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#32 こおる、戦慄
目の前の梗介は、一貫として沈黙の姿勢を崩さずにいたが、僕が感情に揺れ動いて視線を逸らしても、戻れば必ず月夜のように深いその眼に行き当たった。
表情も貌色も、何も変わらず、僕の瞳や表情を静けさをたたえた獣さながらの一定さを保って、凝視し続けている。それでかえって、確信が持てた。
おそらく彼は、思いの外ひどく『公正』なのだ。
その存在感から、他者の優位に立ったり、ほんの少しの圧力で人を慄かせることは容易に出来る。
だけどあまりにも超然とし過ぎていて、既にその必要がないのだ。元々の資質なのか、卑しさを欠片も持っていない。柚弥も何より、その高潔さを尊んでいた。
小手先の罠や細工も仕掛けない。向かってきた者には、獣のように静かに神経を研ぎ澄ませながらその身一つで迎えうつ。
それで砕け散るかどうかは、——向かった者次第だ。
始めからこの人は、ちゃんと聴いている。
向かって来たものがどんな些末なものであっても。そして他ならぬ、柚弥のことであるから。そう思いたかった。
僕はそれを信じた。そこを信じて、訴えたかった。そこを頼りにし過ぎていて、——無意識のうちに、いっそ甘えていたのかも知れない。
「僕は……、もし自分の大切な人が、そういう風に自分を苦しめていたら嫌です。柚弥君とは隣になっただけで、それだけの関係ですが、それでもそういう感情を抱きました……。 ——先輩は、違うんですか……?」
「……」
「先輩は、さっき柚弥君を大切じゃないならどうする、って言ってましたけど、違うと思います。柚弥君は、先輩が凄く強い人で、他の人間のことなんかで決して流されないって言ってましたけど、そうかも知れないけど、それと薄情なのとは、違うと思います。
今こうして接していて判りますけど、先輩はそんな薄っぺらい人なんかじゃきっとない。何より、柚弥君があんなに強く想ってるんだ。
どうでもいいとか、なおざりに思ってるなんて、絶対ないと思います……!」
俺は梗介を愛してる。
また、それを口にして彼方を見据えて揺るぎのなかった柚弥の横顔が思い起こされた。
愛してる、なんて簡単に他人 に語れるのか。
確かに稚 い、自分だけの悦に入った言葉なのかも知れない。
だけどそれだけであんなにも澄んだ強い瞳をして、他人への想いを口にすることが出来るのか。
それと自分を蔑んだ顔が交差して、また、こころがさらわれていく。
「柚弥君はあんな……。あんな尊い想いを抱えて
、蔑むところなんかないんじゃないですか、本当は……。
傷つく必要なんかない、もっと綺麗で、ずっとずっと純粋な子なんじゃないんですか……?」
「……」
「先輩なら、知っている筈です。そういう面も。僕なんかよりずっと、ずっと知ってる筈です……!」
『裕都 君』
隣の席で、振り返って笑う。
『一緒にお花見ね』
緑の桜の樹の下で見せた、屈託のない笑顔。
彼の"本当"を想う度に、彼の笑顔だけが、抉るように通り過ぎていく。
自分でも判っていたが、言っていることはもう滅茶苦茶だ。
感情に任せて、何度も同じようなことを繰り返しているし、脈絡なく去来した想いをぶつけて、順番も筋道もあったものじゃない。
鋭い崖のような存在の、芯に迫る力なんか、さらさらない。
だけど、そんなことを置き去りにするくらい、柚弥の緩んで僕に向けられた瞳が、僕を突き動かしていた。
筋道や、人を効果的に逸らす策なんて、生身の感情を前にして、簡単に繕うことなんか出来るのか。
そして気づけば、きっと梗介の顔も、ろくに見ていなかったかも知れない。
「——先輩なら、……止められたんじゃないんですか?」
「……」
「先輩なら、解っている筈だ。柚弥君のこと。誰よりも。
解ってるなら、 "変えられた"んじゃないんですか……!? 柚弥君が苦しむ前に……!
どうしてですか、先輩も柚弥君の事が大事なら、もっと柚弥君を」
その瞬間、強烈な寒気が、凍てつく氷の刃が、矢のように僕の両腕を貫き徹 した気がして、僕は言葉を止めた。
いや、瞬時に、堰き止められていた。
身体を穿たれたように動けず、目だけで前を見上げた。
僕の瞳の前には、梗介が先程から変わらぬ佇まいで、直立している。
貌色も、姿勢も、表情も。何も変わっていない。
ただ、眼が。
眼の色は、初めて会ったときから冴え冴えと冷えていた。
火の色は、温度が上がる度に、あかあかと燃える紅ではなくて、魅入られるような冷たい青へと、刃のように変わる。
それがよぎった。一瞬間のうちに、僕の存在ごと消し潰すように冷えたそれが眼の奥で凝縮され、体の芯が、生存本能を震わせて萎縮する。
ぞっとした。正直に。
冷えた汗が滲みそうな心地であるのに、その感覚ごと、冷えた手で心臓をわし掴まれ、瞬時に抜き去られ投げ捨てられたような残像が、身体に重なって脳に伝わり、総毛立つ隙もなく通り過ぎていく。
僕は、人と相対して、こんなにも寒気を覚えることなんて、初めてだった。
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