2 / 163

1

暇つぶしに書き始めた日記も、今日で三冊目だ。 エルマーは滑り止めとして手に撒かれたぼろ布に憑いたインクの汚れを気にしながら、がたごとと揺れる乗合馬車に文句の一つも言わずに、先ほど食べたウサギ肉のシチューがまずかっただとか、飲み屋で知り合った娼館の女の胸が大きかっただとか、そんな脈絡もなく、くだらない出来事ばかりを書き溜めていた。 エルマーは退役した軍人だ。先の国の領土を広げるための戦争で左目を落としてしまい、若くして武功を上げていた将来有望の若者は、王によって武勲をたたえられることもなく呆気なく捨てられた。人生なんてそんなもんである。 エルマーがいくら頑張ろうと、同じくらい若い軍人はいくらでもいるし、それに出自は苗字もないただの平民だ。お貴族様たちで構成された戦わぬ指揮官、上官、お歴々の方々からしたら可愛くない、面白くないの不満の矛先。 だからエルマーが先陣を切って、西の国の民と戦って領土を取り返したとしても、さらに代償として、敵の矢に左目を貫かれて目玉を駄目にされても、いくらでも替えはいるのだ。 若いから訓練をすれば自分と同じところまで育つと思っている。そんな奴らの下について身を粉にして戦った三年間の自分は、炎蔓延る戦場のど真ん中。目玉を貫いた矢ごと引き抜き戦火の炎に焼かれて死んだ。 いまは気ままに旅人だ、あの血と硝煙と脂が焼け溶ける匂いの無い、平和な日々がこんなにも愛おしい。 そんなことを思いながら、最近入れたばかりの左目の義眼が収まっている目元がかゆいなあと、日記をつけていたペン先とは逆の先端で目元をマッサージした。 最近かゆくて仕方がない。こんな玉っころ一つ入れるのに、エルマーの食費二か月分とは難儀な世の中である。 ただもっと難儀だったのは、ここが乗合馬車で、悪路のせいでがたごとと揺れていて、そして加減が分からないまま目元をマッサージしてしまったことだった。 「あ。」 エルマーの端的な母音と共に、カン、コン、とガラス球の跳ねる音がした。言わずもがな、食費二か月分の義眼が軽快な音と共に眼窩から零れて落ちたのだ。 「うっ、ぎゃぁあ!!なんだあ!!」 「やだ、なに?…ヒィっ!!!!」 「あ、ちょ、まっおぶっ」 「あんたぁ!!!どこ触ってんだクソ坊主!!」 「いってぇ!!!!」 目の前で見ていた少年は悲鳴を上げ、足元に転がってきたそれを親切心で手に取った御嬢さんは、目玉に驚いてそれを投げ捨てた。そしてエルマーが慌ててそれを回収しようとしたタイミングで馬車が大きく揺れ、つんのめった先にいた老婆の胸元に文字通り飛び込んでしまい、顔に大きな紅葉をいただくこととなった。 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。エルマーもふくよかな老婆のおっぱいがこんなにやわらかいなんて知りたくもなかったし、不本意にも悲鳴を聞きつけた護衛に熟女狙いの痴漢扱いをされて馬車からつまみ出される羽目になった。 これを難儀と言わずしてなんという。鷲掴んだ老婆の胸の柔らかさがだけが手に残る。 「こんなんだったら騙されてでも飲み屋のねーちゃんを抱いとけばよかったなあ。」 ため息ひとつ。無情にも乗合馬車はしばらく来なさそうだ。あの護衛より俺の方が絶対に強い自信あるわと悪態をつきつつ、持っていたインべントリと呼ばれる異空間収納袋に日記帳とペンを仕舞い込んで歩き出した。 目指すは屋根のある場所だ。幸い地図を見る限りじゃ近くに小さな農村があるようだし、そこに娼館もあればなおさらいい。ひなびた婆のぬくもりよりも、若い娘のひと肌でこの悲しみを上書きしたい。 途中の小川で汚れた義眼をすすいではめ込むと、少しだけ身なりを整えてから村の入り口を目指した。 凸凹とした轍をたどってしばらく歩いていくと、外れた看板が風に吹かれて耳障りな音を立てる入口らしきものを見つけた。丸太を紐でくくりつけて作られた門のようなものの横に、魔除けなのかなんなのかは知らないが、そこそこ大きいウシ型の魔物の骨と思われる頭蓋が塀の上に置かれていた。 普通は門の上に置くのではないかとも思ったが、もしかしたら重すぎて乗せるのを諦めたのかもしれない。 今日の日記帳のネタの一つにでもしてやるかと追及することもなく門をくぐる。 「宿屋…は期待できなさそうだなあ。」 元は牧歌的な農村だったのだろう、家畜を飼育していたであろう広い土地を持つ家があったのだが、人の気配はないし、牛や羊の気配もない。柵の一部が外れていたので、逃げ出したのかもしれない。畑なんかはよく手入れがされているところを見る限り、家主は逃げた家畜でも探しに行ったのだろう。 だとしたらこの家はパスだ。手伝えと言われたらたまったもんじゃない。 再びエルマーは村の奥へと進み、宿屋や飲み屋などを探したが、家は転々と立ち並んでいるのに人の気配だけは全くなかった。 「なんで?村総出で引っ越しかあ?」 もうすぐ日暮れも近い。村の中で野宿というのだけはいただけない。せめて人気がありそうなところ…と考えても、1時間程度で見回れる程度の範囲だ。もう一度入口まで戻って牧場主がいないか確かめるか。でかい建物だ、いなくても牛舎のわらの上で寝かせてもらおうかと勝手に決め、再び入り口付近にある牧場まで戻った。 錆赤色の屋根に、白い外壁の大きな建物にお邪魔すると、多分玄関ではないだろうなと思いつつ、大きな木造の扉を叩く。 ガンガン! と、あえて響くような大きな音を立ててみたのに怒鳴り声すら聞こえない。 「ううん、」 もしかしてあの木の門は異世界への入り口だったのか、と妙なことを考えるくらいには変に静かだった。 扉の蝶番のような腹の音が響く。なんとも物悲しい音だった。 「あぁ…腹減った…。やっとベッドにありつけると思ったのに。」 エルマーは気だるげに手入れのされていない赤毛をガシガシと掻きながら、ならば勝手に牛舎でお世話になるかと来た道を少しだけ戻って、先ほど見かけた木造の平屋の牛舎に向かった。 ある程度予想はしていたが、やはりそこにも家畜はおらず、名称はわからないが巨大なフォークのような道具がエサ用であろう藁に突き刺さっていた。 人の営みがあった事はわかるのに、人だけがいない。 ため息ひとつ、適当に寝どこでも決めるかと牛舎の奥に進もうとした時だった。 カタン、 エルマーの耳が、かすかな物音を捕えた。風だろうか。しかし落ちた音は奥の方、この牛舎で聞こえた気がした。 村人なら御の字、しかし魔物だったらどうだろう。この不自然に人のいない村の答えが、まだ見ぬ魔物の腹の中にあるかもしれない。 知能があるなら厄介だ。奴らは巧みに人語を解する。村人の一人が魔物に魅入られていたとしたら、余計に。 藁に刺さっていたフォークのようなものを抜き取ると、エルマーは張り詰めた空気をその身に纏いながら、その音がしたであろう方へ気配を消して進む。 農具などを収納する蔵の前で立ち止まると、そっと中の様子を伺った。 かさり、 何かが身じろいだ音がした。大きい獲物ではなさそうで、小動物か何かかもしれない。念のため農具を構えたまま、木の扉を蹴り開けた。 バタンと大きな音と共に、勢いが付きすぎたせいなのか、それとも元々脆かったのか。 はたまた力加減を誤ったせいで、向かいの壁際まですべる様にして飛んで行った木の扉は、白い足にぶつかって止まった。 「…、まじか。」 魔物の方が、よかったかもしれん。そう思ったのは、面倒事に巻き込まれたからだ。 エルマーの目線の先には、豚のような体格の裸の男に押しつぶされるようにして倒れている小柄な人間がいた。 性別は分からない、何故なら表情が見えないようにか、その小柄な人間の頭には麻袋がかぶせられていた。 何かの儀式だとしても、悪趣味だ。 エルマーは小さく舌打ちをすると、臆することなくその小屋の中へ足を踏み入れた。 驚くことなどない。たとえ死体だったとしても、きれいなままなのだから。 「くっそ、おんも…っ…」 小柄な体を押しつぶしているぶよぶよとした体は、死後硬直してなお脂肪は柔らかく、ただでさえ巨体というだけでも骨が折れるのに、それが素っ裸なもんだからいろんな意味で触るのが嫌だった。 微かに薫る死臭は、まるで体の内側から腐っているようなかんじだ。 口にしたくもない体液にまみれていたこともあり、死者には申し訳ないが、インべントリから取り出した解体用の分厚い防水性の皮手袋をはめ、さらに身体強化の魔法を自身にかけてから裸の男をどかす羽目になった。 「はぁ…っ、…くそ、豚みたいな体しやがって…。」 息を切らしながらなんとかどかすと、怒張した陰茎が華奢な体からずるりと抜けた。このだらしのない体の男は、性交中に死んだのだろう。押しつぶされていた人間は少年のようで、白く華奢な体には男性器があった。 尻のあわいには男のものであろう精液がまとわりついており、暴力の末に圧死したのだろうか、体中痣とやけどの跡が白い体を彩るかのように散らばっていた。首元で絞められた麻縄で、かぶせられた袋が外れないようにしてあったのだろう。 エルマーも戦場で子供たちの亡骸を見たことがあるが、ここは戦場じゃない。性欲処理として弄ばれた末こと切れたのだ。虐げられたことが一目瞭然なその姿が酷くむなしく感じた。 「可哀想に…、こんな野暮なもん、いまとってやるからな。」 エルマーは少年の横にひざまずくと、武骨な手からは想像もつかないほどの優しい手つきで無粋な首の麻紐をほどいて、頭から麻袋を外してやった。 「ああ…、こんな、」 さらりとした黒髪が零れるように袋から落ちる。かくりと力が抜けたようにエルマーの方へ倒れた少年の顔は、目をつむっていてもわかるほどの繊細な美しさをたたえていた。 半開きの唇から見えた赤い舌と、口端には殴られたような紫色の痣。加虐心を煽るような色気があだとなったのだろうか。 戦場では男娼を女の代わりに抱いていたこともある。それでも、今目の前にいる子供よりも歳は上だったし、なによりもこんなに過酷な暴力の痕を身に刻まれたものはいなかった。 もしかして、彼は奴隷として買われたのかもしれない。 エルマーはそっと簾の上にその華奢な肢体を横たえる。 「ごめんなあ、ぼろきれしかねえんだけど…」 インべントリから布を取り出すと、水で湿らせて体の汚れを優しく拭い取ってやる。こんなにひどい目にあったんだ。死んだあとくらい誰かに優しくされたっていいだろう。 引き攣れた火傷の痕や、何度も繰り返し傷ついては治癒したのであろう歪なケロイド。 顔の作りが美しかったからこそ、刻まれた傷痕が酷く痛々しく、歪な雰囲気を醸し出している。 汚れた個所を清拭し終えると、無意味とわかっていても傷だらけの体にポーションを垂らした。死んだ者の体に、回復薬などはきくはずがないのだ。だけど、そうせずにはいられなかった。旅先では貴重なポーションも、エルマーにとっては使わなければただの宝の持ち腐れにすぎない。 最後にそっと頭をひと撫でしてやったとき、かすかに唇が動いた気がした。

ともだちにシェアしよう!