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#5 泣いてる花

*  南校舎ニ階東奥にある美術室で、美術教師の椋田(くらた)瀬生(せのう)は、筆に乗せた絵の具をキャンバスへ叩くように置いていた。  この()は二学期の授業に使う教材用として、自ら描いたものだ。  二年生の課題は油絵を予定している。題材は自由だ。本来こういった芸術の着想に縛りはなく、各々がその世界を自由に表現することが愉しみの基本であると椋田は考えている。  とはいえ、油絵に触れるのが初めての生徒もいる筈で、手本とするものが何もないのも心許なく、一例として一枚、空き時間を使って描くことにした。  人間とは不思議なもので、自由を求めて手に入れても、何の縛りや指標となるものがないと途端に不安になる。  椋田が題材に選んだのは花を使った抽象画だ。  彼が最も得意とするところは人物画だが、静物を使って人物のような感情豊かな表現も出来ることを伝えたかった。  色は、イエローウォーカー、バーミリオン、コバルトブルーを明暗をつけながら順に重ねている。  色の三原色にもとれるこれらの色を絵の具の状態で混ぜると何ともいえない濁った色になるが、キャンバス上でそれぞれの色が乾いた状態で重ねていくと絶妙な層が出来、さらにその上から本来の色を重ねれば深みが増す。  易しい手法で、美術の導入に使う場合が多い。だが基本に立ち返りたい時など、彼が昔から好んで取り入れる技法でもあった。  しかし、それらを個人の満足いくまで進めるには時間がなく、すでに二学期は始まっている。あくまで教材用としてどこまで塗り進めればいいかを考えていた。  三色の重なりの過程は花の中に残して置いた。あとは背景を抽象的な表現で……。 「その花、何か泣いてるみたい」  思案の最中、背後から唐突に声を掛けられ、椋田はぎょっとして背後を振り返った。  振り返った先には、戸口にもたれ掛かった――柚弥が、独特の人を試すような表情で微笑している。 「びっくりさせるなよ……」  よく知っている声だ。とはいえ、何の予感もなく声を掛けられるのは心臓に悪い。  一息ついて、はっと壁に掛かった時計を見て振り返る。 「授業、どうした。今四時間目だろ」 「自習」 「そんな訳ないだろ、二学期始まって早々……。何の授業なんだ」 「あ、そういえば、数IIだ……」  今思い出したのか、柚弥は瞳をさ迷わせながら若干気まずそうに呟いた。  椋田は筆をパレットに置いて溜息をついた。 「戻れよ。横山先生をこれ以上困らせるな。ただでさえ数学は抜け出しがちだって、気にして るぞ……」 「あはは、職員室で『すみませんあいつが』とか言ってるの? 保護者みたいで、嬉しい」 「馬鹿言ってないで、戻れ」 「具合が悪い」 「なら保健室に行けよ……」 「嫌だあんなところ。俺の保健室は、ここだよ」 「……」 「ついでに言うと、具合が悪いのは、」  そう言った柚弥はちょん、と心臓の辺りを軽く指で押さえ、窓辺を見つめながら微かに溜息をついたようだった。  柚弥の様子を見ていた椋田は再度時計を確認した。  四時間目が始まってから十五分は経過している。戻るには半端な時間になってしまった。 「……遅れてもいい。話をしたら、ちゃんと戻って横山先生と皆んなに謝れ」  言いながら、椋田は筆の絵の具を布巾で拭き取り、ブラシクリーナーの瓶で筆を洗い出した。  自分を迎え入れようとしている。椋田の態度からそれを察した柚弥は、湧き上がる喜びを抑えた。  追い返されるだろう、と半ば思っていた。きっと始めは。教師としての立場なら。  だがもう半分の、自身との複雑な関係、何より本来の椋田の優しさが勝るだろうという期待がやはり上回った。  実は戸口で、しばらく椋田が絵を描いてる姿を眺めていた。  案の定画に没頭すると周りが見えなくなる椋田は、声を掛けられるまで気付かない。衝動的に訪れ、独り白衣の後ろ姿が見えた時は嬉しかった。  久しぶりに見る、真剣に画へ向かう姿、時折見えた熱を吸い込ませるような眼差しを見ているだけで、心が癒されるような気がした。

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