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ぱちぱち、なにやらはぜるような、それでいて耳心地のいい不思議な音がする。ここはどこだろう。たき火の音がするということは、飯炊きの準備か。だとしたら夕刻。しまった、飯炊きの準備はご主人様がしているのだろうか? ありえないことだ。もしそうだとしたら、これがやるべきことだったのだ。恐ろしい、このままじゃ、また折檻されてしまう。 牛追い用の鞭は嫌だ、やせっぽちのこれの体は簡単に皮膚が裂けてしまう。それとも、あの火かき棒で殴られるのだろうか。 「ご、ぇんぁさ…うぅ…っ…ごぇ、…」 なんだか目の周りがひりひりしてこわい。これから起こるであろう暴力が怖くて、無意識に口から謝罪が零れる。 愚図でごめんなさい、教えてもらったことが出来なくてごめんなさい。汚くてごめんなさい、生きててごめんなさい。 小さな体は悲しいくらい震えが止まらない。せめて打たれる範囲が広がらないように、頭を腕で守る様にしながら蹲るしかできなかった。 ごつごつとした重い靴の足音が近づいてくる音がする。その距離が縮まることに比例して、これの体の震えは大きくなった。 「ナナシ…?」 「ひ…っ…ごぇんあさいぃ…っ…!」 エルマーが河原で魚を捕まえて帰ってくると、結界の中でナナシが胎児のように体を丸めて震えていた。気絶したナナシをテントの入り口付近に敷いたシートの上で汚れないように寝かせたまでは良かった。まさか帰ってきたらこんなことになっているとは。 この小さな体に深く刻まれた暴力の記憶は、簡単には覆せないだろう。 そっと彼の体をマントで包んで抱き上げると、そのまま膝にのせてあやすように頭を撫でた。 可哀想に、顔は涙でぬれていた。せめて熱を持った目元は冷やしてやるかと、火消し用のバケツの水に布を浸して硬く絞ったもので、そっと涙で濡れた顔をぬぐってやった。 やがてその長いまつげを震わして、ゆるゆるとその双眸を開くと、大きく宝石のように美しい金目でエルマーを見た。 「よぉ、大丈夫かナナシ。」 「あ、…っ…ひ、…」 夢だと認識したのか、安心したせいか、ナナシはせっかくエルマーが拭った顔を再び涙で濡らし、力強く首に抱きついた。 よしよしとその小柄な体を抱きしめながら、エルマーはため息をついた。 この子はこんなに小さいのに、声を殺して泣くのだ。 河原で体に触れた時も、おびただしいほどの暴力の痕を見つけ、思わず腹にくすぶる怒りの感情が表に出そうになったほどだった。 背中の傷跡は特にひどい。何度も鞭に皮膚を剥がされ、焼かれたような拷問の痕が白い背中を覆っていた。ナナシは、その小さな体で必死に抵抗したのだろう。腕の裏側にも同じような傷があった。 腕の中で静かに泣く彼が落ち着くまで、エルマーはたき火に取ってきた魚をくべしながらおとなしく待った。 自分が何か声をかけても、解決しないことは確かだ。こういう時は時間に任せるのが一番である。 たき火の火によって鱒がいい感じに焼けた。ひときわ大きなそれは脂がのっておりうまそうだ。腹が減っていては気分がしょげる。これは全員に言えることだろう。 エルマーは胸元でおとなしくしていたナナシのそばに焼けた魚を持っていくと、きょとんとした顔でその魚を見つめた。 「腹減ってねえか?一番うまそうに焼けたから、食っていいぞ。」 「…ななし、こぇ?」 「おう、魚食ったことない?」 戸惑いながら、恐る恐る魚を刺した棒に手を伸ばす。両手でそれを握ると、ますます困ったようにエルマーを見上げてきた。もしかしたら、食べ方を知らないのだろうか。 エルマーがナナシの持つ魚を試しに横からかぶりつくと、ジワリと塩気と混じって口の中で鱒のうまみが広がった。もくもくと咀嚼しながらナナシを見つめると、恐る恐る真似をして、小さい口で一口かじる。もむもむと口を動かしながら、次第に目をキラキラと輝かせるその表情がやけに可愛く、思わず笑ってしまった。 「それ、全部食っていいぞ。鱒ならまだまだあるし。気に入ったんならよかったよ。」 「…、」 口元を押さえながらもぐもぐ、ごくん。エルマーの顔を見ながらぱかりと口を開ける姿に、飲み込めたよというアピールなのかと思った。よしよしと頭を撫でながら、自分の分を食べようとすると、ナナシがエルマーの口元に先ほどの食べかけの鱒を当ててきた。 「これ、お前のだぞ?俺はほら、こっちにもあるし。」 「えるまー、ななし、たべぅ。」 首をかしげながら困ったように見上げてくる。一体何のことだかわからなかったが、要は一緒に食べろということかと、ナナシが差し出してくれた鱒を、またぱくりと食べた。 それが正解だったようで、嬉しそうに微笑むとナナシも同じものをぱくり。 自分とは口の大きさが違うナナシの一口は酷く小さい。細い体をなんとか太らせたいエルマーは、ぜひとも一本まるまる食べてもらいたいのだが、ナナシはその鱒をエルマーと交互に二三度ぱくついた後は、お腹がいっぱいになったのか差し出しても笑顔で首を振るだけだった。 ナナシは鱒一匹を食べきることができず、大食らいのエルマーからしてみれば心配の種が増えただけである。 体格からして十代前半だと思うが、それにしても細い。近くの町に行くまではしばらくかかりそうだし、栄養のあるものを少しずつでも食わせなければ、流行り病などにかかったらひとたまりもなさそうだ。 エルマーは出会って二日目だというのに、自分がナナシに対して過保護になってしまっていることに気が付いた。 「名付け親、だからかねえ。」 ナナシの頭の上に顎を乗せながら呟くと、ナナシが嬉しそうな声でくふふと笑った。 大量とはいかないものの、とってきた魚はすべて焼いた後インべントリに突っ込んだ。 これで腹が減っても食料は確保できた。明日の朝は森の中を抜けて、聖シュマギナール皇国を目指そう。まずはそこに行くためには森の出口にある大橋を渡って、皇国へと繋がる城門を目指さねばならない。 まずは一番皇国に近い村、ドリアズで一泊してから向かう算段をつける。エルマー一人なら村に立ち寄らずともいいのだが、ナナシの体力が持つかわからなかったのだ。 それならば急ぐ旅でもなし、皇国に入ってさえしまえば魔物は出ないし安全である。 それにいい加減温かいお湯も浴びたいし、ナナシの服も買ってやりたいのだ。 そしてなにより、エルマーがこうして皇国を目指すのには、一つの目的があった。 それは大切な約束を果たすためだった。インべントリの中に保管されているクラバット。それを正しい持ち主に返すようにと、エルマーが在軍中に駐留していた土地でお世話になった神父からの頼まれごとだった。 たき火を消しても結界があるので魔物がこちらに追ってくることはない。必要な明かりはテントの中の魔道ランプに光魔石をセットすれば点灯するのでそれでいいだろう。 念のため魔物避けとして、以前倒した大物の魔物の血を水に溶かしてテントの周りに撒いておく。ここいらじゃお目にかかれないアンデット系のミノタウロスの血だ。錬金術師垂涎の貴重なものだが、べつに錬金術師でもないのでエルマーにとっては大して痛くもなんともない。 エルマーのインべントリの中には、貴重な素材や魔物の核などが乱雑に保管されていた。戦場で片っ端から倒したものもあるが、討伐依頼を受けて刈り取った魔物からドロップしたものもある。それを売れば家だって買えるのに、それをしないのは関心がないからだ。 くありと一つ欠伸をすると、そろそろいい時間である。ナナシはしっかりとエルマーの服を握りしめながらテントの中に入ると、横になったエルマーの腕の中にもぞもぞと入りこんだ。纏っていたマントは毛布代わりにしてその細い体を包んでやると、眠そうな目で見上げてくる。 「さ、今日はもう寝るぞ。明日は起きたら森を抜ける。今のうちにゆっくり体を休めた方がいい。」 「…、えるまー、」 「起きてもいるよ。ゆっくりお休み。」 横になったエルマーの胸元にその身を預けて、ナナシはしっかりと服の裾を握りしめて目をつむる。エルマーがナナシを一人ぼっちにしないように。目が覚めて、どこにもいなかったらさびしくて泣いてしまう。ナナシは言葉がうまく出てこない代わりに行動で示すしかないのだ。 エルマーは服の裾を握りしめて胸元に顔をうずめるナナシの必死な姿に胸を痛めながら、そっと背中に腕を回して抱きしめてやった。 「…、っ…」 背中を優しく撫でる体温に、一瞬身をこわばらせた。なだめるような優しい手のひらに少しずつ促されるように力を抜くと、エルマーの腕の中でナナシは自分に与えられたぼろ布を噛みながら、小さく小さくなって目をつむる。 夜になると、ナナシはいっつも泣いている。静かに、迷惑にならないようにと嗚咽をこらえ、涙をぼろぼろと零しながら、エルマーの優しい体温と香りに包まれる。 ここは、なんて息がしやすいのだろう。心の中はこんなにも饒舌なのに、なんで口をついて出るのは下手な言葉ばかりなのか。 自分は何もできない。だからこの人の為に何かしたかった。ナナシはやせっぽちで使えない愚図だ。だから早く元気になって、役に立ちたかった。 「ナナシはいい子だなあ。なんも心配ねえ。明日の朝も、おはようって返してくれな。」 「…うぅ、…。」 頭を撫でられると涙が止まらない。陽だまりのような声でナナシに優しくしてくれる。 明日の約束をしてくれて、沢山お話をしてくれる。 ぐすぐす泣いていたら、頭上からすー…、と寝息が聞こえてきた。鼻をすすりながらそっと見上げると、エルマーがナナシをあやし疲れて寝息を立てていた。 無防備な寝顔をしばらくじいっと見つめてから、ペロリとエルマーの唇をひと舐めする。 ごめんなさい、うれしい、ありがとう。そんな気持ちを込めた、挨拶のように。 もぞりと頭を胸元に押し付けて、あぐ、とエルマーの服を加えて目を閉じた。こうすると落ち着くのだ。ナナシは途中何度も目を覚ましては、寝ているエルマーがいなくなってないか確認をした。寝相で背中から腕が離れると、寂しくて自分から抱きついて目を閉じる。 そうすると、また抱きしめてくれるのだ。何度か繰り返すうちに、ナナシも気が付けば眠っていた。 皇国に向かうための野宿の間、ナナシの睡眠はずっとこんな具合で目の下の隈も濃くなっていったが、折檻されていたころよりも数億倍ましだった。 だからナナシからしてみたら、寝付けないことが多くても体の不調は特に感じていなかったのだが、それを良しとしなかったのがエルマーだった。 「ナナシ、また濃くなってる。」 「…?」 「うーん、首かしげてんのかぁいいな。」 「う。」   エルマーは丸太の上に座りながら、ほそっこいナナシの腰を抱いて体を寄せる。ナナシはエルマーが寝ている間はなかなか眠れていないようで、寝ていたとしても必ず体や服の一部を掴んでいないとダメなようだった。 さて困った、どうしよう。そう考えて出た結論は極端だった。 インべントリからロープを取り出すと、ナナシに背中に抱きつくように促した。くっついていないと寝ないのであれば、道中存分に寝てもらおうという算段だ。要するにおんぶ紐代わりに使うのだ。 ナナシは最初、紐を見てびくりと体を硬直させた。その様子に、エルマーは安心させるように頭を撫で、ナナシに向かって背を向け屈んだ。 「…?」 「ナナシ、背中のってくんね?おんぶ。わかる?」 「おんぶ、…おんぶ?」 聞きなれない言葉だったのか、はたまたされたことがないのか。ナナシは良くわからないままエルマーの正面に回ると、頭に抱きついた。 「うーん、おしいな。後ろから頼む。」 ぽんぽんとあやすように尻を叩くと、ナナシはようやく合点が言ったとばかりにうなずいて、その細い腕を首に回してエルマーに後ろから抱きついた。 「おーし、いいこだ。しっかりつかまってくれよお。」 「ぎゅう?」 「ぎゅう。そう、よしよし、よいせっと。」 ナナシの細い腕をしっかりつかみ、前傾姿勢で立ち上がる。慌てたナナシは離されまいとエルマーの腰に足を絡めると、それを狙っていたエルマーが手早く自身とナナシの体をロープで固定した。 二、三度揺らすようにして位置を調整すると、きょとんとしていたナナシが状況を理解したのか、いつもよりも高い目線に少しだけ嬉しそうにしながらあたりを見回していた。 天気は晴れているし、ナナシはご機嫌だし。スムーズにいけばドリアズも今日中に着くだろう。エルマーは簡単な装備の確認だけすると、皇国に向けての一歩を踏み出した。

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