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酸いも甘いも(「餃子の男」2)

 いつもの餃子屋ののれんをくぐろうとすると、連れが手をくいっと曲げて「先に行って」といった。三歩先の路地の影にはお仲間が数人立っている。無言で囲んだ灰皿の上にうっすらと煙がただよう。  無言でうなずいて先に店に入った。中小から零細の町工場が立ち並ぶこのあたりは、昔はどこもかしこも煙でもくもくしていたものだが、ここ十年ほどのあいだに喫煙可能な店はぐっと少なくなって、パチンコ屋や飲み屋ならともかく、普通の飲食店なら吸える店の方が少ない。煙草の値段も上がる一方だが、連れは文句もいわないかわり、喫煙をあきらめる気もないらしく、道端の灰皿の場所と喫煙できる店をすべて記憶している。食べる前に一服、食べたあとに一服。それが習慣なのだった。  こっちの習慣は連れとはちがう。いつもの餃子屋は、入った途端に自動的に焼きたての餃子の皿がひとりにつき二枚配られるシステムだ。一枚が二五〇円。二人、というと、いつものおばさんが小上がりをさして「そこふたつね」という。響きにはすこし外国の訛りがある。男は最初の皿を受け取りながら「ビール。それとごはんひとつ」という。出てくるのは瓶ビールだ。この店には生ビールはない。  狭い店だから小さな座卓はつねに相席だ。男の隣では若い男女が黙々と餃子を口に運んでいる。ひとことも口を聞かず、眼をあわせもしない。うっかりすると膝がふれるほど小さな席では、不自然に思えるほど堅い。デートに来るような店ではないから、仲良くする必要もない関係なのか、それとも逆に仲が良すぎて喧嘩でもしているのか。  タレ用の小皿をふたつ並べてひとつに醤油と酢、もうひとつに醤油と酢とラー油をたらす。どんぶりに大盛りのごはんは向かいに置いて、ラー油なしのタレに自分の餃子をつけたとき、連れがようやく登場した。 「先に食ってるぞ」 「ん」 「米も食うだろ」 「ん」  連れは男よりかなりの長身で、窮屈そうに腰をかがめて靴を脱ぐ。それでも焼きたての餃子をみると嬉しそうに眼元がゆるむ。つきあって何十年か経つが、こいつが食べ物をイイ顔でみるのは悪くない。そんなことを思いながら男は連れのグラスにも一口だけビールを注ぐ。彼はほとんど飲まないのだ。代わりのように自分の水のグラスを連れの方へ押しやった。 「なあ、いつもああやって煙草、吸うじゃん。知らないやつとさしで」  餃子をつまみながら連れになんとなくたずねる。 「ん」 「何考えてんの? 話とかしないよな」 「そりゃ、しないさ。ライターの貸し借りすることはないわけじゃないけど――ないね」 「吸わない人間からすると変な感じだぜ。気まずくなったりしねえの?」 「べつに。そんなもんだから」  連れは餃子と一緒に飯をほおばった。前も似たような会話をしたような気がする、と男は思った。何十年もつきあっていればそんなこともあるだろう。 「ラー油入れないんだっけ」  唐突に連れがいう。 「何に? タレに?」 「ん。辛いの好きだろ」 「餃子はべつ」 「前からそうだったか?」 「そ。おまえみたいに何でもタレに入れるの、好きじゃないから」 「ん」  あとひとつで二枚目の皿が空だ。おばさんが「お代わりは?」と聞くので、男は二枚ずつ注文する。ビールはまだ半分残っている。小上がりの向こうは楕円形のカウンターで、そこも人でいっぱいだ。壁のテレビはついているものの、人の声と餃子を焼く音、換気扇の音でろくに聞こえない。  しかし隣の相席の男女はいまだに無言だ。ついにふたりとも箸をおき、皿の数をかぞえる時になって男の方が「俺が出すよ」といい、女が首をふった。 「いまさら餃子でいいカッコしないでよ」  壁には餃子の枚数に応じた会計の値段(税込)が貼ってある。ビールや老酒、ごはんと合わせた値段もだ。これ以上ない明朗会計である。女は札と小銭を座卓に置くと立ち上がる。 「じゃあね」  若い男は気まずい表情になったが、女は気にしてもいないようだ。バッグを片手に通路をさっさと先へ行く。おばさんに明るい声で「ごちそうさま」といったのが耳に残った。 「何があったんだろうな」  若い男の方が席を立ってから連れにいうと、連れはきょとんとした顔で「何が?」という。 「隣のカップルだよ」 「何か変だったか?」 「変だったよ。おまえ、何にもみてないな」 「ああ、餃子しかみてなかった」 「もめてる感じだった」 「よく気がつくね」  そういえば前もここで若いカップルの別れ話をうっかり聞いてしまったな、と男は思う。男女ではなく男と男だったが。あの時はついついビールをおごってしまい、ついでに余計なことまでいったかもしれない。下町育ちのせいか、お節介なたちなのだ。 「まあ、気がつくよ。だって俺らもう、もめるとかないじゃん」  そういうと連れは眼を細めて「そうだっけ?」と呑気にこたえた。 「そうだろ」 「でもおまえ、今朝も洗濯物のことで文句をいってた」 「そんなの、もめるうちに入るか」 「昔はちゃんともめてた?」 「いろいろあっただろ」 「あったかな」 「あった」  男の言葉を聞いているのかいないのか、連れは餃子の皿とごはんのどんぶりをみくらべている。「どうした?」と男はたずねる。 「うーん、ごはんをお代わりすべきか、餃子をあきらめるべきか……」 「糖尿になるぞ」 「俺は筋トレしてる」 「煙草吸うくせに」  連れは男が瓶ビールを傾けるのをみつめ「それとこれは関係ないだろう。酒飲みが」という。とたんに何となくムッとした。 「ほっとけ」 「お前には長生きしてもらわないと困るの」  連れはいけしゃあしゃあとそんなことをいう。 「それは俺のせりふだ」と男は答える。 (おわり)

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