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その日、シュマギナールに新たな歴史の1ページが加わった。 苛烈な暴君、グレイシスに寄って葬られたダラス祭司の無念を晴らすべく、執り行われた公開処刑。グレイシスが新たな王としての一歩を踏み出した城を背負う広場で、憎悪を目に宿した守るべき民たちによって、絞首台に立たされていた。 4日、4日だ。 罪人を収用しておく為の地下牢で、グレイシスは人としての尊厳を奪われるかのような扱いを受けていた。与えられる食事も、毒が入っていることを恐れて何も口にしなかった。細い体は窶れ、布生地を遊ばせながらずっと暴行に耐えてきた。 必ずジルバがことをなして帰ってくると信じていた。彼が置いていった子蜘蛛が数匹、かさりと動いて見守っている。時折口元に運ばれたのは菓子のかけらで、これも人目を忍んで運んできてくれたものだった。僅かなそれを舐めるようにして口にする。 体に毒蜘蛛のような大きさのそれが集る姿を見て、兵は気持ちが悪いと笑っていたが。 余程俺は嫌われていたらしい。寄り添ってくれるジルバの子蜘蛛が、その小さき身で暖を取るようにして侍る優しさに何度となく救われた。 グレイシスは文句を言わなかった。ただ強く精神を保ち、信じ、先を見据えて耐えた。 そして執り行われた公開処刑の当日の日。 大衆に晒されるようにして痩せ細り、汚れたグレイシスの姿を見た人々は、巨悪が屠られることの佳き日に感謝した。 馬鹿げている。こんな事をしても何も変わらないというのに。グレイシスは目に剣呑な輝きを宿しながら、醜く叫んでいる群衆をみた。 笑えるくらいに見事な手のひら返しだ。王として祀り上げておいて、上辺だけで物事を推し量る。自分の心の収まりが良いところに身を寄せて、これが正義だと信じて叫ぶ。 あいつは、こんな醜い人間の一面までも愛したのか。 ジルバから聞いた御使いの話。まさかあの子供がそんな役割を担っていたとは俄には信じづらい。 だとしたら剣を向けたことのあるグレイシスは、天罰が下ってもおかしくはないだろう。 もしかしたらこれがそうなのか。そう、考えをよぎってしまうくらいには、グレイシスの心は罅が入りはじめていた。 処刑人によって首に縄を通された時、グレイシスは真っ直ぐに群衆を見つめた。 「俺は、貴様らに殺されるのではない。それだけは覚えておけ。」 ニヤリと笑う、死を前にして堂々としているグレイシスの風格に、戸惑いの瞳を揺らすものもいた。 俺は、俺が殺されるのは、この腐ったイデオロギーだ。処刑は処刑であって殺しではない。同じ人の生が終えるのを前にして、平気でいられるのは自分の手を汚さないからだ。 グレイシスの両手は汚れている。しかし、この汚れがなければ国は前を向かなかったとも思っている。たとえこの手の汚れを取り沙汰され、それを理由に殺されようとも、この国の礎はグレイシスだ。 目を瞑る。そっと、まるで口付けをするかのように上を向いた。来るべき時を待つように。 涙なんて出なかった。どうせろくな死に方はしないだろうとは思っていたからだ。だけど、もし死ぬ前の願いが一つ叶うのなら。 あの嫌味なモノクルの男の手で終わりを迎えたかった。 空の光が、まるで看取る様に優しく降り注ぐ。最後に目にする空が美しいのが救いだった。 「まだですよ。」 「あ、?」 グレイシスの背後で、空気を震わす懐かしい声が降ってきたかと思うと、微かな浮遊感とともに足場が消えた。吊られたのではない、吊り上げられたのだ。 慌てて振り向く。腹に回された褐色の腕。ジルバのものでは無い。グレイシスは空に浮かびながら、驚愕の色に表情を染めた大衆を見下ろす。何だ、一体何が起きたのだ。 わけのわからないグレイシスに追い打ちをかける、畏怖を覚えるような声色が音を発した。 「なぜお前たちは本質を見ない。上辺だけをこそげるようにして掻き集めた情報を、あたかも真のように風潮する。お前らはなんだ。神にでもなったつもりか。」 見知らぬ声だった。はっとした顔で見回した周辺は、先程の美しき青空からはかけ離れ、夜でもないのに空が暗い。頬を撫でるような長い黒髪につられてそっと後ろを振り返る。 「あ、アロンダート…?」 「ご無沙汰致しております、兄上。」 「なん、…生きて…?」 「質問は後程、今はなりませぬ。」 バサリと羽を羽ばたかせながらアロンダートはしっかりとグレイシスの体を抱きしめる。細くなった体に痛む様な顔を見せる弟は、やはりいつみても美しかった。 ふわりとした薫る風に誘われるかのようにして、グレイシスが目を向ける。先程の威厳のある聞き慣れない声色の主を確認するかのようにむけられた視線の先には、ナナシと同じ色を持つ月桂樹の冠を飾った白銀の美丈夫が浮いていた。 威厳のある体躯は城の如く。皆一様に現れた神聖な存在に、口を開いたま呆けていた。 誰かが叫んだ、シュマギナールの主神は男神だったのかと。慌てて傅く国民に渋顔をしたその神は、ちがうとただ一言否定した。 「我は世界樹の化身、ユルグガング·セフィラストス。よもや貴様らの崇める神を違えるとは余程信仰心が薄いのだな。恥を知れ。」 「な、ナナシは…」 「人の子。貴様はわかっているようだな。かの方は貴様を助けに来た。きちんと傅き、崇め讃えよ。」 「なんだと…」 セフィラストスの不遜な態度に絶句をしていると、その神の背後から深淵を吐き出すようにして黒の帯が道を作るようにして現れる。運ばれた青い被膜に包まれたなにかがセフィラストスの横にふわりと浮かんだ。 「愚民共。貴様らの大切はこれに相違ないか。」 パリンという音と共に、ダラスがセフィラストスの手のひらに崩れ落ちる。口々にダラスの無事を喜ぶ声が叫ばれる。なんであいつがここにいる。グレイシスの疑問には答えぬまま、ダラスは蹌踉めくようにして立ち上がった。 「…お前たち、」 その表情は何も変わらない。ただ前を見据えながら、そして一言、グレイシスは何も関係がないとだけ語る。 その一言に、すべての意味を理解した。ダラスはやはり、謀りを企てるだけの明晰な頭脳をもっていた。 グレイシス自身がこの事を話せば、先の治世は安泰とはいかぬだろう。しかし、ダラスが独白のように語れば、その責任の所在はグレイシスのものではなくなる。 ダラスの最後の尻拭いだ。実体を保てなくなった弟の魂を抱きながら、ゆっくりと国民を見据える。 ダラスのその身は、酷くボロボロだった。しかしその目は凪いでおり、まるで憑き物が落ちたかのようにしてその場に存在する。 「この国は、最初から間違っている。」 ダラスは口を開いた。 「俺は、この世のあり方を変えたかった。戦をなくし、理不尽な暴力によって人が悼むのを見たくはなかったのだ。しかし、やり方を間違えた。」 俺、といったダラスは、静かにセフィラストスの手によって広場に降ろされた。細い体に、血の陣を纏い、そして束ねていた髪は降ろされていた。 いつも身なりをきちんとしていた彼が、まるで粗野な若者のような言葉で話す。 国民は、戸惑いの色を浮かべながら、ただ黙って己の信仰の対象を見つめた。 「結局、俺は弟を殺したし、そして振りかざした正義の鋒で己をも突き刺した。」 ふわりとダラスの指先に止まった青白い光。まるで寄り添うかのようにしてそっと侍っている。 「人は間違える。しかし人としての道を誤ってはいけない。俺はこの体で抱えきれぬ罪を背負ってしまった。この、弟の体で。」 国民は、何を言っているのかはわからないといった顔でダラスを見つめた。この清廉な人が、そんなことをするはずがない。純粋な盲信こそが、ダラスが広め続けていった一つの宗教であった。 「無知は罪だ。それは今も昔も変わらん。お前らが今眼の前にしているこの俺は、本当はこの場には存在してはならぬ死者だ。己の王を見誤るな。この国を建て直そうとした若き炎は消してはならん。一度消えた灯火は、次灯るときは違うものだ。…グレイシス国王。」 淡々と語り続けていたダラスは、ゆっくりと空の上のグレイシスに向き直った。 その瞳にはもう淀みはなく、その手の平にそっとルキーノの魂を守るように乗せながら、ゆっくりと微笑んだ。 「すまなかった。」 「ぬかせ、あまりそうも思っていないだろう。」 くつりとグレイシスが笑う。この男は強かだったが、頭は悪くない。この国を大きく揺るがした存在が、死を前にして穏やかに笑うものだから、グレイシスはとんだ戯曲に巻き込まれたものだと思ったのだ。 「しかし、俺は貴様のことが嫌いではなかった。」 「そうかい、なら生まれ変わったらあんたの元へ支仕えよう。今度は祭司にはならんがな。」 「そうしてくれ、俺の国の為にもな。」 ダラスは小さく吹き出した。そして、まるで時間だと急かされるようにして頭上に現れた冥府への扉を見上げると、どよめく大衆に向かって言った。 「この日を忘れるな!」 扉が大きな音を立てて開く。マダム·ヘレナの元に傅く冥府の執行官である黒き羽を持つ異形の者たちが、まるでダラスの体を掬い上げるかのようにそっと纏わりつく。人々はまるで宗教画のような目の前の光景に息を呑み、恐れ、そして強い衝撃をその記憶に刻みつける。 これが、こんなものが、本当にいま目の前でおこっているのか。 まるで手の中の小さな灯りを縁にするように抱きしめ、抵抗をせずに扉のうちへと引き込まれていったその様子は、扉が消え、不可思議な闇が空から消えた後も余韻は消えぬままだった。 「このあとの世直しは、なおさら骨が折れそうだな。」 グレイシスは弟の腕に抱えられたままいうと、小さく笑った。 「なに、兄上なら間違いなく行えるでしょう。」 「アロンダート、あいつはどうした。」 「ああ、それなら…」 アロンダートの黒髪が風に靡く。仕事を終えたであろうジルバが、ゆっくりと広場の人混みを割りながら歩みよる姿を認めると、そっとその元にグレイシスを降ろした。 「エルマーたちならここにはいない。大方面倒くさいとか言って、どこかで一服しているだろうよ。」  「ジルバ…」 「間に合ってよかった。流石に、俺も多少は焦ったらしい。」 ジルバに引き寄せられるまま抱きしめられる。国民の目の前でのやりとりに、グレイシスから文句の一つでも降ってくるかと構えていたのだが、細腕がそっと背に回った。 「…あのとき、お前に殺されたいとおもってしまった。まあ、それも当分お預けだがな。」 「グレイシス…、」 「いい加減、しゃきっとしろ。俺は無事だ。お前にはこれから、もっと働いてもらわねばならぬ。」 グレイシスの細い腕が突き放すようにしてジルバの体を離した。その体温を名残惜しく思うまもなく、ぱしりと手を取られると、引っ張られるようにして城に向かう。 グレイシスから手を握られたのが初めてだったらしい、呆気にとられたジルバの目の先に、耳まで顔を赤く染めた後ろ姿が目に入った。 広場がどよめきに包まれる音を聞きながら、エルマーはベンチにナナシたちと腰掛けながらくありと欠伸をしていた。 サジはむすくれたまま、グレイシスを抱き上げ空に浮いているアロンダートを見上げていたのだが、ようやくダラスが冥府へと還っていく姿を見届けると、ため息とともにどかりとベンチに座る。 「貸しているだけだからな。あれは浮気ではないぞ、ジルバが対空できないせいでアロンダートがあんなことをする羽目に。」 ぷんぷんと怒っているサジの横のレイガンは、ボロボロの体で疲れたようにポーションをちびちびと飲んでいる。 「エルマー、おまえは広場に行かなくてよかったのか。一応立役者のひとりだろう。あの感じじゃあグレイシスが全部行ったようになってしまうが。」 視線が横に向く。隙間を開けて横並びのベンチに、見慣れた赤毛がだらしなく腰掛ける。 「いーんだよ。俺ぁ面倒くせえことにはもう巻き込まれるつもりは微塵もねえんだ。あとはアイツラに任せておけ。」 「える、ナナシつかれちゃったよう…ねむたい…」 目をコシコシしながらうとうとしているナナシの肩を抱き寄せもたれ掛からせる。ワシワシと頭を撫でたエルマーは、小さく笑う。 ギンイロは大きな口を開くようにしてあくびをすると、よほど疲れているらしい。ぺしょぺしょと広場の噴水の水を舌で掬うようにして喉を潤していた。 「これからどうする。もう、あとは何もやることはないぞ。」 ぐびり、と喉を鳴らして空のポーションをインベントリに仕舞う。レイガンは伸びをするようにストレッチをすると、そんなことを言った。 「ウエディングドレス、どんなんがいいかなあ。」 「うん?」 「俺ぁ、やっぱカストールの大聖堂であげんのがいいかなぁって思ってんだけどよ。」 「エルマー、まさか…お前が焦って戦ってた理由が早く式を上げたいからとかじゃないだろうな…」 サジが呆れたような目線を投げかける。エルマーはぷうぷうと寝息を立て始めた愛しい体温を真横に感じながら、何を今更と片眉を釣り上げる。 「腹でっぱるまえにやることやっときてえだろう。あと、ナナシ取られんのやだったしな。てめえだってさっさと帰りてえくせに。」 「ぐ…」 図星を突かれたレイガンが黙りこくる。サジがなんだそれ!!と大きな声で言うと、身を投げ出すようにして広場に倒れ込む。 「結局サジは振り回せれただけである!!サジだってアロンダートと結婚したい!!」 「結婚したら城づとめだろうなあ。」 「だろうな、恐らくジルバの手で城の人員は信頼を置けるもの以外変えられるだろう。アロンダートが復帰するのは目に見えている。」 「死人に口なしじゃねえのか。」 「死人が仕切ってた国だぞ。ありえない話じゃない。」 「城務めも嫌だああ!!」 サジの声に引き寄せられるように羽音を立てながらアロンダートが舞い降りる。ジタバタするサジの体を慣れたように抱き上げると、くるりと振り向いて言う。 「思い思いに言っているところ悪いが、僕は城には戻らないぞ。サジとエルフの森で暮らす。」 「え。」 「セフィラストス様がお許しくださった。兄の手助けはするが、僕は外側から僕の平和を守る。番のお許しも頂けた。僕もセフィラストス様の元、サジの騎獣としてこのまま生きていくよ。」 ぽかんとしたままのサジの頬に口付けると、意味を理解したのか、サジが顔を真っ赤に染め上げた。 「それってサジと同じ寿命になることだぞ!?」 「エルマーもそうだろう。長生きしようなサジ。」 「ひえええ!!」 エルマーもレイガンも、アロンダートのことだからそうなるだろうことは予測していた。照れを通り越すと語彙がなくなるらしい。奇妙な声を張り上げるサジの反応に二人して吹き出す。 「んん、えるう…?」 「おー。」 モニュモニュと、唇を動かす寝ぼけたナナシをあやしながら、空を見上げた。 真っ青な空がきもちがいい。エルマーとナナシはこれからも長い時を刻むのだ。悠久の時を越えて今日のこの日が歴史になろうとも、この空だけはずっと変わらないのだろうなあと、エルマーはそんなことを思ったのであった。

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