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#29 生温い風のなかの超然

 急いでその背を追うと、梗介は中央の渡り廊下の手前で右に折れた。  後に続くと階段があった。三階の上には本来部屋はもう存在しない。——屋上だ。  向かいの北校舎でも、屋上は比較的長い時間開放されていて、昼食などの休憩時や授業時間外なら出入りが利くと聞いていた。  お昼、屋上でも食べられるよ、と誘うように告げた柚弥の笑顔が浮かぶ。まさか、南校舎(こっち)の屋上に先に行くことになるなんて。  三階から繋がる壁には窓があり、昇る時は頭上から陽光が差していたが、階段を折れ曲がるともうそこからは灰色がかった闇の気配が降りていた。  出入りの少なさを表す、埃を含んだ空気が滞留している。そこへ、梗介の酔うような香りが透けた帯のようにくねって降り、浮遊している。  まるで誘発物質に吸い寄せられているようだ。自嘲のように感じながらも、後に続く。  踊り場を再び折れた梗介は、振り返らず、言葉も発さず、ただ規則正しく肩甲骨と膝を交差させて階段を昇っていく。  その後ろ姿だけでも際立っていることが、彫像のようなその線を無自覚に瞳で辿ってしまうことからも判る。  脚がしなるように長く、そのため遠くに感じる肩は、男特有の暑苦しさはないのに、間違いなく脆弱ではない筋質を保っていた。  広い背中が、言い知れぬ圧感を僕に与えていた。  だけど、もうここまで来た。誰でもないこの僕から。いまさら引き返すことなんか、ない。  やがて突き当たりのドアに辿り着き、梗介はノブを捻った。  薄闇の中に強い光が差してしばし瞳が眩み、同時に生温い空気が風圧で頬を包み、駆け抜けた。  視界が開ける。夕刻に差し掛かり暖色の陰りをはらんだ光が、屋上のタイル半面を照らしている。  四方は高いフェンスで囲まれているが、前方にはグラウンド、その背後には平かな街並みが彼方の透けた山の鼻先まで拡がっていて、充分な解放感に胸がすくようだった。  照り返しのもう半面、こちら側は、背後の貯水タンク、塔屋に遮られ暗色に沈んでいる。  風が絶え間なくなびき、直接の日光を当てられていないせいか、思ったより暑さが籠められていない感触がした。  暗色のなかを梗介は明色との境いまで進み、背を向けたままポケットから取り出したものを口許で覆う仕種を見せた。  乾いた微かな音が響き、たちまちに空へ溶ける薄煙が吐き出される。  街並みへ向かっていた梗介の立ち姿がこちらへ少し角度を変えた。  降ろした右の長い指には煙草が挟まれている。  風が翻って彼の瞼や首筋に濡羽色の髪が纏わりつくように舞っている。物憂げな切れ長の双眸。  再び、細長い白棒を挟んだ指が口許に添えたられた。中指で楕円が変形した銀の一塊りのリングが煌めく。吸い込まれた煙が白霧となって、また、生温い風のなかへと溶け去って行く。  微かに虚空へ傾けられたから、柔と硬の線でなぞられた長い頚の上、横顔の輪郭が、やはり喩えようもなく映えて見えた。  甘さのない、涼やかで思ったより長い睫毛。くるいのない線で通った、風雅ささえ感じる高い鼻梁。わずかに反らされた顎は、無駄を削ぎ落としひとえに整いを極めている。  煙を吸い込むことによっての恍惚、開放感。そういったものは、なかった。  ただ、そこにある空間。煙も、空も、風も。  何でもないもののようにして纏わせ、造作もなくすべてを己のものにし、佇んでいる。 『——…………凄く格好良い人だな。この人……』  改めてその立ち姿を見ても、貌と身体の均整のとれた造形、醸す発散(オウラ)、単身でその存在感は圧倒的だった。  当然のように校内で煙を燻らしているが、それは彼が昔からしてきたことのようにとても彼に馴染んでいて、取り立てて嫌な気持ちは抱かなかった。  そして、彼に添う影のような空気のなかには、どことなく柚弥に通じるものを感じた。  二人の個性は全く違う。昨日も二人で並ぶ姿を目にしたが、人に見られている前提があり、それでもえも言われぬ濃度が漏れていて、どきりとした。  貌も、性格も、きっと嗜好も違う。  だけどひとたびふたりが交われば、ふたりに絡みついてきた粒子の積み重ねだろうか、不思議とそれは溶けあって、あやうい、(うつつ)から流れ出た、頭の奥が痺れるような陶酔をもたらすような気がしてならなかった。  そしてそれは、きっとひどく美しいのだろうと。

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