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第35話 再出立
新聞が南郷邸の火災を伝えたのは、それからしばらくあとのことだった。
永青が、軒先に並べた植木鉢に水をやりながら開店準備をしていると、珍しく店が開くのを待っていたらしき俥から、客がひとり、まろび出た。
「いいかね?」
「あっ、はいっ。いらっしゃいま——」
振り返りざま、永青はその姿を見て固まった。
奥で切花の面倒を見ていた小鳩も、永青の声音に異変を感じ、ついと顔を上げると、その客の姿に息を呑んだ。
「桂木、中佐……」
「久しぶりだな、永青」
軍服姿で新聞を小脇に挟み、わざわざ俥夫を雇ってきたようだった。
なぜここが、と永青が口を開きかけた時、桂木が店内を覗いた。
「繁盛しているか?」
軽口を叩くが、その口調は重い。小鳩が奥から様子を伺っている。永青は小鳩を背中に庇うように移動し、桂木を睨んだ。
「そう警戒するな」
嫌われたものだな、と桂木は苦笑を漏らすと、ひととおり店内をぐるりと眺めた。
「活きのいいのを十五本ほど見繕ってくれ。色は白で」
「かしこまりました」
花のことなどわからぬ、という様子で永青に注文すると、桂木は煙草を咥えた。火は点けず、犬歯で端を噛む癖があったことを思い出す。
「新聞を読んだか? 南郷邸が焼け落ちてな。後始末に奔走している。……脚はどうだ?」
永青の背後から声をかけてきた桂木の口調は、少し影を孕んでいるように聞こえた。
「少し痛みますが、生活に支障はありません」
「ふん。貴様も軍人だった頃の癖が抜けないな」
永青が報告調で告げるのを笑い、桂木は揶揄する。
「——南郷大佐のことは、残念でした」
「ああ……」
永青が告げると、桂木は何かを言いたそうにしたが、やがて花束を受け取ると、ポケットから紙幣を数枚、取り出した。
「ま、九ミリ弾を食らっても、その調子なら心配ないな。釣りはいらん。選別だ。それと……南郷から預かった金を、貴様の口座に振り込んでおいた。口止料だ。何も言わずに取っておけ。邪魔したな」
「それは……っ」
施しを受けるつもりはない、と言いかけた永青に有無を言わせぬ口調で「これ以上、仕事を増やす真似をしてくれるなよ」と言うと、桂木は永青の顔もろくに見ずに背を向け、待たせていた俥へ乗り込んだ。
「じゃあな」
軍帽を少し下げると、そのまま俥夫が俥を引きはじめるに任せた。それを視た小鳩が、奥からぱっと駆けてゆき、いきなり往来に飛び出した。
「あの……っ!」
出発しようと動き出した俥夫が、面食らって急停止する。
「危ないぞ、小鳩」
永青が注意すると、小鳩は「ごめん」と小さく零したが、すぐに桂木に向かって姿勢を正した。
「永青さんを生かしてくださって、ありがとうございます。あなたが手放したので、おれがもらいました。おかげで、二人とも元気でやっています」
「……」
桂木は無言のままだった。
小鳩は真正面から、桂木の顔を見上げて告げる。
「おれたちは、これからずっと、ふたりでやっていくつもりです」
「……言いたいことはそれだけか?」
「お花のお代、それに……お心づかいを、ありがとうございました。今夜は鰻でも食べようと思います」
「ふん……」
小鳩がぱっと笑うと、桂木は気まずそうな顔をした。店先へ出てきた永青と小鳩を見比べると、ばつの悪そうな声で呟いた。
「割れ鍋に綴じ蓋、とはよく言ったものだ。……おい、やってくれ」
桂木はおもむろに咥えていた煙草に火を点けると、燃え残ったマッチを俥の外の往来へと投げ捨てた。今度こそ、ゆっくりと力を溜めた俥が走り出す。小鳩の横をすり抜ける時、「元気でな」と独り言のような言葉が投げられた。
桂木を乗せた俥はそのまま風のように遠ざかっていった。
「……永青さん。永青さんの元上官って、怖い人だね」
傍らに歩み寄った永青に、小鳩は肩をすくめて俥の去った方を眺めた。
「ああ。色々と面倒くさいところがある」
「あの人のこと……恨んでる?」
小鳩が永青を振り返った。きっと、最後の挨拶代わりにきたのだろうと永青は思った。もう会うこともないだろう。まるで何かを吹っ切るように、風が頬を撫でて過ぎ去ってゆくのを感じた。
散々利用された上で、捨てられた、とも解釈できた。
だが、永青はそうは思わなかった。
胸中にわだかまっていた硬いものが砕け散り、さらさらと姿をなくしてゆくのをはっきり感じる。
「いや……」
隣りにいる小鳩の手を、そっと握ると、永青もまた桂木の俥が角を曲がるところを見届けた。自分の心に誠実に生きることが、どういうことなのか、この道を通らなければ、きっと理解できなかった。
「もう恨んでいない。……ありがとう、小鳩」
「ううん」
小鳩が相槌を打った。その頬が朝日に染まり、輝いて見える。
永青は空を仰いだ。
そこに闇夜はなく、箒星も既にない。
帝都の空は雲ひとつなく、抜けるような快晴だった。
=終=
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