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第2話 書生

 南郷邸の玄関を開けると、うら若い青年がひとり出迎えた。 「旦那様、お帰りなさいませ」 「ただいま、小鳩。お前の欲しがっていた家庭教師を連れてきた。家で働きながら、勉強を教えてくれる元軍人だ。名は鷺沢忍(さぎさわしのぶ)。たくさん教わりなさい」  南郷は存外に柔らかい声で、永青が名乗った偽名——鷺沢忍——を復唱した。 「この家で書生をしております、宮ヶ瀬小鳩(みやがせこばと)です。よろしくお願いいたします。鷺沢先生」 (これが、南郷邸か)  南郷の懐へ無事に入り込んだ永青は、小鳩の口上にひとまず会釈した。  事前に読んだ資料には、南郷が書生をひとり置いていることが記されていた。少年の線の細さを残したまま大人になったらしき小鳩は、色白の顔を永青に向けると、はにかむように頬を染め、歯を見せた。白いスタンドカラーのシャツのボタンを襟まで留め、黒い長ズボンを履いている。仕草のひとつひとつがどことなく中性的で、不思議な艶かしさを感じさせる、きれいな青年だった。 「執事部屋が空いたままだったな。鷺沢にはそこを使わせる。案内してやりなさい」 「はい、旦那様」  小鳩は頷いて、永青を振り返ると、一瞬、足元へ怪訝な視線を向けた。永青が靴を脱ぐのにもたついていると、小鳩は先をゆく南郷をやり過ごし、少しの間、待った。 「ゆっくり、おいでください」  片脚が不自由なことを悟った声で、静かに小鳩が告げる。永青は、ままならない左脚に苛立ちながら、小鳩の無邪気な気遣いを憎々しげに受け入れるよりなかった。旅順、奉天、と転戦した挙句、仲間に鉛玉を撃ち込まれた左脚は、未だに疼いて悪夢を見させる。天涯孤独の身の上から食い詰めて軍人になった永青は、鬱屈の落としどころをまだ無意識のうちに探していた。 「大佐には、主に英語を教えろと言われましたが……どの程度までできますか」  三階の執事部屋へ案内される間、永青が探るように切り出すと、溌剌とした答えが返ってきた。 「今、シェイクスピアに取り組んでいるところです」 「初期近代英語ですね。発音に苦労しますか?」  うんざりするほど広い邸内は人気がなく、必要最小限の人数で回しているようだった。 「……あれは何ですか? 光っていますが……」  廊下を歩くうちに、窓から南郷邸が擁する広大な樹林の奥に光が見え、永青が立ち止まる。夏緑樹林は繁茂期で、邸内は生垣と高い築地塀で囲まれている。外の灯りが透けて見えたとは思えなかった。 「ああ……あれは瓦斯灯です。敷地内に新しい建物を建てるとかで、夜でも明るくしているのです。できあがったら、音楽や演劇の催し物をするそうですよ」 「そうですか」  南郷邸にくる前に叩き込んだ数々の情報が、月日を経ても正確かどうかを確認する。一方で、能天気な小鳩の存在は永青の神経を乱れさせ、キリキリと胸を引っ掻いた。精神衛生上の理由から、永青は半ば強引に話題を変えた。 「子どもを教えるのは初めてなので、行き届かないところがあれば遠慮なく言ってください」  少し雑な口を利くと、小鳩は拗ねた表情で反駁する。 「子どもじゃありません。もう十八歳になりました。旦那様に拾われた時は、まだ子どもだったかもしれませんが……」 「俺が士官学校を出たのは二十歳の時です。あなたはまだ子どもだ」  つれなくいなすと、小鳩は言いくるめられたことに悔しげな表情をした。無邪気なものだ、と資料からは把握しきれない情報を炙り出し、脳内で更新しつつ、基本情報を補足する。 「失礼ながら、大佐どはどういったご関係なのですか?」 「……孤児だったおれを、旦那様が引き取ってくれたのです。先の戦争が終わった年に、ここへ住むことになりました」  七年も前のことですが、と小鳩が付け足す。逆算すれば、十一歳の頃に小鳩は南郷に拾われたことになる。以来、ずっとこの邸にいるようだ。住む家があり、食事が供され、寝る場所に困らない。それは永青にとってこの上なく贅沢なことだった。 「きみは幸せだな。南郷大佐に拾われて」 「……そう、ですね」  南郷はこの書生を大事にしているようだが、成長期に、こんな広い邸内にいるのでは、鬱憤のひとつやふたつ溜まってもおかしくはない。永青の、皮肉が込められた声に返答する小鳩の声は、少し陰ったものの、前をゆく顔はきれいなものだった。  小鳩は永青が三階への階段を上り終えるのを待ち、小さく零した。 「もうすぐ朔ですね……月の見えない夜は、少しおそろしいです」  暗闇を怖がるなんて、やはり子どもだ、と永青は思った。

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