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第31話

 これは決定的だ。信じられない気持ちは、じわじわと嬉しい気持ちに変化していく。 (あの各務課長が……。俺の体が欲しいと言ってくれている)  しばらく画面の文面を瞳に映していた悠希は、はっと返事を書かなくちゃ、と思い至った。  でも、何て返事を書けばいいのだろう? 『とても嬉しいです』? 『以前から、課長が好きだったんです』?  どの文面もチープで子供じみている。二人のことは誰にも知られてはいけない秘密の関係なのだ。悠希が少ない語彙の中からやっと捻り出したのは、 『わかりました。これからのことは二人だけの秘密にします』  送信ボタンを押したあと、一気に恥ずかしさで顔が赤くなった。あれほど考えたのに送ってしまえば、何て小学生のような文章なんだろう。  ひとりで携帯電話を睨みつけながら後悔していた悠希に、直ぐに各務からの返信が届いた。 『ありがとう。とても嬉しいよ。それではこれから今後の話をしようか。早くしないと雨が降ってくる』 (――雨が降る?)  あの夜にも雨が降ると言われた。でも今日は深夜までの降水確率はゼロパーセントのはず……。  不意に目の前の携帯電話の画面に小さな水滴が浮かんだ。  えっ? と思う間もなくその水滴は一つ、また一つと液晶画面を埋めていく。 (うそ、本当に雨が?)  思わず暗い空へ向けて顔を上げる。静かに降り始めた雨はその雫を柔らかく悠希の頬に落としてきた。さあ、と小道の木の葉を濡らす音が響き出すと、急に後ろから聞こえた砂を踏む足音が止まって、悠希の見上げた視界が何か布のようなもので遮られた。 「濡れるぞ。風邪を引いてしまう」  低い優しいその声に悠希は弾かれたように振り向いた。そこには柔らかな笑みを浮かべて傘を差し出す各務の姿が、薄暗がりの中でもはっきりと捉えられた。  突然の各務の登場に驚いたまま悠希は動きを止めた。各務がそのさまにくすりと笑って、 「驚きすぎだろう。何のことはない、客先の用事が早めに終わって飲み会に参加しようとしたら、店を出てきたおまえを見かけたから跡をつけてきたんだよ」  各務が左手をあげて悠希の頬に触れた。空から落ちてきた水滴を柔らかく拭うと、そのまま各務は顔を近づけて悠希の唇に軽くキスをした。 「……なぜ、雨が降るって分かるんですか?」  離れていく各務に小さく問いかける。また質問か、と各務は笑うと、 「俺はな、雨男なんだ。特に自分が初めて経験することがあると必ず雨が降る。小学校の入学式や運動会、遠足に卒業式。ああ、初めての修学旅行も土砂降りだったな。高校受験の日も雨だったし、初めて他人を抱いた夜も雨だった。子供が出来てからは行事の度に雨だからな、長男の幼稚園行事は全て全滅だ」 「初めて経験すること……」 「そうだ。あの夜、顔見知りの男を抱いたのは初めてだった。それに今だって、肌を重ねた相手をもう一度抱きたいと思ったのも初めてだからな」  各務が悠希の体を優しく抱き締める。悠希は未だにこの状況が信じられない。それでも、反射的に悠希は各務の広い背中へと両手を廻した。 「これからまた、二人だけの秘密ができるな」  耳元で囁かれた各務の言葉は、悠希の心を暖かく柔らかく縛っていった。

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