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社員寮の男(4)
その日はひさしぶりに早めに会社を出た。
もうすっかり顔なじみになった守衛が、ろくに身分証もみないで挨拶する。男は軽く頭を下げて通る。真夏になって、営業職でもないから、上着なし、ネクタイなしの半袖シャツでも問題がないのはありがたい。
線路沿いを一駅ぶん、歩いて行こうとして、ふと景色がいつもとちがっているような気がした。線路の上にひらけた夕暮れ色のほの紅い空をみつめて、何がちがうのだろうかと男は考えた。しばらくしてやっと、違和感の意味がわかった。線路ぞいの土手に建っていた古い商店が何軒か、取り壊されているのだ。
いったんなくなってしまうと、あそこにどんな店があったのか、もう思い出せなかった。空地は意外に狭くて、その向こう側に、これまで隠されていた賃貸住宅の壁があらわになっている。壁はコンクリート打ちっぱなしで、すこし古いがしゃれたデザインだった。
「あの空き地、ここからみえるあそこな。マンションが建つらしい」
夜になってこの話をすると、ベッドにねそべったまま、エアコンの効いた部屋の窓を指さして、ひょろ長い手足の男がそういった。
「どうしてこんなに建物ばっかりたつのかね」
「国道沿いにもそんなところ、なかったっけ」
「誰が買うのかな」
「さあ」
社員寮住まいに慣れてしまうと、賃貸も、自分で買う、というのも、どちらもぴんとこなかった。ものを集める趣味もないから、独身寮でも困らないのだ。もっとも最近はすこし不便を感じているかもしれない。この部屋にたびたび来ているせいだ。
「タバコ吸ってくる」
床からTシャツを拾ってかぶりながら、ひょろ長い手足の男がいう。
彼はヘビースモーカーではないが時々吸うのだと、今ではよく知っていた。銘柄はいつもメンソールのライト。けっして寮の室内では吸わなかった。吸うときは屋上の洗濯もの干し場へ行く。
「一緒に行く?」と、起き上がって男はたずねる。
「来たい?」
「来てほしい?」
夜中の屋上はがらんとしている。むっとした空気がつつんで、たちまちじんわりと汗が出てきた。
「サウナだよな。外なのに」
ひょろ長い手足の男は、フェンスのすぐそばでライターをかちかちいわせながら、文句をいう。
「夏だから暑いよ」
「最近の夏は暑すぎだ」
藍色の空に丸い月がのぼっているが、雲もほの白く流れていて、月はそのあいだで追いかけあうように、見えたり、隠れたりしていた。
「あそこの空き地」と、隣の男が指さした。
「あそこにマンションが建つらしい」
「ずっと空き地だったっけ?」
「いや、畑だった」
隣の男がくわえるタバコに火がついて、暗い中でオレンジ色のホタルのようにすうっと光った。
「建物できたら、すぐわからなくなってしまうだろうな。前が何だったかなんて」
「そうかな」
「そんなもんでしょ」
雲が切れて、月がぱっと明るく照らした。
「きれいだな」そういうと「何が?」と長い足を組みながら、隣の男が聞き返した。
「月が」そう答えた。もう一度いってみた。
「月がきれいですね」
隣で男が軽く笑ったような気がした。
笑いながら「そうですね」とささやく声が聞こえた。横をむくと、またホタルのようにタバコの火がすうっと光った。
「タバコっておいしい?」ふと思いついてたずねた。
「ん。どうだろう」隣で男はすこし考えたようだった。
「たまに吸いたくなる。こういうときに」
「こういうときって?」
「だから、こういうとき」
「月がきれいなとき?」
「そう」
男はまたふっと笑った。みると長い手足を折り曲げるようにして、こちらにふわりとかがんできた。
「月がきれいなときね」
(「社員寮の男」終わり)
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