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#47 玄関に雲母舞う
上に取り付けられたベルをカラカラと鳴らしながらドアを引くと、手前のダイニングから小走りで押し寄せてくる気配が迫って来た。
「おかえりなさい、遅かったじゃない! お友達が一緒だって……っ、」
「ただいま……」という僕の呟きは、音量のせいじゃなくとも、きっと聞き流されていた。
僕の陰から、そっと顔を覗かせた柚弥は、誇張じゃなく見慣れた玄関 の提灯型の暖色の灯りの下 、
まるでその髪や肌から雲母 がきらきらと舞うような、発光するばかりの微笑みを魅せ、柔和にその端麗な瞳許をほそめた。
「今晩は。夜分に、突然申し訳ありません。裕都 君の隣の席になった、橘 柚弥 と申します」
声も、普段僕達の間で話す調子じゃなく、艶を帯びたすもものような唇から紡がれたそれは、
まるで清流のせせらぎを想わせる旋律のようだった。
目の前の、母 は、その天使降臨のような光景を目の当たりにし、
「えっ」という小さな高音を飲み込んで、三秒程、停止した。
そして「あらやだ……っ」とひそかに喘ぎ、ぐにゃぐにゃと不自然な動きをしながら、何故か手首に巻き付けていたシュシュで、垂らしていた髪を忙しなく団子状にくくりつけ始めた。
「……いやだわあ、まあそうなの! ご丁寧にこちらこそ今晩は、裕都の母です!
いやだわあ違うのよ、普段はこんなのじゃないのよっ! これ、裕都の中学のテニス部の時の格好だけど、まだ綺麗で裕都も背が伸びたもんだから、勿体無くて着てるのよ!
もう裕都ったら、早く言ってよ! お友達と来るって言うから、お母さん普段通りのままだったじゃないっ!」
「いやだから、友達連れてくって言ったでしょ……」
いつも通りなのかそうじゃないのか、既に話が矛盾している。
だから、柚弥はこうだから、あれ程心構えをしておけ、むしろ塩対応くらいで構わないと張っておいた僕の事前通告と予防線は、あえなく棄却と切断をされ、(多分、柚弥のその心しておかねばならない度合いが、基準や彼女の予想を圧倒的に超えたのだ……)
持ち前のつまらない ことはスルースキルを発動し、早くもテンションの均衡を崩している母に、柚弥は秀麗な笑顔を崩さず「よくお似合いです」と囁き、
いつからか勝手に僕の中学の部活Tシャツとハーフパンツを纏う「ええっ」と歓喜の声を上げた母へ、歩み寄って紙袋を差し出した。
「すみませんこちら、裕都君もご家族も、甘いものがお好きと伺ったので、宜しければ皆さんで召し上がって下さい……」
「あらあこれ! この辺じゃ高校 の駅のところしか出店してないタルトでしょう! ちょうど裕都に買って来てって言おうと思ってたのよ! もーうこの子もぼーっとしてるもんだから、早くも橘君に先を越されちゃったのねえっ!」
「あ、裕都君がそうアドバイスしてくれたからこれにしたんです」と柚弥はすかさずフォローをくれたが、「やっぱり橘君は心映えも、お顔並みのものがあるのかしらあー!」という賛美にかき消され、
僕はもう、さり気なく低批評も入れられたが、何の弁明もする気が起こらず、脇のジニアやチョコレートコスモスの鉢に目を逃避させ、あ、咲いたのか……と、いっときの癒しを得ていた。
「まあそうなの、あなたがお隣の橘君なの……! 失礼だけど橘君は、どこかの事務所に所属してらっしゃる!?」
「柚弥で良いですよ、お母さん。まっさかあ。ただの一般的な男子高校生ですよ。裕都君みたいな清潔感もないですし」
「あらあそうなの? いえね、この子ったら実は昨日、普段落ち込むタイプでもないのに、随分沈んでるというか、帰って来てからずっとぼーっとしてて……。何かあったのかとは思ってたのよねえー」
「そうだったんですね……。すみません、裕都君があまりにも爽やかで親しみやすいから、早く仲良くなりた過ぎて、僕が沢山話しかけるから、きっと裕都君を疲れさせてしまったんです……、」
「あらまあそうなの! そんなことで疲れるなら、随分贅沢な疲労もいいとこね! まあこんな綺麗な子と隣になったんじゃ、そりゃあ自分の人生に絶望もしたくもなるわよねーえ!」
「あははあ、大袈裟だなあ。それにしてもお母さん、驚いたな……。とても高校生のお子さんをお持ちとは思えないくらい、素敵だから……。お会いした時からずっと、実はちょっと緊張してたんです……」
「あらまあいやだわこの子ったら!! こんなおばさん捕まえて、何も出てきやしないわよっ! もういやだわああほんとにいっ!!」
「……ねえ。何でも良いけど、柚弥君も疲れてるんだから、早く家上げなよ……」
僕の存在を置き去りにして、話が弾むのは大いに結構だが、いつまでも玄関先でのあははおほほに収拾がつきそうになく、僕の呟きを潮に、我に返った母はようやく柚弥を中へ招き入れた。
どうなることかと思ったけど、良かった。
隣の柚弥は、顔面の輝きは相変わらずだけど、——楽しそうに笑っている。
「柚弥くうん、もうここは、あなたのお家だと思ってくれて構わないのよお?」
「わあ、嬉しいなあ。……あっ、これいつの時の裕都君!?」
「えっ……、ああもうこれ、見なくていいから! てゆうかいつまでも飾っとかなくていいから!」
靴棚の上に飾ってある中学の地区大会出場時の写真立てを、僕は慌てて裏返した。
不意に現れる僕の懸念は、居慣れている筈の家の中で、事あるごとに覆される。
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