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第1話 箒星

 暁の空に箒星が瞬く。  七十六年に一度と言われるその輝きを、高遠永青(たかとうえいせい)は揺れる力車の中から眺めていた。先をゆく俥には、南郷剛士(なんごうごうし)陸軍大佐が乗っている。やがて二台の人力車が止まると、永青は不自由な左脚を引きずり南郷邸の車寄せに降り立った。  南郷との出会いは、今宵の妓楼へ遡る。 「——貴様、軍人だな?」  はばかりを終え、妓楼の二階へ上がろうとした時、階段を降りてきた軍服姿の壮年の男に、出会い頭に声をかけられた。普段なら黙殺するところだが、出自を言い当てられた永青はじろりと男を睨んだ。 「引きずっていても歩き方までは誤魔化せん。その脚、何処でやられた?」  言外に旅順か、奉天か、それとも……と問うていたが、だったら何だと、永青は無言のまま南郷を見上げた。大佐を示す階級章の他に、幾つか略綬が留めてある軍服を着た南郷は、恵まれた体格で腹も出ておらず、六尺ある永青と同じぐらい上背があった。年齢は不惑を越えたぐらいだろうか。髪に少々白いものが混じり、軍刀の柄を左手で支えるのが癖らしく、双眸は煌々と底光りしていた。  道を譲ってもよかったが、永青はそうしなかった。戦場ならばまだしも、形式上、退役した身だ。重ねて、この場で大佐殿に敬礼できるほど、永青はもう色々な意味で「まっとう」ではなかった。 「貴様に相応しい仕事がある。家で働け」 「間に合っている」  交渉ごとに拒絶から入ることで、手に入れたものに、より高い価値を感じさせる。案の定、南郷は食い下がった。 「支払いが滞っているのではないか? 遊女を誑かして居座っている無法者がいると、楼主が嘆いていたぞ」 「何のことか知らん」  南郷の言葉から、楼主がこの交渉にかかわっていることがわかり、永青は胸を撫で下ろした。ことが動いた証拠だった。金払いの悪い軍人崩れに、さすがの楼主も匙を投げたといったところだろう。 「……片脚もがれて十七円とか。貴様は幾らだ?」 「何が?」 「借金だ。幾らある?」 「知るか。楼主にでも訊け」 「ふむ」  永青がよたよたと階段を上り切ると、道を譲った南郷は、すれ違いざまに一瞬、永青の横顔に視線をやった。永青が贔屓の遊女の部屋へ戻り、しばらく膝枕で都々逸を口ずさんでいると、足音がして、急に障子が開いた。 「おい、貴様を買ったぞ。ともにこい」 「……は?」  永青の借金が完済されたことを知るなり、遊女は膝枕をやめ、部屋の奥へ逃げた。永青の頭がごとりと畳に落ちる。 「私を見て臆さぬ貴様の気性が気に入った。家で働け。ゆくぞ」  南郷の面倒見の良さは生来の気質なのかもしれない。申し出を待っていた永青は、予定どおり偽名を使い、短い交渉ののちに渋々といった様子を装い、南郷に付き従い、妓楼をあとにした。

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