生したみたいで、意識戻ったらしいですよ」 車の修理とは成田のことだ。あれから予断を許さぬ状況で意識はおろか生死すら危ぶまれたが、ようやく先程意識が戻ったのだ。 「聞けますよ、静さんを誰が攫ったか」 「もう分かったからええわ」 「…は?」 「あっこにおる」 「見たんですか?何か」 「床の間から風が流れとった。静の香り載せて…」 ニヤリと不敵な笑みを浮かべた心に、相馬はゾクリとした。 「どうなさるんですか」 「風間のオヤジん所行け」 「許可、得るんですか…」 「鬼頭組の若頭やからな…腐っても」 そう言って、心は楽しそうに笑った。

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