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また明日(「餃子の男」3)

 喫煙所は二重のロープで囲まれていた。衝立のような半透明の柵で囲まれていて、中に数人、座って煙草を吸っている。喫煙所は舗装された公園のようなスペースの中心にあって、真上はビルの谷間にぽっかりあいた夜空だ。  もっとも周囲に建つのは高層ビルでもなく、せいぜい四階建程度の雑居ビル、喫煙所から二メートルほど離れたところにはベンチがぽつんぽつんと並んでいて、黒や灰色の服を着たおじさんが夜中だというのにこれまたぽつんぽつんと座っている。 「檻の中の檻みたいだ」  思わずそういったら、俺の斜め前を急いでいるあいつは「ん?」と一応聞き返したものの、気に留めた様子もない。二重のロープに囲まれた喫煙公園の先にのびる細い路地を指さして「あそこだ」という。先に狭い道を渡って、続こうと思ったとたん横手から軽自動車が来た。  車が過ぎてから通りすぎざまに二重のロープをみると、一本には車避け(進入禁止)、もう一本には自転車避け(駐輪禁止)のラミネート看板が真ん中でぶら下がっている。公園に出入りする人々はだらんと垂れたロープをまたいでいた。  顔をあげるとあいつは路地の中からこっちを見ている。中華料理、立ち飲み屋、カフェ。サンタ帽をかぶった男があいつの横をすりぬける。俺のうしろでも大きな笑い声が聞こえる。今日はクリスマスイブだ――週の前半の平日で、おまけにこの近くの駅は大規模なクリスマスイルミネーションなんて縁のない昔ながらの下町だが、それでもクリスマス。どこかの店のドアからはクリスマスソングが聴こえてきたし、道を歩く人はケーキの箱をぶら下げているし、駅では香水の匂いがする女の子とすれちがった。  で、俺はあいつのあとを追って、あいつが待っている店の前にいく。 「ここ」  二階建ての店の前には古めかしい看板が立っていた。思わず俺はいった。 「――あんた、餃子、好きだな」 「うまいんだ」  クリスマスも餃子か。  口には出さなかった。だいたい、俺たちはクリスチャンじゃないし、ずっと前から約束していたわけでもない。残業していたら急に連絡が来て来ないかというから俺はいいよと返し、そしたらいつも降りるよりひとつ前の駅に来てくれといわれ、で、ついてきたらここだ。  あいつはガラス戸の中をみて、俺もそのうしろからのぞく。テーブル、奥に長いカウンター、持ちかえり餃子の窓は閉まっていて「注文は中で」と書いてある。席は半分くらい埋まっている。あいつはガラス戸に手をかけたが、急にふりむいて俺をみた。 「いい?」  いいもなにも、ここまで連れてきて何をいってるんだ。 「入ろうぜ」  中に入って最初にみえたのは茶色くなった色紙の列だった。カウンターの上、テーブルの横の壁……全部を覆っているのだ。昔のテレビ番組やタレント、落語家の名前が踊っている。入口近くにいたおっさんがお冷のコップを持ってくる。ジュウッといい音がきこえる。 「あー」俺の前に座ったあいつはちらっとメニューをみた。 「とりあえず二皿」 「餃子ね」  おっさんが念を押すようにいって、カウンターの奥の調理場を向いて「餃子ふたつ!」と怒鳴った。「餃子ふたつ!」調理場にいたおっさんも怒鳴った。 「すいません、ビールも」俺はあわてていう。 「生ないよ。大ビン? 中ビン?」 「中ビンで。あ、グラスは一つで」 「ほい」  前に座った男は飲めない。でも最近の俺は彼に遠慮せずに飲むようにしている。はっきりといわれたことは一度もないが、俺に遠慮されるのが嫌だとわかったからだ。この男は俺よりけっこう年上のくせに、引っこみ思案というか、はっきりしないところがある。なのになんだかんだで俺たちは続いている。続いているといっても、クリスマスイブに餃子屋だけど。  ビールが先に来た。コップに注ぎながら「あんた餃子、好きだな」と俺はいって、さっきも同じことをいったと思った。 「いや、そんなこともないけど……」  ほらまた、はっきりいわない。  ずっと前に行った餃子屋とちがって、ここは餃子以外にもメニューがある。油じみのついたメニューが壁を埋める色紙のあいだに張ってある。ビールのコップごしにニラレバ炒めがうまそうだ、なんて思っていると餃子が来た。  おっさんは楕円形の皿を二枚、タレ用の小皿を二枚置き、さっといなくなる。こういう店の餃子はどこも小さいな、と俺は思う。別に不満なわけじゃない。たまに行く大きな中華チェーンやスーパーの惣菜売り場にある餃子とはちがうというだけだ。  俺たちは同時に割り箸に手を伸ばす。前に座る男はラー油を注意深く一滴だけ垂らす。慎重な性格というより、入れすぎるのを怖がっているような気がする。ひょっとしたら何に対してもそうなのかもしれない。  餃子はこぶりだが、皮はもっちり、具はぎっしり詰まっている。味が濃いというか、こくがあるというか、つまり美味しい。俺は次々に箸をのばし、五個入りの皿は素早く空になってしまった。はっとして前をみると、もう一つの皿にはまだ餃子が三つも残っている。 「お腹空いてた?」と前の男が聞いた。 「まあ……急いで来たから」 「ごめん。急に」 「いや、用事なかったし。でも今からあんたのところへ行ったら、終電大丈夫かな」  深い意味はなく出た言葉だった。むしろ俺は餃子をもう二枚追加でいけるんじゃないかってことのほうが気にかかっていた。でも男の箸はぱっと止まった。 「明日は?」  俺は眼の端で店のおっさんを探しながら答えた。 「仕事だよ。まだ平日」 「え? あっ……」  おいおい、と俺は思った。どういう勘違いをしていたのか。大丈夫か。 「ごめん……」 「いや、いいけど。餃子食って帰るのもあれだけど」  実際週のまんなかに会ったことなんてこれまでなかった。だからメッセージが来たときはかなり驚いた。若干期待した――かもしれない。それでも結局、餃子なんだが。 「そうか。いや――失敗したな。明日……ほら」 「ほら?」 「クリスマスだから」  日付はわかっているのに曜日はわかっていなかったらしい。会社づとめじゃないとそんなことが起きるのか。俺はビールを注ぎながら吹き出してしまった。ついでに手をあげ、店の端にいたおっさんめがけて大きめの声で「餃子追加二枚!」と声をあげる。 「あ、ニラレバもください」 「餃子追加二枚、ニラレバ!」おっさんが復唱した。  俺の前では男がうなだれている。 「そうか……」 「あんた、クリスマスイブだから呼んだの。しかも明日が休みだと思って」 「えっまあ……まあね。今日はどこも混んでるし、僕も忙しかったけど、明日は……」  あーあ。俺は突然笑い出してしまう。まったく、なんなんだこの人は。  なぜかわからないが腹も立たなかった。呆れていたといえば呆れていたが、べつにいいや、と思えた。ビールがいい具合に回りはじめたせいだろうか。それともクリスマスイブだから。  笑っていると二枚目の餃子とニラレバが来た。 「あんた何なんだよ。俺、明日は仕事だよ」 「そうだね。ごめん」 「明日また来ようか」 「え?」 「明日は定時であがって急いで来るよ。マンションでピザでも取ればいい」 「あ……いいのかな……」 「いいって」  俺は焼きたての餃子に箸をのばす。この男にはっきりした答えを迫っても、どうしようもないのだ。でも彼は答えを持っていないわけじゃない。 「ラー油、少なくない?」  タレの小皿をさして俺は聞く。 「あ……そうだね」 「もう少し入れたら?」 「そうする」 「入れすぎたら俺がもらうから」 「あ、うん」  小皿に垂らしたラー油はてん、てん……とつながり、細い三日月のような形になった。 (おわり)

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