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しくじった。エルマーはまず最初にそう思った。
「う、うぅ…う、ぅわ、ぁあん…っ、」
余程のトラウマを思い起こさせたらしい。エルマーは子供のように泣きわめきながら蹲るグレイシスの様子を見つめながら、時折頭を撫でてやるなどして逡巡した。
「やべえ。葬式に第一王子欠席とかあんのか、つかどうすんだこれ。」
「あ、あろ、あろんだーと…うぅ、っ…」
「あーもうわかったわかった、ちょっと待ってな。」
シーツを汚しながら、寝具を抱きしめてひぅひぅと泣く。まさかストレス溜め込みすぎて幼児退行するなどと、わかっていれば術など使わなかった。
エルマーは仕方なく適当に続き間になっている浴室に湯を溜めると、大判のタオル片手に寝室へと戻る。
再び戻ってきたエルマーは、未だ泣き続けているグレイシスを横抱きに抱えあげると、湯気の立つ浴室へと戻る。
まさかこの歳頃の男を世話することになるとは思わなかったなと遠い目をすると、グレイシスの着ていた衣服を脱がす。
「おら、肩掴んで構わねえから足抜けって。濡れたまんまじゃ気持ち悪いだろう。」
「うぅ、ま、まだ…あっ、…」
「あ!?ま、まてまてま、ああぁぁ…」
ふるりと甘い吐息と共に、グレイシスのスラックスの裾から重力に従って漏れ出る。膝を震わし、かくんと崩れそうになる体を片手で支えると、股間にタオルを押し付けて悪あがきをした。
「おまえ、ああ、もういいや…俺がわりいな…もう出ねえか?」
「うう、でない…あろんだーとは…」
「ここにはいねえ。あいてえなら身だしなみ整えてからなあ。」
ぐすぐすと愚図るグレイシスの衣服を剥ぎ取り、丸裸にする。
エルマーも風呂の世話をするのに濡れるのも嫌だと下着だけになると、そのまま中にはいる。
グレイシスの寝室とつながる浴室は、エルマーが引くほど広く、ツルツルとして転びそうなくらい磨き上げられたタイルを踏みながら、グレイシスの体を適当にお湯で流したあとに風呂の中に突っ込んだ。
「アロンダートは、嫌いだろうか…僕のことを…」
「しるか。そんなもん自分で聞け。」
「聞きたいけど…っ、…も、もう…うぅ、っ」
「泣くなァ!ったく、何なんだよさっきからめそめそめそめそ…」
グレイシスの髪をわしゃわしゃと泡立てながら、疲れたような顔で言う。この歪んだ兄は、アロンダートを憎むことで自分の足で立っていた。
第一王子としての重圧を耐えるためには、血の繋がらない、可哀想なアロンダートを縁にしていたのだ。
「好きなら好きで、構わねえだろう。なんでカーちゃんの言いなりになるんだ。」
「僕が…言うことを聞けば、弟はひどい目に合わないんだ…」
「…ああ、そういう」
いい子ちゃんでいれば、皇后の興味は第一王子である息子に向けられる。彼女の理想の王子である為に、グレイシスは必死で己を取り繕った。
「…閨教育は、父上がしてくださった。」
「だからよ、普通はプロを呼ぶだろう。てかお前のほうが酷い目にあってんじゃねえか。」
「そうなのかな、」
グレイシスは、乳白色の湯の中で膝を抱えた。ばしゃりと雑に湯を浴びせられて泡を流されるのも、乱暴で怖かったが、こうして話を聞いてもらえる機会はあまりなかった。それに、なんだか今は素直にならなくては行けない、そんな気がしていた。
第一王子だから、皇后の言うことを聞けば間違うことはない。決められたレールの上で待ち構えていた老いた父王は、その美しい愛息子も情欲の対象とした。
「僕は、半魔のものでも自由に暮らせる…そんな世にしたかった。」
ポツリとつぶやく。エルマーはその細い肩に湯をかけやりながら黙って聞いていた。
「抱かれれば、立場は変わると思った。僕のわがままを、父王は聞いてくれると思ったんだ。」
なんで、その選択肢を選んだのだろう。ぐす、と鼻を啜りながら俯く様子は、酷く脆い。
「その夢には、アロンダートが必要なんだ…だって、彼は半魔で僕の弟だ…血は繋がっていなくても、父王と母上が死んだら、二人で玉座に付きたかった…。」
「さらっとすげえこと言うなお前。カーちゃんも嫌いなのか。」
「嫌い、嫌いだよ…彼女は僕達を離れ離れにしたし、父王に僕を差し出した。ねえ、市井の民は、皆血の繋がった父親に抱かれるものなの、」
「抱かねえ。普通は抱かねえもんなんだ。お前は選択を誤ったんだよグレイシス。」
「もっと。優しく言ってよ…っ、」
じわりと涙を滲ませる顔を見て、エルマーはグレイシスの目元をかさついた親指で拭った。
「言わねえよ、それは俺の役目じゃねえしな。」
「え、…っ…」
「お前が甘やかされたいのは、俺にじゃねえだろう。」
唇を、真一文字に引き結ぶ。グレイシスの求めている人は、アロンダートだ。
体格は似ているが、肌の色も、目の色も違う。
じっとエルマーを見つめ、確かめるように顔を近づける。唇が触れそうになったとき、ふっ、とグレイシスの意識が途切れた。
「おやすみぃ、グレイシス。お前は葬式には出ねえほうがいい。」
かくんとエルマーの肩に頭をもたげ気絶した体を抱き上げる。術を解いたのだ、自分が後で素直になったことを思い出したら、こいつはどんな顔をするのだろう。それは少し気になったが、これ以上はだめだった。
冷たい表情で、冷酷なグレイシスの内側は、こんなにも脆い。
これ以上知ってしまうと、余計に面倒なことに首を突っ込みかねないからだ。
「悪いなあ、おまえの大切はサジのもんなんだぁ。ちっとばかし、素直になんのが遅かったな。」
すうすうと眠る顔は幼い。こいつにも幸せな出会いが来るといい、そう思いながら身だしなみを整える。ベッドの汚れ物も全部とりかえると、そこにグレイシスを寝かせた。
早くナナシのところに行って、抱きしめて、沢山口付けをしたい。エルマーは目を細めてそっと唇をなぞると、ぐーっと伸びをして体の疲れを誤魔化した。
「ふふ、なるほどなあ。面白い。俺が食ってもいいなら俺のものにするのだが。」
「やめろ悪食。お前が捉えるにはあいつは脆すぎる。」
「なに、締め付けの加減を誤らなければ死にはしないだろう。」
「あーあ、可哀想なグレイシス。エルマーが余計なこと言わなければジルバが興味を持つこともなかったと言うに。」
「える、わるいこ。」
うぐぅ。エルマーは喉の奥から妙な声を引き出しながら、ごちんと棺に頭を打ち付けた。
現在、ジルバを交えて王家の霊廟で目下作戦会議中なのである。エルマーがグレイシスを眠らせたあと、侍従には錯乱していたため眠らせたと伝え、安静にするために葬儀には参加させないほうが良いだろうと伝えると、キョトンとした顔で葬儀はしないといった。
「まさか発表だけで葬儀すらされねえという、不遇具合は恐れ入るわあ。」
「アランの方が人は多かったぞ。まあ、埋めるからということもあるのだろうが。」
ペチンとエルマーがアロンダートの眠る棺を叩きながら言う。サジもあのあとアランの棺を埋めるために墓地に行ったのだが、アランが元々そこの教会に出入りしていたことも相まって、棺を埋める際にはそこの関係者も祈りを捧げてくれたのだ。
サジはというと、そのあとジルバの元に舞い戻って解毒薬を生成してもらった。無論、アロンダートに飲ませるためである。
そこでついぽろりとグレイシスのことを言ってしまったのだ。後悔してももう遅い。ジルバはニンマリと悪く笑うと、あろうことかついてきたのであった。
「それで、俺の可愛い嫁御はどこだ。」
「やべぇよコイツ、もう嫁認定してンだけど。」
「人の子はいい。愛しても食われぬからな。」
「ああ、お前らンとこの結婚観ってカニバリズムかあ。」
ジルバがうんうんと肯く。そうだった。アラクネの繁殖とは男が最後は食われるのだ。もちろん、ジルバの父親も腹の中ということになるが、もともと番にするなら人間の子だと決めていたらしい。
「それにこの世の半魔を受け入れるという綺麗事。くふ、純粋な思いならなおのこと汚したくなる。」
「おいやめろ。性格悪いぞジルバ。」
「エルマー、とにかくジルバはこうなったら止まらんぞ。多分予知もしているのだろうしなあ。」
「ああ、父王と皇后は死ぬぞ。俺が殺す。」
「はあ、…はあ!?」
ぎょっとした顔でエルマーが見る。ジルバはニッコリと笑って、代替えだ。と言った。
「いよいよ戦争が始まる。幸い、先日の夜にカストール共和国の使者が無事だったことと、その後のやり取りで皇国は友好関係を築けた。二国間同盟は成立なされた。まったく、死者に感謝だな。」
コツコツと、アロンダートの棺を叩く。ナナシはこの真っ白な霊廟の中、まるでテーブルのような扱いを受けているアロンダートが少しだけ可哀想で、よしよしと棺を撫でる。
「…ジルガスタントか。」
「おう、そこだな。愚王が傀儡だと言ったろう。国民の為と銘打っての国土拡大だ。全く笑える。俺の蜘蛛の巣も広げさせてもらおうか。」
「うええ、いちぬけしたい。サジはもう隠居したい。」
「また面白いことを、ここにいる限りお前も出る羽目になるのだ、足掻け。」
楽しそうなジルバは血筋柄好戦的だ。サジはうへえと辟易をした顔をしながら棺に抱きつく。
エルマーはというと、隣でいい子にしているナナシの頭に軽く頭付きするように擦り寄ると、じとりとジルバを見つめる。
「んで、俺たちはどうすんの。」
「何もせず。三日後に蘇らせる。エルマー、お前は駆り出されるぞ。いま城のものがお前を探している。」
「いやだああ!!」
「俺は番に会いに行こう。くふ、つかの間の休息だ。いいか、三日後に必ず事は起こる。その慌ただしさに紛れて墓荒らしをするぞ。」
ジルバはそういうと、棺の蓋に手をかける。ぎい、と音を立てながら扉を開くと、百合の花に埋もれるようにして眠るアロンダートがそこにいた。
「毛先を貰おう。」
シャキンとアロンダートの黒髪を切る。それを小瓶に入れると、そっと懐にしまう。
「お前のそれは何なんだ。」
「何だ、知りたいのか。」
ニヤリと笑みを浮かべる。気になるような、それでも怖いような気がしてエルマーはひくっ、と口元を引き攣らせると、やっぱいいと聞くことを辞退した。
カタン、と音がした。
グレイシスはぴくりと耳を澄ますと、そっと枕の下に手を入れた。
指先が硬質な金属の持ち手に触れる。それを握り込むと、瞼を閉じて気配を研ぎ澄ませた。
「…グレイシス、起きているか。」
「父上、」
嗄れた声がした。年老いた王、その人である。
アロンダートの死は、国民へは流行り病を拗らせてということになった。笑えることに、王城内での突然の王族の死に取り乱したのは自身だけで、城内にいたカストール共和国の使者は、その死が先日の魔物の襲撃による傷からくるものだと尤もらしいことをアロンダートの従者から伝えられ、悔やまれたという。
ー殿下は国民へ、不安を煽らないようにと自身の死の真相すらも秘匿されるのですね。
その言葉の奥の意味を、正しく捉えたのはグレイシスのみだろう。
王はその答えに満足したように頷いていた。
まるでこれは皇国の王族たる者の国民への示し方だと。
「おお、可哀想なグレイシスよ、お前が酷く取り乱したと聞いて、儂は気が気ではなかったよ。ああ、酷い顔色だ。」
「父上、父上…」
グレイシスはそっと王へと手を差し伸べた。まるで幼子のように、いとけない顔でだ。
父王へは、自身がいい子であるように見せるのがこの城での生き方だと、そう言い聞かせたのは一体何時頃からだったのか。
父王は自尊心を満たしていた。この苛烈な王子が、自身にだけ見せる甘やかな表情、そしてその手綱を握っているという優越感。
全部、全部ハリボテなのに。
太り、生き汚くその玉座を汚している愚かな父の芋虫のような手のひらが、そっとグレイシスを抱き締めた。
脂肪で歪に膨れる背中へと手を回し、その乾いて牧草のようになった金髪へと手を差し入れる。
首筋に父王のすえた臭いのする舌が這わされた。グレイシスは、こうすることでしかアロンダートを守ることができないと言い聞かせてきたのに。
「アロンダート、」
死んだ今ですら、自分は素直になれないよ。
グレイシスの心の中の悲鳴は、薄玻璃に入った皸のようにじわじわとその心を侵食していった。
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