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路地裏の男(2)

 駅と反対方向へ歩いていくと川がある。  それほど大きな川ではないが、昭和のふるい歌謡曲にも登場する有名な川だ。もっとも彼にとってはただの川でしかない。両岸に沿った道には一戸建の家やワンルームのアパートが並ぶ。すこし歩くと橋があって、近くには小さなカフェや食べ物屋が軒をつらねている。だが線路に近づくと川は急に屈曲してみえなくなる。どうやらその先は暗渠になっているらしい。  川が暗渠にもぐる手前にはコンクリートで作られた四角い構造物があり、黄色い看板が立っている。たしか、上流が大雨で放水するときは警報を鳴らすとか、そんなことが書いてあるはずだ。彼がこの街に引っ越した当時は物珍しさにあちこち散歩したし、そんな警告にも眼をとめたのだが、今は横を通り過ぎる以上のことはしない。第一、彼が川の横を歩くとき、水面はいつもずっと下にある。  橋の近くで最近オープンした店へ行くつもりだった。なのにもう長い行列ができている。ローストビーフ丼専門店らしく、「ローストビーフおかわりし放題!」というのぼりを見たから一度入ってみたかったのだ。でもみんな彼と同じことを思ったのだろう。  行列は小さな店をぐるりと囲むように続いていた。並ぼうかと彼は迷ったが、列に近づくと大学生のグループやカップルがしゃべっている声が聞こえて、なんとなくその気が失せた。明日か、その次の休日にまた来ようと考えなおし、別の店をさがす。  結局、何度か入ったことのある魚定食の店に入った。店内のテレビ画面に流れるバラエティ番組をぼうっと眺め、西京漬けの鮭を焼いたのをおかずにご飯を食べて、味噌汁。野菜が足りないだろうか。そんなことを思いながら会計をして、川の横を歩いてアパートへ戻った。玄関の前で猫が鳴いた。彼がびくっとして後ずさると、悠然と彼をみて首をかしげ、そろりと路地を歩いていく。  このあたりの猫は飼い猫なのか、野良猫なのか、いまひとつよくわからない。おまけに彼は、犬猫のたぐいは遠目に見るのはよくても触るのが怖い性格ときている。アレルギーがあるわけでもなく、単に生き物が苦手なのだった。予想もつかない行動をとるからびっくりしてしまうのだ。水槽を泳ぐ魚ならまだいいが、カニやタコのような生き物もあまり得意ではなかった。食べるときは別として。  掃除をしたばかりの部屋でポテチを食べながら、しばらく放置していたゲームの続きをした。アパートはおんぼろだが、SEという職業とそっちよりの興味のせいでパソコンのほかに液晶モニターは二台あるし、タブレットもある。パソコンは仕事以外に趣味でプログラムを組むときに使う――こともあるが、結局ゲームで終わることが大半だ。もちろん専用ゲーム機もテレビのそばに鎮座している。  ゲームの合間には学生時代からの古い友人とSNSでやりとりしたり、マンガを読んだり。たまに実家の母親から電話がかかることもある。弟もみんな実家を出てしまい、母は時間をもてあましているらしい。  そんな調子でいつもの休日の夜をすごして、眠くなって歯を磨いていたときだった。玄関のドアにドサッと何かがぶつかった音がして、次にガチャガチャとドアノブをいじる音が響いた。  ぎょっとした彼は歯ブラシを口に突っ込んだまま硬直した。ドアの向こうで「なんだよ、あかねえぞ……」という声が聞こえる。安普請のアパートだからすぐ外の音は筒抜けだ。何秒かそのまま突っ立って、我にかえった彼は玄関脇の小窓に近づき、3センチほど開けて外をのぞいた。  ドアの前にあの男がいる。ライブハウスの男だ。  どうやら彼の部屋のドアに鍵をつっこんで回そうとしているようだが、いったいなぜこんなところにいるのか。彼は玄関灯のスイッチを押した。明るくなれば気づくかと思ったのだが、男はあいかわらず「くそ、これだから……」などとぶつぶついっている。足元はおぼつかない様子で、どうもかなり酔っているらしい。  彼はすこし考えた。それから歯ブラシをくわえたまま、内側から鍵を開けた。 「うわっ……え? あれ?」 「間違えてますよ」  歯ブラシのせいで妙な発音になった。「はにはえてまふよ」といった調子だ。 「ここは俺の部屋――ええええ!」  ライブハウスの男はドアをぐいっと引き、敷居に体を半分押し入れてきた。カチャンと音が響いて足元に何かが落ちた。酒臭い息がもれ、そのままふらりと背中を玄関の壁につけて――動かなくなった。  彼は息をのんでみつめていた。男は眼を閉じている。胸が上下して、信じられないが、立ったまま眠っているようだ。足元に落ちているのはキーホルダーのようだ。彼はあいかわらず歯ブラシをくわえたまま、そうっと体をかがめてキーホルダーを拾った。鍵がいくつもぶら下がった輪っかに、彼の部屋の鍵にそっくりな形のものがある。  もしかして、と思った。彼は歯ブラシを窓の桟に置いて男の肩に手をかけた。他人にこんな風に触るのはものすごく久しぶりのような気がした。 「ねえ、ちょっと」  男は答えない。 「ひょっとして隣に住んでますか?」  すうーすうーっと寝息が聞こえ、がくっと男の足が崩れた。彼はあわてて男をささえた。背は高いのに意外に軽かった。ウエーブのかかった髪は整髪料で硬く、顎にはヒゲが伸びている。なんだって俺はこんなことをしているんだろう? 休日の夜中に、間違って乱入してきた酔っぱらいを一生懸命支えたりして。  しかしこのままでいるわけにもいかない。とりあえず上がり框に男の上半身をのせ、彼はキーホルダーを握って外に出た。隣のアパートの鍵穴におそるおそるそれらしき鍵をさしこむ。もし誰か中にいたらどうしよう? ゲームをしていた間もこの部屋からは物音ひとつ聞こえなかったが……  鍵はあっさり回った。ドアの向こうにうすぼんやりとみえたのは彼の部屋を鏡にうつしたような間取りの玄関だった。逆方向に小窓があり、二階へあがる階段があり、靴箱がある。電気のスイッチも予想通りの位置にある。  スイッチを押すと、思いがけず明るい光が灯った。彼の部屋とは電球が違うらしい。彼はぱっと部屋をみて、なんだか凄い空間だと思った。壁が黒っぽいスポンジのようなものにおおわれているのだ。それに奥の方に見えるのはラックにおさめられた黒っぽい機械類で、そのあいだに液晶モニターが乗ったデスクがある。人が住む場所よりも作業場に近い。 「隣、開きましたよ」  自分の部屋の玄関に戻ると、男はあいかわらず上がり框の上にだらしなく横になり、軽いいびきをかいている。声をかけても反応しないので彼はすこし不安になった。急性アルコール中毒とか、そんなのでなければいいが。かがんで男の肩に手をかけ、ためらった。揺らしていいものだろうか。 「あの――ここで寝られても困る……うわあああっ」  思わず大きな声を出してしまったのは急に男の腕が背中にまきついてきたからで、そのまま酒臭い息の中に顔を押しつけられそうになって、彼はあわてた。反射的にぐいっとひっぱると男は眼を閉じたままなにやらむにゃむにゃとつぶやいたが、何をいったのかはわからなかった。 「あの、困るんで。起きてください」  こうなれば無理矢理にでもやるしかない。彼は男をひっぱり起こした。男は案外素直に立ち上がったから、目覚めているのかと思ったがそういうわけでもないらしい。腕が彼の首のまわりに回されて、息がとまりそうな勢いできつくからみつく。  彼は閉口したものの、そのままずるずると後ろに下がり、うしろ向きに隣のアパートへ上がりこんだ。男を部屋の中へ押しやりながら首にまきついた腕をはずすと、男はごろっと床に横になった。すぐにいびきが聞こえてきた。さっきより大きい。  彼はため息をついて部屋を見回した。玄関からもちらりとみえた、黒っぽい機械をつめこんだラック、デスク、片隅にキーボード、その他の棚に並んでいるのは……本、CD、それにレコードか。やはりこの男はミュージシャンなのだろう。  ふと不思議としかいいようのない気分になった。休日を邪魔されてもっと腹を立ててもいいはずなのにそう感じていないのは、漠然とした好奇心が満たされたせいだろうか。こんな生活をしている人間が本当に存在するということに驚いたせいかもしれない。  眠っている男をそのままにして、電気だけ消して彼は外に出た。鍵をどうしようかと思ったが、すぐに簡単な答えに気づいた。外からかけて新聞受けから中へ入れればいい。  ドアの向こうで鍵が落ちる音が聞こえると、おかしなくらいほっとした気分になった。一仕事終えたという感じだった。彼は自分の部屋に戻り、いつのまにか床に落ちていた歯ブラシを拾った。歯磨きをやり直していると、なぜか男のヒゲの生えた顔や首に巻きついた腕の感触がよみがえって、変な感じがした。

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