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#64 知らない声

 部屋の中央には柱が立っていて、子供部屋としては奥行きのある、余裕を持った広さだった。  柚弥の(はだか)の足は、歩いているのかも判らない程きしとも鳴らず、 中央の端に避けていたサイドテーブル、柱を過ぎた辺りから振動が止んだので、おそらく、通話ボタンを押したのだと思う。  扉に行き当たると、向かって左隅にはギターが、右側の隅には何もない。  わずかな空気の流れから、柚弥は何もない右側の隅へ向かったようだった。そして、多分その床にしゃがみ込んだ。  膝を折り曲げて、電話を耳に当てる横顔が脳裏に描かれる。  やがて、実際にしゃがんだことが窺える、くぐもった、小さな小さな囁きのような音が、部屋の床に添うように、そっと伝った。 「…………お疲れ」  出方からして、もう通常思いつく限りの、あらゆる雑多に存在する単純な『関係』とは、一致しない空気が部屋の隅から、吐息のように漏れていた。 「…………。何だよ……。は……? 当たり前だ、怒ってるに決まってるだろ。誰のせいだと思ってる、誰の……」  低くこもるような声音で、始めは突っぱねていたが、後半には自嘲するような掠れた笑いが含まれていた。 「…………仕事行った? 『お疲れ』で合ってるでしょ……。そりゃ行くよね、さぼる訳がない……。 つうか、どこだ、そこ。いやに静かだな……。 えっ……、何で、始発まだじゃん……。あ、車出して貰えたの……? 誰に? リョウジさん……? だってあの人川崎とかじゃなかったっけ。……はあ、良い人だね。あの人……」 「えっ……、あ、ごめん、痕残った……? だから同情されたって? ふふっ、やるなあ俺も……。 当たり前だ、謝る訳ないだろ。あーあ、見たかったなあその(つら)……。お姉さんとかにびっくりされたりして……。あ、逆に心配されて寄って来られ……、は? むかつく……」 「うん……。そうだけど……。は……? 違、そんな訳ないだろ、何言ってる、 そういうんじゃない、そういうんじゃないって言ってるだろ。何回言えば解るんだよ、もう……」  始めから、『相手』は誰か判っていた。  そして怒っている、誰のせいだと咎めを繰り返しても、柚弥(かれ)が『彼』のことをとっくに許していることも、よく判った。 「今日、オールナイトだったでしょ……。誰だっけ……。え、まじか。俺だって本当は行きたかったのにさ。誰かさんが何かしてくれちゃったからさあ。 てか本当は寝たかったんじゃないの。寝た……? ああ電車の中でね、うん……。 あーあ、また行きたいなあ。あの爆音と眠さでぐちゃぐちゃな感じ……。眠気覚ましにやけくそで呑んだら、まじで前後不覚で、地下鉄の駅の壁激突して、 またタカシさんとこの誰かに車出して貰わないとやばい。夜中なのに超迷惑、けど普通に誰か出動するし……」  軽やかさを押し殺した笑声が、くっくと低く漏れる。よほど愉しい共通の思い出を反芻するように。  そこから『ふたり』は、取り止めのないと思われる話を少しの間していた。  声と場所を気にしているためか、ゆっくり、静寂に溶け込むようにくぐもった声で話しているので、聞き取れないこともしばしばあった。  と言うより、実際判らない内容が殆どだった。  僕の知らない名前、地名、シチュエーション。圧倒的に不足している情報の断片。  柱のように、当たり前の事実としてそれが横たわる。  (はた)からでも、およそ高校生離れした行動の有り様が聞いて取れたが、それよりも、知った、あるいは一定を超えて感じたと思っていた柚弥という存在の、彼を包む僕の()らない『フィルター』の厚みを、ただ改めて感じ入るばかりのようだった。  まるで、知らない人みたいだな……。  あんなに、喋ったのにな。  寝入るまで、あれだけ互いの胸襟を開かんばかりに夢中になって喋ったと思っていたのに、 充足した熱さえ感じていたあの時間が、何だかひどく、遠いことのように想えた。  だけど。  それにしても、と彼の声音を聴いていて感じる部分へ、僕は耳を澄ませたままでいる。  ……なんて、やさしい声をして喋るんだろう。  うん。うん……。そうだね。でもそれって。  そうなんだ。…………うん。 ねえ、あのさあ……。  それだけの、他愛のないやり取りと相槌。きっといっときの欠片に過ぎない、言葉たち。  友人、家族、——恋人。  確かな糸で繋がれた人達は、この世に沢山存在する。  だけど、の話す声というものは、 こんなにも静かで、ささやかで、やさしいものなのか。  僕の部屋のなかにいま在る、世界にただふたりだけの、閉ざされた空間。  その声を紡ぐ時の、彼の横顔が滲み出てくるような、 この声も、こんな声で喋る『彼』も、僕は知らない。  それもまさに、僕のまだ見ぬ柚弥の『ほんとう』の、きっとごく一部なのだ。

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