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宏明が来ることなんて全く予想をしてなかった。よくよく考えれば畑は違えど音楽に関わっている人間だし、大規模なパーティだから人間たらしの兄の人徳なら誰かを介せば来れなくもない。問題はそこではなく、何週間前の兄の言葉が脳裏を過ぎったことだ。
藤咲から宏明のことを忘れさせなくする。
この手で汚したい。
こんな所まで来て、仕掛けてくるなんて油断してた……。
宏明が入ってきたことにより、辺りが一瞬だけどよめいたが、パフォーマンスとしては関係者達の心を射止めたのか、徐々に宏明のことを受け入れる空気になってくる。
その反面、弾いている手、表情は平常そのものだったが、藤咲の呼吸が微かに荒くなっている事に気づいた。
このままにしては藤咲のことが心配になったが、周りの関係者による視線。伊川先生が藤咲のことを見定めるように険しい表情で鑑賞している。多分、この場のこの演奏は失敗など許されるわけなどなく、俺が止めにいけるような空気じゃない。
一曲が引き終わると拍手が沸き起こる中、宏明と握手を交わした藤咲の顔は強ばったまま、それ所か顔色が悪く感じた。僅かではあるが身体を反らして藤咲が俺らを嫌っていると知っているからこそ分かる拒絶を感じる。
藤咲は拍手が成り終わるまであくまでピアノの前では凛とした姿を貫いていたが、一礼してその場から去った瞬間に扉まで駆け出すと胸を抑え苦しそうに出ていった。それを追いかけるように宏明も丁寧に一礼をすると藤咲の後に続いて会場外へと出ていく。
この二人を一緒にさせるのはまずい…………。
あの日の藤咲の家での出来事、藤咲の泣き声を思い出しては全身が震えた。
助けに行かないとまた同じ悲劇が起こる…………。
今の藤咲を目の前にして宏明が何を仕出かすのか、何となく想像がついてしまからこそ、
自分が行かなければ、行って止めなければ
、彼にもっと深い傷を擦り込ませるような気がした。
藤咲のまだ俺以外の人に見せることができていた笑顔さえも本当に奪われる。
大樹はそう思った途端に、慌てて会場から出るとホテル内の何処かに消えていった藤咲の姿を捜した。
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