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「は、らんでいる…だと?」
呆気にとられていたサジが、2、3度瞬きをした後、漸く我に返ったらしい。酷く狼狽えながら、口元を引き攣らせて言う。
顔はやはり、ありえないといった具合に疑いの色を滲ませる。レイガンは、ナナシの様子を見ることを恐れた。自分が口にしたこととはいえ、やはり配慮すべきだったのだ。
「…混じろうとしているといったろう。これが一つになれば、おそらく妊む。」
「ナナシ…おまえ、いつから雌になっていた…」
レイガンの重々しい口調に、サジの喉がごくりと鳴る。ここ数日で目まぐるしく変化を遂げたナナシだ。ありえないと一蹴するにもしづらい。サジの言葉にゆるゆると首を振る。
レイガンの言葉に思考が支配されそうで怖い。ナナシは自分の腹を押さえながら、ゆっくりと深呼吸をしていた。
「な、に…なにい…、これ、ええ…?」
「ナナシ、落ち着け。ゆっくりでいい。お前の身に何が起きているか、俺にもわからない。情報が少なすぎるからな。」
「な、ナナシ…お、おとこのこ…だよう…っ…、」
「わかっている。だからこそ、何があったか教えてくれ。」
はあはあと呼吸を荒らげ始めたナナシを、レイガンが落ち着かせようとする。エルマーは呆然としたまま顔を手の平で覆うように頭をかかえて、蹲るように両膝に肘をついて頭を支えた。
サジもアロンダートも、エルマーのいつもと違う様子に気づいていた。こういうときは、信じないと言わんばかりに文句をいうのに、それがない。
余りにもありえなさ過ぎることを言われた上に、信憑性の高い紫の瞳がみた答えだ。おそらくそれは事実なのだろう、どう声をかけていいのか分からなかった。
「ひ、…っ、」
かひゅ、と不自然な音がした。パニックになったナナシが、吸ってばかりだった呼気を吐き出せずに詰まらせたのだ。
「だめだ、吐くんだ!落ち着いてゆっくり呼吸しろ!」
はひ、と口端が震える。舌が乾く、息が苦しい。変だと思ったのだ。ナナシはぶわりと冷や汗をかきながら、どさりとベッドに倒れ込む。足でシーツを蹴り、喉元を掻きむしる。金色の瞳からぽろりと涙を零しながら、頭の中ではどこか冷静だった。
「え、…っ…ぅ、え、っ…ひゅ、っ…」
聖石を体のうちに取り込んだときから、まるで細胞が入れ替わるような爽快感と、懐かしさ。足りないものが満たされていくその感覚が、己の魔力が戻ってきたことを教えてくれていた。
「おい、だめだ息を吐け!」
突然使えるようになった魔力も、すんなりと出てきた術をどう行使するかのイメージも。そしてなにより、棺で囚われたときの過去の記憶が呼び水となって、足りないピースを嵌め込むかのようにして、魔力の流れを全身に行き渡らせたことも。
「ひゅ、…っ、ーーーぇ、う…」
「吐き出せ!だめだ、いきが…っ、」
ナナシは、もしかしたら自分がみんなと違うかもしれないということを、わかっていたのに認めたくなかった。
「邪魔だ、どけ。」
「なに、っ…!」
エルマーと一緒がいい。同じ人として、エルマーと一緒に死にたいのだ。
もし自分が人じゃないと認めてしまったら、あの言葉が本物になってしまうかもしれない。
ーーお前に愛される者は、皆死ぬ運命だなあ。
ぼやける思考に響いたのは、あのときの男の言葉だ。
「ナナシ、こっち向け。」
ああ、エルマー。怖い、怖いよ。
ひくんと身をはねさせ、口端から泡を吹き出すナナシの顔を、エルマーの大きな手が包む。
いつもこの手が、汚れたナナシを気にせずに愛してくれるのだ。目から溢れた涙を拭うように、カサついた親指が目元を拭う。ナナシの手はお腹を抑えたまま、力を込めてしまっているせいで服にはシワがよっていた。
「大丈夫、大丈夫だ。」
「ーーーーー、」
サジやアロンダート、レイガンもなにか叫んでいるのに、ナナシの耳に入ってくるのはエルマーの声だけだった。
気持ち悪がられる、嫌われる?
もしここに、レイガンの言うとおり子が出来たら。
それは人じゃないと言われるだろうか。
「ナナシ、」
ふにりと柔らかな唇が重なった。びくびくと呼吸が出来ずに震えるナナシの細い体を抑え込むように抱きしめる。汚れた口も気にせずに舌を差し込み、ちう、と震える舌を甘やかすようにして絡める。
「ぇ、う…、っ…」
「怖くねえ、なにも…」
「っ、……ひ、」
ナナシの口へ、エルマーの唾液を与えられる。
酸素が回らず、熱に茹だった薄ぼんやりとした思考の中でも、本能的にそれを飲み込んだ。
「俺がいる。」
こくり、と唾液を飲み込みながら、何度も舌を吸われながら甘噛みをされた。どくどくとした心臓の不規則な高鳴りを宥めるように頭を撫でられ、じんわりとエルマーの魔力が染み渡るようだった。
こんなことしていては、本当に孕んでしまうかもしれないのに。
ナナシは呼吸は乱れてはいたが、エルマーの胸元に縋り付く手とは裏腹に、ふるふると首を振った。
「だめ…だめだよう…、っ」
「ナナシ、」
「うぁ、やだあ…」
ぐすぐすと泣き声で言う。いつもの甘えたなぐずり方ではない、エルマーは引き剥がそうとするナナシの頭を引き寄せ肩口に埋めさせながら、レイガンをみた。
「さっきの話、マジなんだよなあ。」
「ああ、間違いないな。彼の腹に膜のようなものが見える。恐らく、」
「…わかった。」
エルマーは端的にそういうと、抱き直しながらナナシを膝に乗せた。肩口を濡らしながら、ナナシの細い腕がエルマーの首に絡んだ。離れなきゃいけないと思っているのに、体が言うことを聞かないのだ。
褒めるように背中を撫でるのが余計に涙を誘う。
気持ちとは裏腹な行動を取るナナシの華奢な背を見つめていたサジが、そっとその頭を撫でた。
「あの時かもなあ。ナナシが大きな聖石を取り込んだとき、体も成長したろう。」
「聖石を取り込む?…そうか、やはり。」
「ひ、っく…」
あの瞬間、たしかに体は変わった。そして、あの後体温を分け合った時に魔力が混じったのかもしれない。
レイガンは、ナナシの金眼を見つめると、口を開こうとした。
「何も言うな。今は、そっとしとけ。」
「……ああ、わかった。」
「わりい、けど。今は二人にしてくんねえか。」
アロンダートはエルマーの言葉に小さく頷いた。促すようにしてサジの腰を抱くと、扉を開く。そっと背を押すようにしてサジを先に出すと、行き辛そうな顔をするレイガンを見つめて微笑んだ。
「行こう。エルマーなら大丈夫だ。」
「しかし、」
「大丈夫だ、僕は君のことを嫌ってはいない。少し話し合おう。僕達は互いを知る必要がある、そうだろう。」
「…ああ、そうだな。」
扉の外でむすくれているサジに物怖じはしたが、レイガンはアロンダートの言葉に小さく頷いた。出掛けにエルマーたちのことを気にするようにちらりと見たが、今はそっとしておけと言われていたので何も言わずに扉を締めた。
「…俺は、言うべきではなかったのだろうか。」
「ナナシは、臆病なのだ。まあ、エルマーがいれば大丈夫さ。」
「あいつは、全部エルマーと同じがいいのだ。それをお前は、」
うつむくレイガンの様子が気に食わなくて、サジが食って掛かる。厄介ごとしか持ってこないと言わんばかりに眉を顰める。胸ぐらを掴もうとした手を静止したのはアロンダートだった。
「サジ、これは誰も悪いわけではないよ。運命は超えられぬ壁を与えることは無い。これ二人で乗り越えねばならぬ壁だ。」
「アロンダート、」
「変化を恐れていては何も進まない。国も、人も。」
レイガンは焦っていた自分を恥じた。可能性を眼の前にして、先走ったのだ。2、3回話しただけでもわかる。ナナシは幼い。彼の過去もしらない自分が、突然考えなしに追い詰めたのだ。悪意のない真実を包み隠さず押し付けた。
突然体が変わったといっていた。恐ろしかったことだろう。それを、気丈に振る舞って気にしていないように見せていた。だから彼らもナナシが気にしないようにと、カジュアルなやり取りで終わらせた。
その琴線を揺らしたのは、紛れもなくレイガンだ。
そっと仮面を取ると、ナナシの魔力に視界が揺さぶられたわけでもないのに視界が歪む。
「そんな顔をすることは、サジが許さぬ。お前が痛そうな顔をすることは、絶対に。」
「……わかってる。」
レイガンの背にしたドアの向こうでは、すすり泣く声が、ずっと聞こえていた。
「ひ、っく…ぇ、る…っ、」
「おう、」
胸元に顔を埋めながら、ずっとナナシは泣いている。エルマーは名前を呼ばれる度に答えるように撫でながら、慰めるでもなく、泣きたいだけ泣かせてやっていた。
エルマーはわかっていた。ナナシが普通とは違うこと。そして、レイガンが言いたかったこと。
それはナナシにとっては受け入れがたい事だろう。それに、仮に受け入れたとしてもその後はどうなる。
エルマーは守りきれるのか。
「………。」
エルマーの義眼は、ずっと、3年前から左目に収まっている。これはもう必然だ。この義眼が、もしかしたらナナシと引き合わせたのかもしれないとさえ思っていた。
聖石を取り込むことは、というよりも、魔石から魔力を取り込むことは出来ないのだ。あの時、聖水晶に触れて破裂したのも、もしかしたらナナシの眠っていた聖魔力に過剰に反応したのかもしれない。
なら、あのとき見た黒い魔力は。
「お前が、何だろうとどうだっていいやな。」
「える、まー‥」
「俺はお前を見つけた、俺のもんにした。てことは俺の好きなようにしていい。そうだろう。」
「っ、ん」
べろりと涙を舐める。ひくんと肩を揺らしたナナシのご機嫌をとるように、エルマーは目や鼻、唇に口付ける。
ナナシの長いまつげがふるりと揺れ、そっと答えるように自ら口付けをしてくると、エルマーは舌先に愛を乗せるようにして口付けを深くした。
ぬるつく舌を絡め、互いの唾液を交換する。こくりとナナシの唾液をエルマーが飲み込むと、そっと唇を離した。
「ナナシは、どうしたい。」
「っ、え…」
「腹の中のもん。ナナシの身体だ、俺はお前の気持ちを守りてえ。」
「おなか、の…」
そっと平べったい腹に触れる。薄いそこにはなんの膨らみも見当たらない。ナナシは、自分に流れる魔力を確認するように瞼を閉じて集中すると、その腹の中にはたしかに何かが息づいていた。
レイガンは混ざりあうと、と言っていたが、ナナシのほうが自分の体のことなので、より鮮明に知ることができた。もう、エルマーの魔力が混ざっている。まるでナナシの魔力を包み込むように、やさしく同化している。
怖い。これから先、何が起こるかが怖いのだ。
「や、だよ…う…」
小さく呟いた。声は震えていたかもしれない。エルマーはナナシを宥めるように、そっとその手に指を絡める。
「そ、そだた…なかっ、たら…」
「ナナシ、」
「げ、げんきに…っ、うめ、ない…かったら…っ、」
ぶわりと全身の毛が逆立つような甘い痺れが全身を包み込む。エルマーは、今間違いなく感情が高ぶっていた。
不安に泣いているナナシを目の前にして、雄の本能
が叫んでいた。
「産みたいのか。」
「っ…、」
白い手が、これ以上は駄目だと言うように自身の口を塞ぐ。怖かった。ナナシは、きちんと産んであげられるかという不安で、怯えていた。
「ナナシ、」
「や、」
未発達だった体が、急激に成長を遂げた時点でわかっていた。自分はきっと、エルマーと同じじゃない。だからそれを見てみぬふりをして生きてきたのに、その事実から目を逸らすなと教え込むように、神様がナナシに酷いことをした。
「産んで、くれんの。」
エルマーの声が、震えている。
ナナシは顔をあげられなかった。人間になりたい、人として、エルマーと一緒にいたい。
エルマーの子を産むということは、自分がエルマーとは違うものだと認める事になる。
なんで、ナナシはボロボロと涙をこぼした。呟いた言葉は音にならない。肩で息をして、胸が苦しくて哀しい。哀しいのに、嬉しい。
「なあ、ナナシ、」
「…、た…い、」
声が掠れた。エルマーが好きだ、大好きで、死んでしまうくらい愛している。出来れば、もし本当に出来るのなら、ナナシはやっぱり人間でいたかった。
ナナシの手の甲に、ぽたりと水滴が落ちる。エルマーの隠れていない綺麗な右目から、ぽろぽろと涙が溢れていた。
「ナナシ、ごめんな…おれは、っ…」
きつく抱きしめられた。その4文字はエルマーの鼻先が埋められた髪からじんわりとしみ込んでいく。
神様は酷い。産んだら人じゃないと認めることになってしまうのに、
「う、みたい…」
エルマーの子を、この手で抱きたいと思ってしまった。
ナナシの言葉に、エルマーの吐息が震える。これは、歓喜だ。
自分が唯一だと決めた雌が、自分の子を孕むのだ。
エルマーはどうしょうもない、男としては喜びに満たされていた。その身を震わすくらい嬉しいのに、その裏で腕の中の愛しい雌が、自分の中で落とし所をつけなくてはいけないという、選択の帰路に立たされている。
これは我儘だ。エルマーはわかっていた。
きちんと自分で選べと道を譲っておきながら、やっぱりエルマーは我慢ができなかった。
その我儘が受け入れられたこと、そしてナナシが自分のものという証を孕んだことが、どうしょうもなく嬉しかった。
だから、エルマーは泣いた。嬉しくて泣いた。ナナシとは違う理由で、二人で顔をビシャビシャにしながら泣いた。
「俺のだ、俺の子を孕んでんなら、それは番だ。お前は、紛れもなく俺のものだ。」
「ナナシ、にんげんがよかった、でも、うめるなら、えるのためにひとをやめたい」
「お前が、人じゃなくたっていい。答えははなっからシンプルなんだからよ、」
エルマーはそう言って、ナナシの薄い腹を撫でた。
ずっと一人で戦って、ナナシと出会って、惚れて、その惚れた相手が孕んだのだ。
形は違うが、自分が人としての幸せを噛み締めることなんて、ずっとないと思っていた。
「お前が、願いを捨ててまで、俺を幸せにしてくれた。」
ナナシが人間になりたいという願いを、エルマーがとりあげた。
「だから俺は、お前の全部を大事にするよ。」
こんな下手くそなプロポーズ、あってたまるかと自分でもおもう。それでも、ナナシには充分だったのだ。
これから先、もっと辛いことがあるだろう。それは必然で、知らない誰かに決められたルートだ。
エルマーは、生き抜かなければいけない。ナナシを守って、腹の子を守らねばならない。この世は糞だと思っていたけど、それでもいいやとおもうことができた。
「えるまー、」
泣きながら笑ったナナシが綺麗だったから、エルマーはもう、全部なるようになれと思ったのだ。
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