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地震が来たかと思うほどの大きな揺れがその空間を支配する。ナナシは展開した結界の外、擂粉木状になった闘技場の地面が盛り上がるようにして巨大な目のない魔物が這い出てきたことに悲鳴を上げた。 「ひ、…!」 大慌てで飛び上がった事で巻き込まれることは避けられたのだが、客席を足場にしたエルマーが慌ててナナシの無事を確認するように見上げた瞬間、その隙を狙うかのようにして突然、ビシリとエルマーが動かなくなったのだ。 「なんで…っ!」 動こうとしている。しかし、動けないのだ。ナナシが頭上を見上げると、その顔のない魔物の頭の上に見慣れない人物が座って居た。 ギンイロが結界を抜けて走りだす。ナナシの指示を待たずに一気にエルマーの元に飛び出したことで、漸く周りもエルマーの異変に気がついたらしい。 「エルマー!!なにをして、」 「しらね、っ…んだこれ…!!」 サジが血相をかえて飛び出す。襲いかかろうとした魔物の体を大量の蔦で足止めをすると、間一髪飲み込まれるのを阻止した。飛び出したギンイロがエルマーを咥える。硬直したままのその身をナナシの元まで運ぶと、結界を解いたナナシが慌てて駆け寄った。 「エルマー!」 「わり、っ…くそ、まじでわからん…!」 どさりと崩れたエルマーは、まるで後ろ手に縛られたような形になる。ナナシは慌ててレイガンを見ると、大きな声で叫んだ。 「うえ!!うえに、へんなのいるよう!!」 「っあ、いつか!!」 レイガンがナナシの声を聞き届けた。顔のない魔物は、綺麗に並んだ歯をガチガチとせわしなく鳴らしながら、そのワームのような身をうねらせる。レイガンの紫の瞳は、たしかにエルマーが魔力の糸で縛られている姿が写っていた。その糸の先には、酷く痩せぎすの男がブツブツとなにかを呟いている。 「ナナシ!魔力の糸で繋がっている!エルマーの体を結界で包め!」 「うん、!」 レイガンは巨大化したニアに飛び乗ると、そのまま飛び上がり長剣を構える。ニアはまるで絞め上げるようにその体を絡ませると、白い肢体をぎりりと引き絞る。ごぱりと魔物の口から唾液が吹き出す。まるでその締め付けから逃げるように身をのたうち回らせると、痩せぎすの男は振り落とされぬようにと慌ててしがみついた。 「頭上ががら空きだぞ。」 レイガンが真っ直ぐに相手にむけて剣を振り下ろした瞬間、男の落ち窪んだ瞳が歪に歪む。 ふ、と気配が変わった。それとともに客席の方で小さな悲鳴があがる。赤い飛沫と共にレイガンの長剣が男の肩を貫いた筈だった。 「っあ…?」 「な、っ…」 ぴしゃりと散った血飛沫がレイガンの頬を濡らす。その白い刀身が深く貫いていたのは、先程までナナシの元にいたはずのエルマーの腹だった。 ごぽりと口から血を吹き出した見慣れた赤毛に、レイガンの目が見開かれる。 「エルマー!!!」 レイガンの全身を覆ったのは怖気だ。エルマーは訳がわからないまま、燃える様な腹の痛みに一気に油汗を吹き出した。そして呆然としたレイガンの耳が捉えたか細い悲鳴は聞き覚えがあり、まるで引き寄せられるかのようにして振り向いた。 レイガンの見つめたもの、それは痩せぎすの男が抱えあげるようにしてナナシの首に凶刃を当てている姿だった。 「ふは、こんなにうまくいくとは思わなかった…。悪いがこいつは連れて行くぞ、仲間の刃で死にもがけエルマー。」 「っ、…ざけ、んな…!」 エルマーが荒い呼吸を繰り返しながら、血走った目で男を睨む。がしりと掴んだレイガンの長剣を、静止を待たずに一気に引き抜くと、フッと眼の前から姿を消した。 「そんな、傷で!」 慌てたのはレイガンの方だ。飛び上がったアロンダートが男のもとに行くよりも早く、エルマーは腹の傷を抱えて転移をした。 突然消えたエルマーに目を見開いた男が、ぶわりと魔力の糸を一気に張り巡らせた瞬間、男の目の前に現れたエルマーの大鎌が、その眼球の目前でぴたりと静止した。 「っ…!無属性か、俺と同じだなあ。」 「え、るっ…」 大鎌を振り下ろした状態で糸に絡められたエルマーの血液が、どろりと魔力の糸に伝わり可視化する。 金眼を見開きながら、ごぽりと血を吐き出したエルマーの恐ろしいほどの怒りが、その男を捉えて離さない。 ナナシはその隙をつくように思い切り腕に噛みついた。 「う、っ…」 「馬鹿め、この俺がそれを対策してないとでも?」 犬歯をめり込ませた腕から染み出した血に、ナナシの目が見開かれた。まるで毒のような痺れにびくりと体を跳ねさせる。かふりと空気を吐き出すような咳をしたナナシが、そのままぐったりと意識を手放すのを目の前でみたエルマーが、ぐっ、と体に力を入れた。絡んだ細い魔力の糸がキリキリと音をたてる。ブツ、と鈍い音を立てながら腕を伸ばすエルマーを嘲笑うかのように、男は言った。 「安心しろ、殺しはしない。まだな。早く来いエルマー、ジルガスタントで待っている。」 エルマーがひくりと眉を跳ねさせる。瞬間飛び出したギンイロが大きな口を開けて男に飛びかかった。 パチンと指を弾いたと同時に、ギンイロの脇腹がブチンと弾ける。 「ギンイロ!!」 「言ったろう、俺も無属性だと。」 レイガンが駆け出す。サジの伸ばした蔓が真っ直ぐに男の元に向かったが、触れるまもなく瞬きの間に姿を消す。男がナナシごと転移をしたのである。 まるでそれがきっかけだったように、魔力の糸がスッと消えると、エルマーは自身の血溜まりの上にドサリと落ちた。 「くそ、怪我が酷い…!サジ、治癒をしてくれ!」 「ギン、イロだ…。」 「は…?」 大慌てで駆け寄ったレイガンの言葉をエルマーが遮る。金眼は見開かれたまま、まるで大怪我など感じさせないような素振りでエルマーが言った。 そんなことはどうでもいい。まるでそういうように鋭い瞳はレイガンを穿く。 「先に…、ギンイロを治癒しろ…っ、…あいつがいなきゃ、ナナシを、…追えね、え…」 「だが、っ…」 「俺は、てめえに言ってんじゃね、えんだ…っ、サジ、ギンイロを、先に治癒しろ。…すぐにだ、っ…」 「はいはい、」 血溜まりの上、エルマーの闘志はそれでも変わらなかった。研ぎ澄まされた殺意はナナシの結界に守られていた者たちに発言を許さず、レイガンはその冷えた声色にごくりと喉を鳴らすと、慌ててエルマーのインペントリを漁る。 なぜあんなことが起きたのかわからない。確かにレイガンの剣はあの男を捉えていたはずだった。 まるでスイッチするかのように既のところで入れ替わったエルマーと同じ、転移を使ったということまではわかる。 レイガンは故意では無いとはいえ、自分の剣が仲間を穿いたということに指先が震えていた。 身の内を支配するのは、また行ったらと言う恐怖だ。 エルマーのインべントリから上級ポーションを取り出すと、エルマーの元に駆け寄る。 「これを、っ…」 「アロンダート、わりいけど…俺のこと押さえつけといてくれ。」 エルマーはレイガンの手のそれを見ると、バサリと羽ばたきと共に現れたアロンダートにそう言う。レイガンが戸惑ったような目で見る中、アロンダートは意味を理解したらしい。サジが信じられないという目でエルマーを見るのを無視をする。もう、口を開く余裕も無くなってきたのだ。 エルマーを仰向けにさせると、アロンダートが巻いていた布をエルマーの口に噛ませた。 腕が突然4本になった事にざわめきが起きたが、アロンダートはそれを気にせずにエルマーに覆いかぶさるようにして押さえつけた。 「いいか、エルマーが暴れてもけして止めるな。サジ、エルマーの足を拘束しろ。」 「おう、…死ぬなよエルマー」 口に入れた布を噛み締めたエルマーが、体の力を抜く。浅い呼吸を繰り返しながらふわりと身体強化の術を腹の傷に集中させる。細胞を活性化させたのだ。そこにきて漸く、レイガンは思い至った。 無理やり短期間で傷を治癒させようというのだ。恐らく、腹を貫かれる以上の痛みが襲うだろう。サジが表した蔦でキツくエルマーの下肢を固定すると、レイガンを見つめて小さくうなずいた。 「っ、…いくからな、」 「ん、」 こくりと頷いたと同時に、エルマーが拳を握りしめる。穿たれた腹の穴に直接ポーションをかけた瞬間、ぶわりと血生臭さい匂いと同時に修復に伴う湯気が、ポーションが内側の肉に染み込むごとに吹き上げる。レイガンの目の前で、ボコボコとエルマーの内側の肉が形成されていくのがわかる。腹筋に力を入れているのだろう、赤黒い血液がぶくりと泡立つようにして腹から溢れる。腹に走る筋肉の硬直に合わせて血流を送り込む血管が、ビキリと浮き立つ。アロンダートが小さく声を漏らす、のたうち回るような痛みを堪えるエルマーを、押さえつける力を強めた証だった。 「ーーーー、っ、ぐ」 エルマーの体が赤らむ。首の筋を見せつけながら、痛みに顔を染め上げたエルマーが汗で体を濡らしながらまつ毛を濡らすのだ。こめかみに走る血管も、握り締めた拳から滴る血液も、時折こらえきれないといった顔で見開かれる目から溢れる涙でさえ、その一つ一つが拷問じみた治癒を受けるエルマーの苦しみを如実に表していた。 乱れた赤毛が、顔に張り付く。意識を飛ばしかけたエルマーを、サジが声をかけてひき戻す。意識を飛ばすと術が溶けてしまう。そうなるとこの治癒は途中で止まり、治りかけのまま向かうことになるからだ。 「エルマー、気をしっかりもて。僕が押さえているから、どれだけ暴れても構わない。」 「う、おえ"…っンん、ン"…あ、あああっ…!!!」 耐えきれず布地を離したエルマーが、げほりと吐瀉する。ぐちぐちと足りない部分を補うかのように音を立てながら修復していた傷口は、生温い湯気とともに生なましい光景を見せつける。ひゅ、と肺が大きく膨らみ喉が鳴る。真皮が形成されるころには、漸く身じろぎなく呼吸が整ってきたが、その脂汗で地面が湿るほど過酷な時間であった。 握り締めた手の指先が赤く染まる。サジがゆっくりと手のひらを寛げるようにして広げたエルマーの手のひらは、指が折れていた。 これを、ナナシが見ていなくてよかった。体温は酷く熱い。修復を終えたエルマーが気絶をしたのを見ると、アロンダートは小さく呟いた。 「エルマーなら、どうするかはわかっているだろう。」 ズシンと地響きの音がする。ニアが絞め殺した魔物が土に帰る音であった。 レイガンは全身を苛む動揺と、仲間を穿いた肉の感触を思い出すかのように震える手を握りしめる。 サジが心配そうな顔でこちらを見たが、レイガンの無理やり引き寄せられた後悔は、確かにその自信を壊すには十分だった。 「行くぞ、もはやここには用はない。悠長にかまえていたらエルマーにどやされる、」 「レイガン、恐らくエルマーにまとわせた己の魔力を使って、場所の入れ替えをしたのだ。お前のせいではない。いいか、サジが慰めるのは一度きりだ。お前は早く立ち直れ。後悔をするなら、エルマーの刃となれ。」 サジによって支えられながら、転化したアロンダートの背にエルマーを乗せる。背中に達するほどの傷口をみて、レイガンの瞳が揺れた。 もはや誰も、何も言わなかった。守られる側の観客も、凄惨な光景を目の前で見ていたのだ。誰も、文句を言う資格を持つものなどいなかった。 人混みからふらふらと出てきたのはユミルだ。 真っ青な顔をするレイガンの手に縋るように手を握りしめる。 「あんたが、…剣を抜くことをびびってたら…っ、それこそ敵の、思うつぼなんじゃないの…」 「ユミル、」 「僕達は、ただ見てるだけしかできなかった。それでも、レイガンが悪くないって事だけは…わかってる。」 握られた手のひらが熱い。ユミルの薄緑の瞳が、涙を溜めてレイガンを見上げる。 「後悔なんて、してる暇ないのはわかってんだろ!…なんも、できなかった僕たちが…っ、一番、あんたらの邪魔してた…っ、」 「ユミル…、すまん、」 「うるさい、さっさといけ!!そんで、っ…ナナシつれてかえってきてよ…っ…」 言葉が、涙声混じりに尻すぼみになる。 面白半分で居残ってしまった者たちを守るために、エルマーは大怪我をし、ナナシは拐かされた。ここにいる観客達は目の前で起こってしまった出来事に、誰もが他人事ではいられなくなっていた。 自分たちは何も出来ない。守られる側の後悔をその身に刻んだからこそ、出た言葉だった。 「レイガン行くぞ。ナナシを助けねば。」 握り返したユミルの手を見つめた。小さい手だ。 レイガンは小さく頷くと、無骨な指でその濡れた眦を拭う。 「行ってくる、」 後悔をするのは、あとでできる。ユミルの言う通り、この恐怖は敵の思う壺かもしれない。ならば全て終わらせたあとにとことん落ちてやればいい。 計算高いあの男の筋書き通りに動いてやれるほど、レイガンは素直ではないのだから。

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