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第9話
ぼんやりと犯され続けて数日が経った。
突然、皿の割れるような大きな音が聞こえ、意識が引き戻された瞬間ミネットの顔にビシャリと生暖かいものがかかった。また精液でも顔にかけられたかと思い目を開けると視界が赤く染まる。沁みる目を凝らして視線をあげるとトラップの頭や口から血が溢れていた。
「せ、んせ……?」
ミネットが手を伸ばすと触れたトラップの体がバタリと仰向けに倒れる。
目を擦り顔についた血を拭うと、見慣れないひとりの青年がそこにいた。黒い髪をうしろに撫でつけオールバックにした、まだ少し幼さを残した青年。その青年はミネットを見ると微笑んだ。
「お兄ちゃん、助けに来たよ」
お兄ちゃん。ミネットをそう呼ぶのはこの世にただひとり。ジュンだけだ。その響きはミネットの心を揺さぶる。
しかし記憶のジュンはまだ幼い子どもだった。今ミネットの目の前にいる背の高い青年は本当にジュンなのかわからない。
青年とその仲間と思われる男たちが動かなくなったトラップを大きなビニールの袋に入れ部屋の外へ引きずり出す。
青年は「あとで行きます」と男たちに伝えると、ミネットに向き直る。
今まで騒がしい部屋だとばかり思っていたが、外の喧騒が聞こえるほど静かな部屋だった。
「ジュン……本当にジュンなのか?」
名前を呼んでじっと顔を見ていると、青年の目の下にほくろがひとつ。ジュンにもたしか同じ位置にほくろがあったはずだ。
「あ、ああ……ジュン、ジュン! よかった。生きていたのか……お前、あいつに、ゴルドーに買われたって」
「うん、でも大丈夫。お兄ちゃんも……会えてよかった」
ジュンはそう言いながらミネットの体を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように眺めると、痩せた頬に手を添え顎、喉元、鎖骨を経由しふっくりと主張している乳首を指で弾く。
「ひ、ぃッ!」
その刺激にミネットは先ほどまでのトラップとの行為の余韻も相まって絶頂した。こんな惨めな姿を弟であるジュンにだけは見られたくなかった。
「ああお兄ちゃんかわいそうに。こんなに痩せて、ボロボロになって……こんなに厭らしい体になって」
喘ぐミネットの首輪からベッドに繋いでいる鎖をジュンが外すとミネットを抱き寄せる。
ミネットについているトラップの血がジュンのダークスーツにじわじわと吸い込まれた。皮膚に触れる布擦れですらミネットに快楽を与えてくる。
「ジュン、や、ダメだ、放し……あッ!」
ジュンは眉間にシワを寄せ、ミネットを抱えてベッドの上に座らせるとミネットから少し距離を置く。
「お兄ちゃん、酷い目にあったね。でもこれからは大丈夫。僕が一生大切に……閉じ込めておきますから」
ミネットは耳を疑った。今ジュンはなんと言ったか。顔をあげるとジュンはベッドに座るミネットに目線を合わせるようにしゃがむとにこりと微笑んていた。
「お兄ちゃんはもう僕を愛してくれるだけでいいんだ」
「な、んで?」
「それが今、お兄ちゃんにできることだから」
ジュンは薄い唇をニィと上げて笑って続けた。
「お兄ちゃん、生きるためには自分の持っているものを売るんですよね。お兄ちゃんはもう僕のものです。だからお兄ちゃんは僕を愛することが仕事なんです」
「俺の、仕事……?」
「そんな顔をしないで。あのごみ捨て場でお兄ちゃんに助けてもらったあの日から……僕はお兄ちゃんをずっと愛していました。お兄ちゃんも、いつも愛してるって、寝ている僕に言ってくれたじゃないですか」
確かにミネットはジュンのことが好きだった。兄と弟という関係以上の想いを抱いていた。それでも兄として接していたし、ジュンだってミネットを兄として慕ってくれていたはずだ。
「不自由をさせるかもしれません。でも……前のように、僕を愛してください」
ジュンはミネットの顔にべったりとついたトラップの血をハンカチで拭うと、その唇に口づけした。深く、深く。
「ジュン……」
糸で繋がった唇から熱い吐息がぶつかり、ぷつりと糸が途切れる。
白いジュンの指がミネットの褐色の肌を這う。
「お兄ちゃんは僕のものだ」
ミネットの肩にジュンが自分の羽織っていたスーツをかけると、その体を抱えて部屋の外へ向かった。
そのまま車に乗せられ向かった先は、きれいなアパート前だった。車が止まるとまたジュンがミネットを抱きかかえてアパートのエントランスを進んでいく。
最上階の一番奥の部屋の前につくと鍵を開けて黄ばみひとつない真っ白な壁紙の真新しい部屋の中をさらに進む。
「ここがお兄ちゃんの部屋だよ」
そう言って一番奥の部屋小さな部屋の中に入るとジュンはミネットを床に下ろした。
窓は細いはめ殺しのものがひとつ。そして狭い中に生活に必要なものが凝縮されたような部屋だった。
「狭くてごめんね。でもお兄ちゃんの姿も声も、もう誰にも見せたくないから」
たばこの煙とヤニに包まれた部屋とは違い、清潔な部屋だった。それでもここで終わらない夜を迎えなければならないむなしさは纏わりつく。しかも朝の象徴だと今まで感じていたジュンによって夜を与えられるのだと思うとより憂鬱に感じる。
「お前も俺の夜になるのか?」
ジュンのことを勝手に朝の象徴とみていたのはミネットの勝手だ。同じくミネットに対して恋愛感情を抱いていたのもジュンの勝手だ。
幼い頃から一夜の恋しか知らなかった。それでもジュンに対しては、愛という感情を抱いていたのは確かだ。
「僕はお兄ちゃんの、夜にも朝にもなりたいよ」
お兄ちゃん愛してる。ジュンはそう続けて言うとミネットのアダムの林檎にかじりつく。甘く鼓膜に響く愛の言葉と尖った犬歯が皮膚を刺すわずかな刺激にミネットの体は熱く燃えた。
「……ッ、ジュン」
昂った体を堪らずジュンに押しつける。
ジュンはミネットの体を抱きかかえると檻の中で一番場所を取っているベッドに寝かせた。ミネットは期待に口の中に唾液が溢れ身悶えながら勃起したそこを媚びるようにジュンの腰へ擦りつける。
ジュンの指がいたずらにミネットの乳首を爪で弾くとその体はヒクヒクと快楽を貪るように跳ねた。
ミネットの口からは喘ぎ声が溢れる。ミネットがどんなに夜を嫌っても体が夜を求めてしまう。それに先ほどから耳に残るジュンの甘い愛の囁きが、飢えたミネットの心を満たしてしまった。
「お兄ちゃん、僕を受け入れて。愛してる……愛してるんだ」
ジュンの与える夜はやたらと激しく乱暴で、散々喘がされた。それでも一度果てると余裕が出てきたのか、甘く優しく抱いてくる。まるではちみつ漬けにされた果実のように少し噛めばどろりと消えてしまいそうな、そんな夜だった。
小さなアラーム音が鳴る。その音でミネットが目を覚ますと隣に寝ていたジュンも目が覚めていた。
ミネットはジュンの首に腕を回してキスをねだる。ジュンは優しいキスをミネットの唇に落とすと、首に回っているミネットの手をほどき、ミネットから離れていく。
「ダメだよ、お兄ちゃん。今は朝だ」
触れ合っていた肌が離れ、途端に肌寒さが身を包む。
「……ジュン行くな、行かないでくれ」
「ごめんね、お兄ちゃん。仕事があるんだ」
そう言うとジュンはミネットを抱き起こしてミネットの肩にタオルケットを掛けた。
「仕事って?」
「……ゴルドーさんがね、お兄ちゃんを助けるチャンスをくれる代わりに、僕に仕事をくれたんだよ。僕、お兄ちゃんのためならなんだってするんだ」
「お、おい、ジュン……なんの仕事をしてるんだ?」
「簡単な仕事だよ。害虫駆除、っていうのかなあ」
ほら、あの医者だって害虫だったでしょ? なんでもないことのようにジュンは続けた。
「イドリーって人、嫌いな人多いんだね。僕も大嫌いだよ。僕のお兄ちゃんに酷いことをした悪い奴だ。絶対に許さない」
トラップを撃ち殺したのはジュンだ。ミネットは見たこともないジュンの悪魔のような顔に全身に鳥肌が立つ。
「ジュン、お前……何があった?」
ミネットの知っているジュンではない。
離れている五年の間に、何かがジュンを壊して、結果ジュンは変わってしまったのだろう。
「何もないよ。僕は僕にできることをしただけだ。お兄ちゃんだけが、僕の生きる理由になったくらいかな。僕はね、お兄ちゃんが手に入るならなんだってするんだ」
そう言ってジュンは静かに微笑むと腕時計に目をやる。
「そろそろ行かないと。ウォーターサーバーはそこ。コップはそこの使い捨てのやつを使って。紅茶にコーヒーもあるから好きなのを飲んで。夜は僕が作るから、お昼ごはんはそこに置いてるパンで我慢してね。ひとりでもちゃんと食べなきゃダメだよ?」
「ジュン、だめだ。行かないでくれ……」
「仕事なんだ。もう行かなきゃ」
いってきます。そう言ってジュンはミネットにキスをする。
「……いってらっしゃいのキスは?」
冷たい目でそう促されベッドに座り込んでいたミネットはジュンにいってらっしゃいのキスをした。その瞬間、ジュンはふわりと昔のようにはにかんだ。
「外から鍵をかけるけど、許してね。いってきます」
容赦なく出ていくジュンをミネットは呆然と眺める。扉が閉った部屋の中を静寂が包み込んだ。
外部からの音を遮断され、聞こえる音はミネットが身に纏うタオルケットの衣擦れの音しかしない。
昨夜ジュンに噛みつかれた喉元が酷くヒリついた。
かじって放置した林檎は腐りやすい。
腐った林檎から放たれるアルコール臭に似たにおいを思い出しながら、ジュンに柔く噛みつかれた喉元と甘い囁きを受けたその体をひとり抱き締め、ミネットは目を閉じると静かにジュンの帰りを待った。
了
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