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階段の男(1)

 改札を出てすぐに眼に入るのは居酒屋と焼き肉屋の看板だ。駅ビルの通路の片側は、花粉症の対策グッズが花盛りのドラッグストアで、向かいが学習塾。  彼は通路に入らずに左へ曲がり、長いエスカレーターで天辺まであがった。  頭上に夕焼け空がひらける。とたんにくしゃみが出た。続けざまに三回。そろそろ自分もか、と思った。花粉の免疫は人によってサイズのちがうコップのようなものだという、テレビかネットで知った説明が思い浮かぶ。  広場はモザイク風の模様で舗装されている。この駅を最寄りにして一年、通るたびに見ているのに、いまだに何の模様なのかさっぱりわからない。歩きはじめると眼の前をふわっと白い毛が飛んでいく。そういえば少し前まで、街路の植えこみにまぎれこむように黄色いタンポポがたくさん咲いていたのではなかったか。今はその花が全部白い綿毛に変わっている。  ゆるい上り坂の歩道を歩く。東京都下のベッドタウンらしく、両側に大型電気店、スーパー、居酒屋や古着屋、スポーツジムの入った雑居ビル、カフェのチェーン店がならぶ。少し先に大型書店、そしてまた電気屋。歩道は公園の緑の斜面に向かって伸びている。大型店舗の壁にさえぎられているせいか、歩道の先の高台に建つマンションの列と、マンションを囲む緑地帯以外は視界に何も入ってこない。電線もないし、車の走る道路も見えず、映画かドラマのセットじみている。最初はこの風景に驚いたが、この頃は慣れてしまった。  彼は歩きつづける。自分の住まいは公園沿いの歩道の途中、マンション群の手前の賃貸アパートだ。三階建ての三階、公園に面した隅の部屋。夕焼けがきれいだった。東側の空は薄い青で、上を見上げるとただよう雲がいくつかピンクに染まっている。アパートに向かって歩くうちにどんどん空の青が濃くなり、光が薄れていく。ふと思いついて、彼はポケットに手をつっこんだままアパートの前を通りすぎた。仕事柄あまり外出しないから、たまに出かけた後でもあるし、もう少し散歩しようと思ったのだ。  彼はここから数駅先の、ここと似たようなマンションが立ち並ぶ街にある大学を修士まで出た。院生時代から翻訳のアルバイトをはじめ、修士を終えたあとは特許翻訳を仕事にして、二年経った。  我ながら呑気に暮らしていると思っている。専門で鍛えられたせいか仕事は性にあったし、評価もそこそこもらえているし、一人で食べる分にはどうにかなる。在宅で好きなように働いて、大学の最寄り駅程度なら遊びに行くが、それ以外の外出はめったにしない。  今日も大学の研究室で恩師と話をして、その後近くのシネコンで映画を一本見て、帰ってきたところだった。手近に何でもそろっている生活が身について、都内に出るのもすっかり億劫になってしまい、前に出かけたのがいつだったのかも思い出せないくらいだ。テレビもないし新聞もないがネットはある。旧友とはメールのやりとりができるから、何日か誰とも会話しなくても不便はない。ただ、口の筋肉が少し弱っているような気がする。  学生時代からずっと、大学の近くのアパートに住んでいた。今のアパートに引っ越したのは少し広い部屋に住みたかったからで、駅を変えたのはこのままだとひきこもりも同然だと考えたからだ。なのに結局似たような街に住んで似たような生活を送っていることに気づいて、彼は苦笑したものだった。大学の最寄りは洒落たショッピングセンターやシネコンがあるから、純粋にベッドタウンである今の街の方がひきこもり度合いは高いかもしれない。  帰りの通勤時間帯なので、公園沿いの歩道には彼と同じ方向にかなりの人が歩いている。犬を連れてゆっくり散歩中の人もいれば、足早にマンションへ向かって歩いていく女性もいる。帰って家族の食事を作ったりするのだろうか、と彼は想像する。大変だな、と思う一方で、自分に縁がないと感じているからか、その「大変さ」に実感は持てなかった。  公園はマンション群の周囲に広がっている。ゆるい坂道をずっと歩いていくと、途中に野球場やテニスコートがあり、公民館が建っている。芝生のなかに人工的な小川が流れ、ちいさな池がある。踏み固められた細い道があいだに続く。  小川や池だけでなく、風景はすべて、どこか人工的だ。このあたりも東京都の中では「田舎」なのだろうが、彼が育った地方の町とはまったくちがう。高校生らしい制服が自転車に乗って彼を追い越していく。生まれた時からこの街で育つとはどんな感じなのだろうか。この人工が「自然」になるのだろうか。  公園は晴れた休日ならいつも住民で賑わっている。けれど今は平日で、そろそろ夜になるから、彼の視界に入るのは道をいそぐ人だけだ。でも彼の家には誰もいないし、昨日納品を終えたばかりで今日は実質的な休日だし、誰かと食事をする約束もない。  誰かと付き合ったり暮らしたりする状態を想像できなくなって、もう何年もたつ。一生このままなのかとたまに思うが、それでもいいような気もしている。とりあえず健康で、呑気に暮らしてはいる。  ふと上をみると、黄色い星がひとつみえた。惑星。木星? 彼はあいまいな天体の知識と照らしあわせようとして、あきらめる。ふらふらと歩いていくと階段がある。登りきると公園の最上部で、そこからは駅の線路まで見渡せる。このあたりに住んでいる利点のひとつは、マンションの上階に住んでいなくても、広い空があることだ。  この階段を上るときはスニーカーの足音がはっきりきこえる。歩道ではきこえないのに。全部で何段あるのか、一気に駆け上がると息が切れる。彼はリズミカルに上がっていく。階段のてっぺんまで来てふりかえると、空の色はほとんど夜になっている。  プシュっと缶をあける音が聞こえた。  彼はそちらに顔を向ける。階段の上、歩道の脇に置かれたベンチにスーツ姿のサラリーマンが座っている。いや、スーツ姿だから彼はサラリーマンだと思ったのだ。コンビニの袋が横に置いてあって、片手にビール缶、片手にアルミ箔を半分剥いたチーズをもっていた。  街灯がぼんやりベンチを照らしている。  先週もここで同じ男を見た、と彼は思った。同じようにコンビニの袋を横に置いて、同じようにビールを飲んでいた。ただ時間はもっと遅かった。彼が気分転換に、夜中に散歩に出た日だった。  その前にも、この男を見たことがある。  男はネクタイをゆるめていた。にらむような眼つきで駅の方を見ていたから、つられて彼も同じように駅の方を見た。特に変わったものは見えなかった。星がまたひとつ夜空に浮かんだ。  突然猫がどこかで鳴いた。  ベンチに座った男はびくっとしてあたりを見回した。彼の方が先に猫に気づいた。植えこみの影から出てきて人間たちをうかがっている。真っ黒の猫で、公園でよく見かける。去年地域のボランティアが何匹か去勢した猫の写真を公民館の掲示板に貼っていて、彼はそれを覚えていた。  ベンチのサラリーマンは彼と同じように猫の方をみつめ、頭をさげた。そっと手をのばす。 「にゃ?」と鳴きまねをした。ついで「おいで」とささやく。  猫はしのびやかに歩いて、男の足のすぐ近くまで来た。男はみつめている彼に気づいているのかいないのか、伸ばした手を猫の頭に近づける。  触れるか、と思った瞬間、猫はささっと遠のき、また植えこみの方へ行ってしまった。彼がみつめるうちにも木立の影に隠れ、見えなくなった。 「あーあ」とベンチの男がいった。 「今日は触れると思ったのに」  ひとりごとだと彼は思った。ところが男は彼の方に顔を向けて「もう少しだったよね?」といった。 「えっ……そうですね」突然話しかけられて、彼はとまどった。 「もう少しでしたね」 「またチャレンジだな」  男はビールを飲んだ。少し顔を上に傾けて、こくこくと、いい飲みっぷりだった。喉が動く様子に彼は見とれた。男の眼のしたはくぼんで、疲れた顔だったが、街灯の明かりに半分影になった顔立ちは整っている。はっとして彼は眼をそらした。みつめすぎたような気がした。 「飲まない?」  男がいった。コンビニの袋をガサガサ鳴らしてビールをもう一缶取り出した。彼の方へ腕を伸ばす。空き缶がベンチに転がっているのに彼は気付いた。この男はいつから飲んでいるのだろう。 「いや、俺は……」  またとまどって、彼は断ろうとした。 「ならやるよ、これ」  男はベンチの端に腰をずるように寄せ、彼にビール缶を押しつけようとした。 「今日も猫に振られたからさ。おすそ分け」  意味がわからない。けれど彼は男の顔とビール缶をみくらべ、結局受け取った。その場でプルタブを引くと男は嬉しそうな顔をして、頬に小さくえくぼが浮かんだ。自分の隣に置かれたコンビニの袋の方へあごをしゃくって、彼に「座ったら」という。  いまだにとまどいながら彼はベンチに腰をおろしたが、なんだか嬉しいような気分にもなっていた。ふとみると星がもうひとつ増えている。視界の先では駅のプラットフォームが金色の明かりで照らされている。 「野良猫じゃなくて、地域猫っていうらしいね」と男がいった。 「あの猫ですか」 「うん。ああいう猫。誰も飼ってないけど、誰かが餌をやってる」 「去勢したって出ていましたよ。掲示板に」 「このへんに住んでるの?」 「ええ、まあ……」 「俺はあっち」  男はふいにベンチからふりむいて、後方にそびえる大きなマンションへぐいっと人差し指をのばした。「あそこの七階。七〇七号」  突然こんなことをいうなんて、この人はもう酔っているな、と思いながら彼はビールを飲んだ。何だかおかしなことになってしまった。 「いい数字ですね」と、とりあえず口に出してみる。すると「何が?」と男に問い返された。 「七〇七ですよ」 「何で? 七七七ならともかく」 「五つの連続した素数を足した数字です」  男はにやっと顔を崩して笑った。 「もしかして数学者か何か?」 「まさか。趣味です」 「いろいろな趣味があるな」  男はそういってまた笑った。彼はまたビールを飲んだ。すこしぬるくなっているのに、不思議と美味しく感じた。 「地域猫って、面白い呼び方じゃないか?」  また唐突に男がいった。 「え――そうですか」 「街猫とかご近所猫とか呼んだっていいのに。役所みたいなネーミングだ」 「いわれてみるとそうですね」 「チーズ好き? 食べていいよ」  男の話はとりとめがなかった。なのに結局、彼はアルミ箔に包んだチーズをもらい、ビール缶をひとつ空けてしまった。たいして長い時間ではなかった。 「その――ごちそうさまでした」  無意識に握った空き缶がへこんで、ペコンと音を立てる。男はハッとしたように眼をあげて彼を見た。すぐ隣にいたのに存在を忘れていたかのような眼つきだったが、すぐに気を取り直したようだった。どうみても酔っているのに眼つきは精悍だった。 「いや、どういたしまして」  階段を降りる途中で彼は上を見上げた。男はまたにらみつけるような眼つきで遠くを見ていた。

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