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「まさか、…。」
はく、と今度は先ほどよりもしっかりと呼吸をしようとしているのが分かった。
圧死していると思っていた体は、仮死状態だったということか。エルマーは慌ててその体を床に寝かせると、その小さな顎をすくい上げて唇を重ねた。
意識の無いものに経口摂取でポーションを与えるのは危険だ。まずは飲み込ませるためにも意識を戻さねばならず、人工呼吸が必要だった。
戦場で無理やり覚えさせられた経験を、戦場から離れてなお使うことになるとは。
少年の口に空気を送り込みながら、弱った肺に届くように治癒術を施した。数度繰り返していくうちに、ひゅ、と大きく呼吸をしてくれた。
「ぅ、かひゅ…っ、あ、っ」
「よし、いいこだ。ゆっくり呼吸しような、ゆっくりでいい。」
「っ、ぁ、う…、」
「頑張ったな、もう大丈夫だからな。」
肺が酷使される、隙間風のようにか細い音を出しながら、必死で薄い胸を何度も上下させる姿が痛々しい。
やっとの思いで目を開けたのだろう、涙の薄い膜が光を捕えたと同時にとろける様に白磁の肌を滑り、地面に染み込んだ。
少年の目は、エルマーと同じ金色だった。ただ、己のくすんだ金色とは違う、星が散らばったかのような不思議な虹彩をもつ、美しい金色だった。
まるで宝石のようなその眼から、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら小さく震える稚い姿は庇護欲を誘う。少年趣味はないエルマーでも、その哀れな姿には抱きしめてやる以外の選択がなかった。
「ぅ、うあ…っ、ふ、ぅう、あー…っ」
まるでなにかから怯えるように弱々しく手を伸ばす、悲痛な声で涙を流す少年の目の前には、エルマーしかいないのだ。
逃げたいのに、体がそれを許さない。ならばせめて殺されないようにと、震えながら必死でしがみついてくる。
その縋るような仕草をわずらわしく思うはずもなく、エルマーは着ていたマントで少年を包んでから抱き上げると、立ち上がってこの場を後にした。
あの男が死んだ理由はわからないが、とにかく謎の追及よりも保護が先だった。
トラウマを煽るようなこの場所にはいられない。村の出口はわかっていたので、今日は河原でも見つけて野宿決定だ。
首筋に顔をうずめて震える少年の背中を撫でて宥めつつ、久しぶりにテントが活躍しそうだなどと考えながら村を出た。
あたりはもう暗い。魔物が出る恐れも無きにしも非ずだが、たとえ少年を抱いていたところで負けるつもりもない。だてに剣で食ってきてはいないのだ。まあ魔法は身体強化と従軍中に覚えさせられた治癒術しか使えないのだが。
しばらくして見つけた川沿いを根城に決めると、準備をするために少年を降ろそうとした。
しかし見事なまでの引っ付き虫状態だったので、諦めて背中にぶら下がる様に体勢を変えてもらうと、インべントリから久しぶりに使うテントやら簡易結界札、たき火などの道具を取り出していく。
その様子を不思議そうに見つめる無垢な視線を感じつつ、もくもくとエルマーは準備を進めていった。
試行錯誤するうちに、コツを思い出して張り上げたテントは、多少歪だが一晩寝るくらいなら十分だ。インべントリと同じく以前の軍からの支給品で、空間魔法がかかっている代物だ。外から見ると小さいが、入り口をくぐる様に入るとテント内は大人二人が寝るには充分で、防音魔法までついている。
売り払ったらひと月は食いつないでいけるのだが、何かと便利なため、これだけは退役後も重宝していた。
行軍中はお世話になった代物で、呼び寄せた娼館のねーちゃんを連れ込んだことも懐かしい。相手には大不評だったが。
「おし、寝床もおっけー。簡易結界も張った。あとは飯と風呂、だけど。」
エルマーの首に巻き付いた細い腕は、離れるつもりはないらしく、背中でお利口にしている。そのまま好きにさせてもいいのだが、お互いがいろんなもので汚れている自覚はあるので川に入るくらいはしたい。
そして何なら魚も取りたい。非常食はあるのだが、それはあくまでも非常用の為おいしくはないのだ。それなら焼いた魚に調味料かけて食べる方が億倍ましだ。
「なあ少年、俺は水浴びと魚を捕りに行くんだけど、お前もついてくるか?」
一度降ろしてから向かい合うと、小さい手でエルマーの服の裾をしっかりと握りしめながらきょとんとした顔で見上げてきた。
道中、さんざんぐすぐすと鼻を鳴らしてエルマーの肩を涙とよだれと鼻水でベチャベチャにしては、ひぐひぐ言いながら与えた布きれで拭っていた。
弱々しく泣く姿にあやす様に頭を撫でてからは、エルマーは暴力を振るわない大人だと理解したようで、少しずつ涙も収まり、今の今まですよすよと寝息をたてていたのだ。
なので寝起きのぽやぽやした顔でも、少年は問われたことに対しても首を傾げながらエルマーを見上げていた。
なんだこの可愛い生き物は。心の中の声が顔に出てしまいそうだったが、ぽかんとする少年の反応を、根気強く待つ。
あんなことがあったのに、助けたからとはいえ縋りつかれるくらい、いま頼れる大人はエルマーしかいないのだ。だからまず、安心してもらえるようにしたかった。
「お、…」
もごもごと口を動かしたかと思えば、かすれた声で小さく一言発した。
「おみず、こあい?」
震える薄い唇が、端的に言葉を発した。
「こわくねーよ。俺と一緒に入ろう。体綺麗にしような。」
「こあい、や。いっしょいる、…ない?」
酷くつたない言葉で、一生懸命伝えてくる。たどたどしい話し方からすると、教育を受けてこなかったのか、それとも白痴なのか。エルマーは頭は良くなかったが、言葉を教えるくらいは自分にもできそうだと判断した。なんてったって、子供は好きだ。根気強く教えるのも苦にはならない。
逡巡していたエルマーを見上げたまま、無言の様子を不安げに見つめたその目に涙をためる少年の頭を優しく撫でると、まずは自己紹介から始めることにした。
「俺、エルマー。君は?」
「え、る…えるまー。…ない、これ。」
「いいね、じょうずだ。名前は?」
「これ。」
つたない口調で名前を呼ばれて、少しだけむず痒い気持ちになる。自分の子供がいたら、父親ってこんな感じなのだろうかと。どちらにしろ悪い気分ではない。もう一度少年の胸元に指をさしながら問うと、同じ言葉で、これ。と帰ってくる。
「これ…、ない、これは、これ。」
「これ…って自分のことか?ない、って…名前がないのか?」
少年がエルマーの顔を見ながら、自分のことを指さし言う言葉に、少なからず衝撃を受けた。
名前がないなんてあるのだろうか。
そんなに虐げられてきた環境に、ずっとこの少年は身をやつしてきたのか。
エルマーの険しい表情に、みるみる内に目に涙をためた少年は、これ以上顔を見られたくないとばかりにうつむいて両手で顔を隠したまま泣き出してしまった。
白く小さい手で、必死で感情を受け止める。指の隙間からポロリと落ちた一粒が地面へと吸い取られる。
「や、あの、…すまん、ちがくて…」
これにはエルマーはほとほと困った。なんせ美少年の涙だ。ただ心配しただけだったのだが、表情がよくなかったのだろう。勘違いさせて泣かせてしまったことに、情けなくも取り繕うことすらできずうろたえてしまった。
小さく震える肩をそっと抱き寄せる。エルマーの胸のあたりにちょうど頭が来る小柄な少年の頭を撫でながら、どうしようかと悩んだ結果。思わぬ言葉が出てしまった。
「ナナシ。ナナシは?イントネーション変えるだけで、大分しゃれた感じになるぜ?」
何言ってんだ自分。エルマーはとっさの逃げの言葉が、まさかのからかい交じりのような名前の提案になってしまったことを恥じた。
「ナナシ…、これ、ナナシ?」
「お、い、いやなら…べつに、」
ゆるゆると顔を上げた少年、もといナナシが名前を繰り返す。イントネーションはエルマーが教えた通りで、かみしめるように名前を繰り返す。
勢いで付けてしまったので、怒ってもいいはずなのだ。それでも初めて与えられたのだろう、自身を差す固有名詞は彼の中で小さなさざ波のごとく広がり、心の内側に優しく染み込んだ。
「…ナナシ。」
頬を薔薇色に染めて、宝物を見つけたかのような反応で嬉しそうに微笑むナナシの顔に、こっちまで照れてしまう。金色を濡らしていた涙は、今度は違う色を纏っていた。
「おう、ナナシ。よろしくな。」
「えるまー、はい。」
わしわしとナナシの頭を撫でるエルマーの手を嬉しそうに甘受し、何度も与えた名前を繰り返す姿に、顔がほころぶ。
自分が見つけたことで、救えた命があったのは嬉しい。戦争で汚れた手で、どこまでこの子を助けてあげられるかは不明だが、ナナシが嫌というまでは一緒にいてやることが責任だと思った。
子供なんて育てたことなんてないし、勉強だって教えてやれないと思う。だけどエルマーは、あの村から連れ出した責任として、ナナシに出来る限りのことはしてやろうと思ったのだった。
ナナシと手を繋いで近場の河原に行くと、エルマーは豪快に服を脱いだ。突き出た岩場にぽいぽいと気軽に装備や衣服、はては下着まで投げおくと、バシャバシャと水音を立てながら冷たい川に身を沈ませていく。
くるりと振り向くと、ナナシは呆気にとられた様にしばらくぽかんとしていったが、エルマーが手招きすると、体に巻きつけていたマントをエルマーの装備の横において、おそるおそるつま先からゆっくりと浸していった。
水の冷たさにピクリと体をはねさせる様子が可愛くて、エルマーは泳いで迎えに行くと、手を伸ばすナナシの両脇に手を差し入れて抱き上げる様にして水の中に招き入れた。
「つえたい…」
「おうおう、つめてえなあ。けど、これがさっぱりするんだわ。」
ナナシの好きなようにさせながら、持っていたぼろ布で体を擦る。ナナシはというと、体重が軽いせいで流されないようにエルマーの首にしっかりしがみついたまま浮いていた。
時折水面にきらりと光る魚の姿に興味津々なのか、小さく感嘆の声を漏らしながら楽しそうにしていた。
エルマーはナナシが自分を信じてくれたことに安心したせいで気が緩み、何の気なしに左目に手をやった。本人はいつも通り洗おうとしていただけだったのだが、左目の隙間に指を入れようとした姿に大いに慌てたのはナナシだった。
「えるまー!」
「おわっ、と…ど、どうした大きな声出して…」
喉を酷使させたせいで、けほけほと涙目になりながら咽る姿が可哀想である。背中を撫でてやると、ナナシは悲しそうな顔をしながらエルマーの左目にそっと触れた。
「えるまー、いたい、や。」
「ん?」
「おめめ、や。」
ナナシが必死で自分の左目を隠しながら言うので何かと思ったのだが、ようやく合点が言った。なるほど、目に指をいれたら危ないよと心配してくれていたようだった。
「ああ、大丈夫だよ。だってこれ、」
心配そうなナナシの表情に答える様に、本当に何の気なしに、エルマーにとってはいつも通りに左目の義眼を外して微笑む。
かぽんと気軽に外したそれを見せると、ひゅ、とした呼吸音がした後静かになった。
「だってこれ義眼だし、ってナナシ?…おい、あ!?ナナシ!!!!」
声なき悲鳴を上げたナナシは、エルマーの腕の中、あまりの衝撃的な光景に思考が追い付かずに気絶していた。
力なくエルマーに抱きかかえられたナナシを見ながら、そういや昼もおんなじようなことでひと騒ぎ起こしたことを思い出し、深く反省するのだった。
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