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路地裏の男(1)

 壁の一部がうねってへこんでいる。  彼は床にねそべってぼんやりしたまま壁の表面を眺めていた。今日は十日間の連続勤務のあとでやっと手に入れた休日で、目覚めたときはすでに昼だった。何の予定もなかったが、何もしないのも嫌だったから、部屋の掃除をし、ずっと前に通販で買ったフロアマットを床に敷いたのはいいが、それだけでくたびれて、またこうしてごろごろしている。  壁のうねりのせいで、壁材の模様がなんだかおかしな風に歪んでみえた。  不動産屋の話によると、このアパートは大家が自分で補修したらしい。築年数など聞くのもばかばかしいような古い安普請の建物で、持ち主は何度か変わっているようだ。  彼が入居したとき、不動産屋の広告には「リフォーム済」と書いてあった。たしかに看板に偽りはなく、古い砂壁の上は淡いクリーム色の壁材が張られ、床も濃い色をした木目調で、取り換えたばかりというユニットバスもまあまあきれいだった。一畳強のキッチンスペースもあるし、玄関を入ってすぐの階段を上ると押し入れつきの畳の部屋もあり、階段下にも収納がある。  そう考えてここに住みはじめてから五年以上過ぎている。入居時は気にしなかったが、柱はかなり歪んでいたし、壁材の貼り方は素人仕事らしくいいかげんで、桟や梁も傾いている。もともと地盤がよくない場所らしく、アパート全体がゆっくり歪み続けているのだ。  周囲を取り囲むように建っているのも似たようなアパートで、ベランダや出窓なんてしゃれたものもないから、窓は一階も二階も飾りのようなもので、昼間入ってくる光はほんのわずかだから、電気をつけないと薄暗い。  もっとも今日のように彼が昼間部屋にいるのは稀だった。薄暗い中で壁をみつめながら、疲労というものは人類のやる気を失わせるな、などとらちもないことを考え、そうこうするうちに部屋はさらに暗くなった。  もう夕方なのだ。  掃除以外何もせずに終わってしまった一日だった。とはいえ休日はあと二日ある。十連勤明けの週末に加え、とくに用事もないのに有休をとっていた。  彼は起き上がってのろのろと支度し、玄関を出た。すぐそこは小石の敷かれた細い路地だ。他の建物が近すぎるせいで空はひどく狭いし、電線ばかり目につく。都会のど真ん中なのに、密集した建物のせいか車の音はあまり聞こえない。  隣や向かいが火事になったらここも燃えるな、と彼は鍵をかけながら他人事のように考えた。不動産屋の広告には「タウンハウス」と記されていた彼のアパートには二世帯しか住めない。なのに彼は隣に住む人の顔も知らない。火事が起きても誰が誰かもわからないかもしれない。  路地はアパートの角で直角に曲がっている。原付バイクが一台通れるほどの幅を歩き、邪魔な電柱の横をすり抜けると舗装された道路に出る。いつもみかける灰色の猫が尻尾を振ってのんびり歩いて行った。  猫はほかにもいて、彼はおぼろげに見分けている。アパートに引っ越してから知ったことだが、この街は猫がたくさん住んでいる。猫にとって住みやすい街なのだろうか。学生街として昔から有名な街だ。駅前の方向へ少し歩けば、居酒屋やひとりで入れる食べ物屋もたくさんある。  彼は財布だけをポケットにいれて舗装された道を歩く。十メートルほど先にライブハウスの看板が光っている。入口付近に今日も若い女が群がっていた。  一階には上半分がガラス張りになった小屋のようなスペースがあり、ライブのフライヤーに混じって「迷惑になるので道路に出ないでください」と書かれた貼り紙が貼られている。実際にライブが行われるのは地下のスペースで、そこへは小屋のようなスペースの横の扉から、階段を降りていくらしい。  らしい、というのは、彼は毎日ここを通るのに一度もこの中に入ったことがないからだ。ガラス張りのスペースには見覚えのある男がいて、ひらいた窓をのぞく女の子に何か説明している。彼はちらっと男をみる。ウエーブのかかった髪は長めで、首のうしろで結んでいる。Tシャツの柄はいかにもバンドマンといった雰囲気のものだ。  今のアパートに引っ越した日から、彼は週に何度かこの男の姿をみていた。もっとも日のある時間帯に目撃するのは珍しい。たいていは彼が会社から帰ってきた夜中で、扉にシャッターを降ろしていたり、出演者なのだろうか、ギターケースを背負った連中と並んでいたりする。  きっとこの男もミュージシャンなのだろう、と彼はなんとなく推測していた。毎日スーツで会社へ行っては戻りの生活をする自分とはまったく縁がなさそうな人間だ。  そんなことを思いながら歩いた拍子に舗装を滑った足が小石を蹴った。小石は彼のアパートの路地に転がっているものと似ていた。あっと思った時にはライブハウスの方へ飛び、看板の脚にカチンといい音を立てて当たる。  ガラスのむこうにいた男が眼をあげて彼をみた。小石を蹴るなんてどうということでもないのに、彼はみょうに引け目を感じて、軽く、ほんのわずか頭を下げた。といっても、ほとんど揺らした程度だっただろう。  なのにガラスの向こうにいた男は彼に向かって軽く手を挙げ「こんばんは」といった。  予想もしなかった挨拶だった。彼はどぎまぎしながらうなずいた。男はすぐに眼をそらした。うしろから若い女の声がひびく。彼は足早に歩いて広い通りへ抜けた。もう街灯が光る時間だった。

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