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屋上の男
デパートの最上階には忘れられた遊園地がある。
ほんとうは遊園地というほどのものではない。ちいさな子ども用の遊具、ミニアスレチックのようなものが据えられ、ベンチがいくつか並んでいる。屋上の入口から突き出した屋根の下に自動販売機、コインで動く遊具が二台。ミニアスレチックの横を通ってまっすぐ端まで歩いていくと、柵の手前にコイン式のさびついた遠望鏡。
最後に使われたのはいつなのか、コインを入れても動くのだろうか。遠望鏡の前を通るたびに彼はいつもそんなことを思う。疑問を解消したければ一度試してみればいいだけだ。財布から百円取り出して入れればいい。しかし試したことは一度もない。
雨が降っている。
彼は傘をさしたまま柵の前を通りすぎる。屋上といっても、このデパートより高いビルはたくさんあるから、風景はたいしてひらけていない。梅雨が明ければ毎年ここにビアガーデンのテントが立てられる。もっとも、彼がその時期に屋上へ来たことはなかった。暑すぎるのだ。
雨が降っているくらいがちょうどいい。彼は屋上の端にあるガーデンショップを目指す。鉢植えや園芸用品が並ぶガーデンショップは屋上へのもうひとつの出入り口だ。植物に水をやるために使うのか、生垣に囲まれた通路のあいだに小さな溝が切ってあり、水道の蛇口が突き出ている。蛇口のハンドルに小鳥がとまっている。雀だ。
彼はぎょっとして足をとめた。思わず傘をさしかけてみる。濡れているのは金属でつくられた小鳥のオブジェだった。気がつかなかったな、と彼は思う。ここには何度も来ているのに。
通路をぬけると緑のつるのからみついたあずまやが立っている。その下にテーブルが四つならんでいる。知っている人は知っている休憩場所で、晴れた日はいつもそれなりに人がいるが、今は雨だ。あずまやには屋根があってもタイルの地面は濡れているし、プラスチックの椅子にも水滴が跳ねている。それでも彼は気にせずに椅子を引いて座る。あと三十分、ここに座っていられる。
あずまやから勤務先のオフィスビルはみえない。そこはこのデパートよりずっと高いビルで、彼の職場は低層階にある。決まった時間にはじまり定時で終わるヘルプデスクの仕事だ。同じようなコールセンターを渡り歩いて何年になるだろう。今の職場は残業がないのがよかった。
一歩会社を出れば、壁の向こうで起きたことはなにひとつ自分に関係がなくなる。休憩のあいだも仕事と自分を完全に切り離したくて、隔離された空間をさがしていたときにこの場所をみつけ、それから何度も来るようになった。
おととい梅雨入りしたらしい。雨はだんだんひどくなるが、あずまやの屋根に響く音のリズムは心地よい。ぼうっとスマホを眺めるうちにタイムリミットが来て、彼は立ち上がり、あずまやを出る。
戻る時はガーデンショップの方からデパートに入るのがいつものコースだ。観葉植物の鉢のあいだをぬけた時、前からくる男に見覚えがあると思った。ひょっとして向こうも同じことを思ったのだろうか、一瞬眼があって、そして彼は思い出す。この男は同じコールセンターにいる。でもその時はもう、相手は通りすぎていた。休憩シフトがちがうのかもしれない。
自分以外にもこの場所を知っている人間が同じ職場にいても、何も困ることはない。なのに彼はすこしだけ残念な気分だった。職場から切り離していたはずの自分の時間に不要なものが侵入してしまった、そんな気がしたのだ。
ところがおかしな偶然とはあるもので、その日の仕事を終えて乗ったエレベーター――いつも満員――で、彼のすぐ前に立っていたのも、同じ男だった。
雨が降っている日に、わざわざ屋上まで行って休憩する人間は少ない。
だから彼はなんとなく予感していた。予感というより妥当な推測というべきか。その後も何度か同じ男と屋上で顔を合わせた。三日に一度は休憩シフトも一致して、同じ時間に同じあずまやで、ひとつ置いたテーブルに座っている。向こうはスマホではなくいつも文庫本を広げている。眼鏡をかけていて、年はおなじくらいだろうか。スーツがやたらと似合ってみえるのは、座っているときの姿勢のせいか。
何回かすれちがっても彼は一度も声をかけなかったし、向こうもこちらに気づいているような気はしたものの、目礼ひとつ交わさなかった。同じ職場といっても、コールセンターでの人員の入れ替わりは激しい。向かいのブースにいる同僚の顔が数か月のあいだに何度も入れ替わっていた、ということだってある。
そんな彼がついに男と言葉をかわしたのは、屋上ではなくその下の階でのことだった。休憩時間ではなかった。何年も前から好きだった作家が十年ぶりに新刊を出すというので、仕事帰りにデパートの中にある書店に寄ったのだ。そうしたら昼間も屋上で顔をみた男が店頭に積まれた同じ小説をためつすがめつしていた。ふいとあげた男の眼と、眼があった。
「あ、どうも」
言葉は奇妙なほど自然に出てきた。
「十年ぶりらしいですね」と彼はいった。
「そうですね」と男はいった。「十年ぶりと聞くと読みたくなりますね」
「好きなんですか?」
「どうだろう」と男はいった。「好きというより懐かしいという感じかな。それで迷ってて」
「僕は買いますよ」と彼はいい、一冊取った。
「好きなんですか?」と男がきいた。
「ええ」
結局それから、時々話をするようになった。とはいえ仕事で話すような機会も必要もなかったし、名前も聞かなかった。休憩時間に屋上で出会っても挨拶をする程度のことだ。男はひとつ置いたテーブルでいつも本を読んでいて、彼は彼でスマホをいじったり、たまに本を読んだりした。つまり、何も変わらなかった。男とはじめて会話したときに買った小説は素早く読み終わってしまったが、その話をすることもなかった。彼は男が同じ小説を結局買ったのかどうかも知らなかった。
今年の梅雨は長引き、しとしと雨と重くたれこめた曇り空が交互に続いた。それでもだんだん雨が少なくなって、そうすると屋上に来る人も増えてくる。爽やかな晴れ間がのぞいたある日、ガーデンショップの中を通って会社へ戻ろうとしていたとき、あの男に会った。
「あ」
珍しく男は彼の顔を正面から見て、驚いたような、しまったとでもいうような、奇妙な表情になった。
「どうも」
彼は反射的にそういったが、いいながら妙な挨拶だな、と思った。なにが「どうも」なんだろう。
「……どうも」
男はオウム返しにそういったが、何かほかに伝えたいことでもあるような顔つきだった。彼は不思議に思ったが、そのまま仕事に戻った。
その日の退勤時間に、男が妙な顔をしていた理由がわかった。エレベーターホールに出た時、これまた顔しか知らない同僚の女性が男に話しかけているのが聞こえてきたのだ。
「今日で終わりなんですね。知りませんでしたよ」
男は途惑ったような表情を浮かべた。
「ええ、そうなんです」
そういうことか、と彼は思った。よくあることだ。もう屋上で顔をみることもないのだろう。そういえば、あの小説は買ったのだろうか。なぜかそんなことを気にしながらエレベーターに乗り、隅の方に押しやられて、ふと気がつくと彼の前に立っているのはあの男だった。
エレベーターから降りた人はビールの栓でも抜いたかのように急ぎ足でビルの外へと流れ出ていく。彼は遅れた最後の一滴だ。横に気配を感じ、みるとあの男がいた。
「今日で終わりなんですか」と彼はいう。「聞こえちゃって」
「そうなんです」と男は答えた。外は晴れていた。
「こっちですか?」と男がいう。
うなずいてそのまま横に並んで歩いた。地下へ降り、長い地下道の脇に設置された「動く歩道」に彼が乗ると、男も乗った。
「動く歩道って変な言葉ですよね」と男がいった。
「僕はけっこう歩きますよ」と彼はこたえた。
「歩く歩道はもっと変だ」男はいう。「この歩道を作る前は、ここにホームレスがたくさんいたんですよね」
唐突な話題に彼は途惑った。
「そうなんですか」
「ずっと前らしいです。工事でホームレスがいなくなって、ここで寝れなくなって、歩きやすくなった」
ホームレスならまだ駅の中に何人かいる。駅の外、地上の歩道の脇にもいる。それは知っていたが、彼はホームレスのことなどこれまで気にしたことはなかった。それでも何となく、歩きやすいだけでいいのだろうかと思った。そう思いながら口は勝手に動いて、ずっとひそかに気にしていたことをたずねた。
「あの小説、買ったんですか」
「え?」
男はびっくりしたような顔をして、ついで合点がいったらしい。
「あ、ああ……結局買ってないんです。なんとなくタイミングを逃して」
「僕はもう読みおわったから、貸しましょうか」
どうしてそんなことをいったのか彼自身にもわからなかった。男はまた驚いた表情になった。
「それは――でも、今日で終わりだから」
「……そうですね」
当然だ。彼はすこし後悔した。もっと早くいいだせばよかったのだ。
動く歩道の出口は半地下の広場につながっている。広場と名がついてはいるが、何本もの私鉄とJRと地下鉄の改札をつなぐだだっぴろい通路にすぎない。広場という名の通路。通路の上には高速道路が丸く渦を巻いていて、地下からは出口の部分から少しだけ空がみえる。
「ここ、もとは本当に広場だったらしいです」
彼の心を読んだように男がいった。
「高速ができる前は。もう下からは見えないけど、高速の出口の近くに噴水があるんですよ」
「噴水?」
彼はオウム返しにたずねた。男はうなずいた。
「デパートの上に行くと見えるんです。隠れている噴水が」
彼は思わず足をとめて上を見上げた。男も足を止めた。ここには灰色と薄茶の天井、それに標識があるだけだ。
「屋上に行きませんか」
思わず彼はそういっている。
「屋上?」
「その秘密の噴水をみたい」
足元と天井に雑踏が反響し、最初は男のわずかにひらいた唇だけがみえた。次に唇の両端と目じりがゆるむ。男はふうっと笑った。小さな声が聞こえてきた。
「いいですよ。みせてあげます」
(おわり)
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