18 / 55

第18話

空港に着いた相川はカラカラに渇いた喉を潤す様に、自販機で買ったミネラルウォーターを一気に飲み干した。 一緒に来た佐々木達はいつ到着するか分からない心を出迎えるべく、大阪からの便が来る度に搭乗口に出迎える。 いつ帰ってくるのか分からないのも結構ツラいものだ。入れ違いなんて有り得ないし、待ち惚けを食わせるなんてとんでもない。 平日と言えども、国際便も兼ねたフロアは人で溢れ返っていた。相川は、それらを軽く見回し溜め息を付いた。 思い出されるのは、血塗れの成田の姿。舎弟仲間の成田の完膚無きまでに伸された姿は、見るも無惨だった。 あれは自分達の失態でもある。護衛に付いておきながら、あからさまに下手くそな演技のチンピラに絡まれ成田達を見失った。 三下以下の男達は簡単に片付いたのに、成田達を見つけるのに手間がかかりようやく見つけた時は惨状が広がっていた。 そうだ、あのチンピラ達は足止めをするだけの役回りだったのだ。 警察が嗅ぎつける前に現場を片付け、病院の方にも鬼塚組の専属医の塩谷に連絡して手を回したが大量に床に広がった血液は成田のものだけかも怪しい。 あれが成田だけのものじゃないとしたら…。そう考えるだけで身の毛がよだつ。 まだ心が組を纏めだしてから、さほど年月は流れてはいない。 なのに組長の心とあの若頭の相馬の圧倒的な支配力は尋常ではない。年下の心にこんなにも脅えるなんて甚だ馬鹿馬鹿しい話だが、それが心の支配力だ。 「マジパネェ…吐きそう」 「背中、摩ったろうか」 聞き覚えのある声に、まさか…と振り向けば、鋭い眼孔の心と青い顔をした佐々木が立っていた。 「く、組長!」 「帰るぞ」 特段、らしい格好をしていないのに、心が持つ威圧的な雰囲気からか心が歩く進路は人が避けていく。 恐怖の入り交じる羨望の眼差し。男女問わず見惚れたように、熱い視線を送る。 その心の舎弟の相川は、それが我が事のように嬉しく鼻が高かった。 空港の入り口で待っていた数台の車から一斉に組員が降り、心に頭を下げる。周りの一般客は何事かと目を向けるが、明らかに普通ではない連中を見て、すぐさま視線を外した。 心はその中の1台の後部座席に乗りこみ、そのドアを閉めた相川は急いで助手席に滑り込んだ。 静まり返った車内で、相川はいつ汗が流れてもおかしくないくらい酷い緊張感に襲われていた。 運転する橘などは気の毒なくらい震えている。このまま下手なことをして事故られでもすれば、元も子もない。 それを知ってか知らずか、心は一体何がどうなっているのか聞くこともなく書類に目を通す作業に専念している。 もしかして相馬や崎山が言うほど大変な事ではないのではないか。 成田と一緒に水族館ではしゃぐ静は確かに男にしては線が細く、とても綺麗な顔立ちをしていた。 だが、やはり男だ。豊満な胸もなければ、しなやかな身体つきでもない。もちろん、付いているものは付いているし、声はやはり男だ。 男に手を出すほど相手に困っているのかといえば、そんな訳はない。心は誰もが憧れる端整な顔付きをしている。相川から言わせれば、超イケメンというやつだ。 鬼塚組組長の名前を出さぬとも、その容姿だけでこちらから探さなくとも夜の相手は簡単に捕まるだろう。だが当の本人は頻繁に女を呼ぶことも、飲みに行く事さえも滅多にしなかった。 いや、それどころか外出するのを嫌った。 結局、どれだけ絶世の美女であっても、心をそこまで本気にさせることが出来なかったのだろうと思っていた矢先に突然連れてきたのが、男の静だ。 正直、成田を筆頭に言葉を失った。というよりも、ゲイだったのか!?と全員が内心パニックだった。 そうでなければ狂ったかとも思ったが、今までどんな会合に出ても心此所にあらずと言わんばかりの無関心さで、顔に大きく”つまらない”と書いてる状態だった心が、静が来てから生気が漲った。 仕事もよくこなし相馬を困らせなくなったし、気に入らないことがあると暴れる癖もなくなった。 それを考えると、やはり心には静が必要なんだろうか。 相川は色んな考えが頭を過ぎるばかりで、纏まらない考えにイラついてさえいた。 心はいつでも読めない。長年付き合っている相馬でさえ、そうなのだ。 たかだか一舎弟に過ぎない自分が読めるわけがない。だが、この落ち着きようは相馬の思い過ごしとしか考えられなかった。 高速を降り、見慣れた町並みを走り抜け、車は鬼塚組のビルに着いた。橘も少し落ち着いたのか、馬鹿みたいな緊張もマシになっていた。 緩やかに車庫に車は入り、組員が心を迎えるべく壁際に横一列に並び頭を下げる。心は開けられたドアから降りると、煙草を銜え火を点けた。 普通なら舎弟が出来るホストの如く、すかさず火を差し出すのだろうが心はそれを酷く嫌った。 駐車場からエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。稀に一緒に乗る箱の中は、今日ほど息苦しく感じたことはない。釈然としない心の様子に、相川は妙な恐怖を覚えた。 執着しているいないにしても、鬼塚組のモノを奪った者が居るのは事実だ。それは鬼塚組への宣戦布告と捉えて間違いないだろう。 だが怒るべきところで、心は異様に冷静なのだ。まるで何事もない、いつもと同じ日常のような。 その普段と変わらない心の様子は、相川を畏怖させた。 目的の階にエレベーターは停まり、心達を吐き出す。心は煙草をエレベーターの前に置かれたアンティークの灰皿に投げ込んだ。 ゆっくり一歩一歩、歩く心の鼓動は、確実に高く高揚していた。表情には出ていないが、自分の中では確実に気持ちが昂ぶっていたのだ。 相川がドアを開け頭を下げるとソファに座っていた崎山が立ち上がり「お疲れ様です」と静かに言った。 同じ様にソファに座っていた相馬も立ち上がり、頭を下げる。緩められたネクタイはいつも通り締められ、着崩されたスーツも正されていた。 「…で?」 心の一言に、崎山の身体が震えた。心はソファに座ると背凭れに背を預け、長い足を組んだ。 「申し訳ありません」 静かに頭を下げた相馬に、心の眉間に深い彫りが出来る。 「誰や」 「わかりません」 「静はどこや」 「わかりません」 「組関係か」 「わかりません」 相馬の言葉に崎山も相川も、自分の無能さをイヤと言うほど思い知る。先程から、何一つ答えられない。 崎山達の上司である相馬に何ら報告が出来ず、こうして情けない報告をさせているのは自分達が無能のせいだ。 誰が、どういう理由で、どうしてこうなったのかを何一つ報告出来ない。 こんなことではダメだ。崎山と相川は知らぬ間に拳を強く握った。 その時、“あっ”と思う間もなく心の拳は相馬を打ちつけた。相馬は受け身を取ることも出来ず、身体をソファに叩き付けられた。 獰猛な瞳で相馬を見下ろす心に崎山も相川も声が出ず、それこそ息をすることさえ忘れていた。 そこにあるのは脅威。怖いとか恐ろしいとか、言葉では言い表せない程の恐怖だった。 暑くもないのに、どちらかと言えば寒いのに、背中に汗が流れた。 「わからんわからん、そないな事で俺が納得する思ってんか!あぁ!!?」 倒れた相馬の胸倉を掴み怒鳴る心に、相馬は“申し訳ない”とだけ告げた。心は苛立ったように相馬を離すと、奥のバーカウンターへと姿を消した。 普段、まるでその強すぎる力を抑えているかのような静かな獣は、動き出すとまさに猛獣で、ここまでの脅威を目の当たりにしたことがない相川と崎山は震えそうになるのを堪えた。 心に殴られた相馬はゆっくり立ち上がり、乱れたスーツを直し血の垂れた口の端を舌で舐め、深い息を吐いた。 すると、崎山と相川の喉が悲鳴で、ひゅっと鳴った。相馬の後ろから首に添えられた日本刀。崎山と相川のゴクリと、唾を飲み込む音だけが部屋に響いた。 「…切りますか」 日本刀を添えられている相馬は、至極冷静に言った。少しでも心が手を引けば、相馬の頸動脈は綺麗に切れるだろう。 そして部屋は一気に相馬の血で赤く染まり、その瞬間に全てが終わる。相川は崎山を横目で見たが、崎山もどう動けばいいのか迷っていた。 「これの切り味、知ってるやろ」 「ええ。あなたが潰した、志摩野組の組長の首を落としたものですよね」 「よお覚えてるなぁ、お前の記憶力の良さには、毎回感心するわ…。じゃあ死ね」 掲げられた日本刀に、崎山は弾かれたように自らの身体を心の前に押しやった。 情けないくらいに震えている。そして身体中に汗を掻いて、口は異様に乾いていた。 どこに行っても冷静沈着で取り乱す事のなかった自分が、今は鼓動が激しさを増す一方だ。 「…なんじゃ」 「静さんが攫われた時、成田が静さんを護衛してました!その時に成田達を護衛したのは自分らです!若頭を切るなら、俺らを切ってください!」 泣いてはいないだろうか?それくらい恐怖に戦いている。日本刀を掲げられ、振り下ろされれば間違いなく首が飛ぶ。 崎山の瞼は、極度の緊張で痙攣していた。 「頭!」 相川がようやく動いた身体を崩し、土下座した。 こんな事はいけない。こんな事で鬼塚組が崩壊するわけにはいかない。 相川の口からは何も発せられなかったが、身体中からその気持ちが溢れ出ていた。 そんな崎山達の目の前で、心は掲げた日本刀をゆっくり下ろした。二人がホッとしたのも束の間、崎山の身体に心の回し蹴りが炸裂した。 受け身もとれずに、崎山の身体が壁に叩き付けられる。相川が驚いて顔を上げると、そこに心の蹴りが容赦なく入れられ、口の中が一気に血に塗れた。 それでも抑えが利かないのか、床に転がり咳き込む崎山を蹴り上げた。崎山は小さく呻くと、そのまま気を失った。凄まじい攻撃に、相川は驚愕した。 崎山は幹部の中でも腕の立つ男で、ダウンすることなど長い付き合いのある相川ですら見たことがなかった。その崎山がたった2発でこのザマだ。 これは確実に殺されると思い相馬を見ると、心のその様をまるで他人事のような冷静な顔で見つめる相馬が居た。 振り返った心は、そんな相馬を蹴り飛ばし床に転がすとゆっくりと跨り、相馬の喉元に手に持った日本刀の切っ先を突きつけた。 「ええ眺めやなぁ、相馬ぁ」 「あなたに跨られても、私は興奮しませんよ」 目の前で繰り広げられる情景に、相川は身体がガタガタ震えた。 心のどこか楽しそうで、それでいて微塵の迷いのない顔と、そんな心の心情を分かっているのか覚悟を決めた様な相馬の顔。 相川は口の端から流れる血を拭う事なく、目の前の情景に剣呑した。 「私を殺しますか?」 「有能な右腕なくすんはツラいけどな」 「では、好きにすると良い。あなたの様な傲慢無礼な人間を管理出来る人間は少ないでしょうが、どこかには居るでしょう」 「命乞いでもするか」 「する訳ないでしょう。あなたが一番よく知っている」 フッと笑う相馬に、心はニヤリと笑い手に力を籠めた。切っ先が相馬の白い喉元に僅かに埋まる。 この二人は狂っている……っ!!! 「ま、待ってください!!」 相川の言葉に耳を傾ける素振りもなく、心は唇から舌を覗かせてペロリと舐めあげた。 「ちょ!!マジで!!組長!!誰が静さんを攫ったか、気になりません!?いや、気になりますよ!それ、若頭は知らずに死ぬって、それってない感じっしょ!?いや、ないでしょう!?」 「……」 「それに、若頭殺されるの、指咥えて見てるとかないし!!いや、そもそも、俺らが先に死ぬべきっしょ!?でも、その前に!!俺は、俺は誰が鬼塚組に喧嘩売ったか、それ知りたいし!!」 誰が一体、成田をあんな目に遭わしたのか。誰が一体、静を攫ったのか。 こうして相馬の首に日本刀が突き付けられているのも、崎山が殴られ気を失っているのも、みんな全て誰か…の、せい。 落ち度はあったかもしれないが、こんな結果は間違っている。これは、そうあるべきことではない。 「死ぬ覚悟あるんか」 「組長に殺されるなら本望です」 不思議と恐怖はなかった。凛とした声で言い放った自分に、妙にすっきりした。その顔をじっと見た心は、小さく笑った。 「貸しやぞ、相馬」 相川の方を見ないままにニヤリと笑い立ち上がった心は、相馬を日本刀で指した。 「お前に借りを作るくらいなら、遠慮せずに殺してくれた方がありがたいね。俺は誰かに借りを作るんは好きじゃないし、お前に借りを作るなんてロクな事にならないだろ」 溜め息をつきながら身体を起こす相馬の喉元からは血が流れ、襟元を汚していた。 さすが手入れをされた日本刀というだけあって、その出血は止め処なく流れ相馬はそれをハンカチで押さえた。 いつでも冷静な相馬だが、相馬の心の呼称も変わっている。それに心は満足げに目を細めた。 「猫脱げてんで、相馬」 笑いながら棹に刀を直し、それを相川に投げた。相川はあたふたしながらもそれを受け、安堵した。 落としたらどうするんだと言いたかったが、言える訳がない。初めて持った日本刀の重さに、軽々と掲げていた心を思い出し相川はやはり震駭した。 「相川、お前、崎山と付き合い長いんちゃうんか」 「え?あ、はい…あいつが入ってすぐに俺が入った感じっす」 「ああ、そうだ。お前、本当にあれはダメだよ」 相馬もまた、唐突な指摘をしてくる。 相川は何のことだか分からずに、ただ首を傾げて二人を見た。崎山との付き合いに、まさかのダメだし。何が?と検討もつかないという顔をする相川に、二人は眉を上げた。 「分かってへんし、こいつ」 「まぁ、あなたもそうなので、人のことは言えませんよ」 「俺は此奴よりマシ」 「え、何がっすか…」 「それ」 二人の声が同時に聞こえ、それと言われた相川はやはり分からないと頭を振った。 それが言葉遣いのことだというのは、相川に言っても無駄だなと相馬は昏倒している崎山を見てソファに腰を掛けた。 「まぁ、もういいけど。とりあえず、塩谷先生呼んでくれる?」 相馬のそれに、相川はようやく終わったと安堵を含んだ返事をした。

ともだちにシェアしよう!