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第42話
重苦しい沈黙がズシリ伸し掛る。ベッドの上でふんぞり返る心は何も言わないし、静も直立不動で動きはなし。
何、この居た堪れない状態…。
「おい、風呂入れ」
「へ?」
唐突に投げかけられた言葉に、思わずビクッとして間抜けな返事をしてしまった。
それに心が呆れたような顔を見せる。
「風呂。血糊だらけで寝るんか」
「あ…」
見てみれば、何かの特殊映画を撮り終えたような状態。まるでスプラッター。
その上あちこちホコリだらけだし、かなり汚い。確かに早いことシャワーでさっぱりするに超したことはない。だが…。
「着替えねぇし」
そう、着替え。折角、綺麗に洗い終えたとしても着替えがない。
また、この血糊でグチャグチャの服を着るくらいなら、このまま居るのがマシだ。
どうにも動こうとしない静に、心が二度目の嘆息をする。
「何個か残ってる」
ああ、そうですか。なんだろう、この変な感じ。
チラリ横目で心を見たが、変わらずベッドに転がって動く様子がない。何だか拍子抜けだなと、静はシャワールームに消えた。
このクソガキィ…。
叫びそうな衝動を抑えて、ベッドの上ですやすや眠る心を睨む。血糊で汚れた身体をさっぱりすっきりしてシャワーから出れば、爆睡の心。
ベッドの上でゴロゴロ転がっているから、知らぬ間に寝てしまったのだろう。静は項垂れながらベッドに近づいた。
「ったく、どうやって帰るんだよ」
トンッとベッドに腰を下ろし、すやすや眠る心の髪にソッと触れる。
きっと染めたり髪を弄ってないからだろう。手入れなんてしてないくせに指通りの良い艶やかな黒髪。まるで黒豹みたいだなと小さく笑う。
あんなに逢いたくないと思っていたのに…。
あの時、倉庫で抱き締められたとき泣き出しそうになった。それが何故なのか、いくら鈍感な静でも分かる。
ベッドの上でスヤスヤ眠る心の横にコロンと同じ様に転がる。ゴソゴソ動いたせいで心が薄ら目を開けた。
「…入った?」
風呂にか?珍しいほど眠りが深いらしく、ちょっと子供みたいだと笑う。
そんな静を心がギュッと抱き締め、また、すぅっと寝てしまった。静は心の胸に顔を埋めると、おずおずと心の背中に腕を回す。
スーッと息を吸い込めば、懐かしいような切ないような気持ちになる心の匂い。
ただ、それだけで心の底から安堵して、息を吐いた。
「心…」
呟いて、静は何ヵ月ぶりかの安眠についた。
ゆさゆさ揺らされる身体。深い眠りの中、揺らされると地震にあった気分になる。
それでも強固に眠りから醒めたくないと抵抗するが、やはり身体は揺れる。
何なんだと薄ら目を開け、視界に入ってきた男の顔に青ざめ飛び起きた。
「松岡さん!」
「雨宮だよ」
静の身体を揺すっていたのは雨宮だったのだ。
慌てて起き上がり、部屋を見渡すが雨宮以外の人間は見当たらない。
「あれ、心は?」
「彪鷹…さん、戻ってきたろ?逃げ出す前に、周りの地盤固めるために役員総出で走り回ってる。顔見せして、逃げれなくするんだろうな」
雨宮は肩を竦めてみせる。
「雨宮…さんは?」
慣れない名前が、まるで知らない人間を呼ぶようで妙な感じだ。
どこか、何か、喉に引っ掛かっているような。あれ?合ってたっけ?と心のどこかで確認してしまう。
「俺?俺は表に顔を出さない裏舞台の人間だからな。裏鬼塚っていって、何人か居るんだよ。総長は崎山さん。俺らは組員であって組員でない。仕事はあちこちに潜入したりして、内部調査。今回は俺もドジったから、裏鬼塚から外されるけどな」
「えっ!?」
予想外の言葉に、静は一驚して雨宮を見上げた。
「当たり前だろ、見事に二人して拉致られたんだから」
そう言って、雨宮は静の額を弾いた。
「あいでっ!」
「俺はお前の専属ボディガードに任命されちゃったわけよ、よろしく」
「ボディガードって」
ジクジク小さな痛みが残る額を擦る。
「初めからボディガードだったんだぜ?」
雨宮はフフンと悪ガキを彷彿させる表情で静を見下ろした。
静を眞澄の元から奪還した夜のこと。ビルの中、ちょうど心の部屋の真下にある事務所。
普段、そこは組員が控えている場所で、心は滅多にというより全くもって来たことがない部屋だった。
応接セットといくつかのデスク。何台かのパソコン。一見すれば、オフィスのようなそこ。
心は初めて来るその事務所の応接セットのソファに転がり、腹の上に灰皿を置いて眠そうな目で煙草を燻らしていた。
「本気ですか」
その心の向かいに姿勢良く座った相馬は、険しい顔をして心を見ていた。
関西から帰って静を寝かせてから突然に心が事務所に入ってきたときは、まるでカチコミにあった組事務所のように他の組員が挙動不審な動きを見せた。
滅多に来ない男が来たことで、察しの良い相馬は崎山だけを残し人払いをした。そこで心は、唐突に静を自由にすると言ったのだ。
「静を知っとるんは眞澄だけや。眞澄ももう、俺には手ぇ出してこん。あいつもアホやないから、静のことを他に売るような真似もせん」
「今さら、放り出すんですか!」
相馬は珍しく声を荒らげた。
相馬が声を荒らげるのも無理はないこと。ここまで心に関わらしておいて、今更放り出すなんて、あまりに…。
「元々、極道を嫌うとった。大多喜の件も片付けたし、母親や妹への援助も充分した。これからは静の、静自身のための人生や。そこに俺が入るわけにはいかん」
「何をらしくないことを」
相馬は吐き捨てる様に言った。
何て似合わないことを言うのか、思ってもいない言葉の羅列に腹立たしささえ沸き起こる。
いつもの専横で得手勝手な心はどこに行ったのか。相馬は額に手を置いて、嘆息した。
「眞澄は身内やったから、長い時間拐われても命はあったけどな、他の組…。俺が敵の大将のイロ拐ったら、毎日そいつの爪剥いで送るな」
「……」
心の話に、相馬はフッと笑みを零した。
「北斗、俺は根っからの極道やったみたいで、親父に連れてこられても何も思わんかった」
「相馬です」
「堅気には手ぇ出すなってことや」
心はそう言って笑った。
今、大きな怪我もなく静は無事で居る。だが、次はどうなるかは分からない。
そしてもし、また拐われでもすれば、この男は脇目も振らずに敵の懐に飛び込むのだろう。
それは己の、鬼塚組の、果ては仁流会をも滅ぼしかねない。
心なりに考えた末の結果か。自分の気持ちより、静の身の安全。
不器用さはさすがだなと、相馬はほくそ笑む。
「分かりました」
「お前が言うて」
「…は?」
「俺は言う前に犯してまうわ」
「…お前」
さすがに怒りが込み上げ、思わず品のない言葉を口走る。
素直に今の話をすればいいじゃないか。それがどうして、犯すだなんて突拍子もない行動に移ることになる。
大体、なぜ、そんな伝書鳩役を努めなければいけないのか。
「い、や、だ」
「ええやん。お前、口上手いし」
そんなもん、関係ねぇよ。
ピクピクする顳かみに吐き気がする。何だ、結局、専横で得手勝手なのは健在なのか。
ちょっと不器用さが可哀想な奴だななんて、ミクロほど思ったことを後悔してしまう。
「私に一任ください」
唐突の申し出に振り返れば、崎山が不敵な笑みを浮かべていた。
心と相馬二人して“何か、お前はイヤだ”と思いながらも、他に任せようがない。
崎山の申し出を断れば、とどのつまり、相馬が否が応でも行かなければならなくなる。
「大丈夫です。彼は私が苦手な様ですから、適役かと」
「……」
ちらり、心を見れば、自分が言うのではなければ何でも良いと言わんばかりの顔をしていた。諦めたかと相馬は頷いた。
「じゃあ、悪いけど」
極道の仕事ではないよね?と思いながら頼むと、崎山は頭を下げた。
「大丈夫。虐めたりしませんから」
崎山の言葉に、一抹の不安を感じながらも相馬はよろしくと呟いた。
賑やかな歓楽街の裏路地。まるでそこだけが廃墟のようなそこは、表の賑やかさと違い不気味なほど静かだ。
その一角に建つ何の変哲もないビル。ビルの入り口のシャッターは一メートルほど開いている。
何の看板も上がっていないところを見れば、空きビルのようにも思えた。その四階の窓際に立ち、崎山はビルの下を眺めていた。
「ね、ここ駐車禁止とかじゃないよね?」
下に置いてある車が気になるのか、言いながら後ろを振り返る。
狭い室内に置いてあるデスク。それに腰掛け、煙草を燻らす雨宮はチラリ崎山を見て笑った。
「あんなバカでかい車で来るから」
あまりにも町並みに不似合いなASTON MARTIN DB9。滅多にお目にかかれる車ではない上に、恐ろしい金額の車。
ドンッと歩道に半分顔を突っ込んだ状態で停められ、もしかして運転下手なの?という疑問さえ浮かぶ停車の仕方。
確か崎山はミニクーパーを持っていたはず。だが、あの車のカラーは目立ちすぎるかとも思う。
どちらにせよ無法地帯の地域には不似合いの車だ。
「あれしか空いてなかったんだよね」
「ってか監視ですか?」
もうどうでもいいわと、雨宮は話題を変える。
「ボディガードだよ。映画あったろ?観た?」
「観たって、あれ、ボディガード撃たれるじゃん」
それに自分はあんなに年はいっていないし、要人は有名歌手ではなく大学生だ。
デスクに置かれた写真を手に取り、眺める。
目が印象的な男だ。”綺麗”なんて男に使うには間違った形容詞だが、それがぴったりだ。
「吉良静。特に何もしなくてもいいよ。バイトを探しだすだろうから、早瀬の店に行かすようにするから」
相変わらず窓から下を眺め、簡潔に言い放つ崎山に雨宮が辟易する。
どうも自分の上司はボキャブラリーが貧困で困る。せめて仕事の指令くらいは、もう少し説明を入れてはくれないだろうか?
「で、どうやって?」
「簡単。お前はそこのバーテンね。今日の夜から入ってよ」
「はぁ?シェイカー振るの?」
雨宮が聞き返すと、崎山は冷やかな視線を送る。
「経験者だよね?そこで何かあれば守って」
「え?それだけ?いつまで?」
「期間はないよ。彼に女が出来ようが男が出来ようがいい。何をしようが放っておけばいい。ただ変な輩が近づかないようにしてくれたら良いだけ」
「…はあ」
そういうのが一番難しくない?変な輩っていう判断は、どこですればいいわけ?
こういう指令が一番苦手だと、雨宮は内心舌打ちした。
「簡単だよね?」
その舌打ちが聞こえたかの様に、崎山の鋭い視線が雨宮に突き刺さる。
崎山も”綺麗”の形容詞が似合うけど、性格がな…。
「組と関係あるんすかね?」
「ないよ」
え?ないの?そんな顔で崎山を見れば、フフっと笑った。
「今はないよ」
前はあったんだ。思いつつ、口にはしない。雨宮達は、余計なことを聞かないのが掟だ。
言われたことだけをやればいい。
それにどんな意味があって、どんな理由があろうが知ったことではない。
「ま、いいけどね。いらっしゃいませとか、言えばいいんだろ?」
「似合わないよね?」
じゃあ他の奴に頼めよと言いたくなる。
雨宮は静の写真をジッと見て、ジッポを取り出し火を点けた。燃えやすい塗料の着いた写真は、メラメラ燃え上がる。
雨宮はそれを灰皿に入れた。
「報告書とか要る?」
「必要ない。また期間が来たら連絡する」
期間が分からない面倒な仕事もあんまり好きじゃないけど、我が儘を言える立場じゃないしな。
雨宮は燃え尽きた写真の灰を、そのまま薄汚れた地面に灰皿ごと落とした。
アルミの灰皿はカランカランと大きな音を立てて灰を巻き散らしながら転がる。
「了解」
言って、雨宮は未だに燻る灰を踏み潰した。
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