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小休止:記者と刑事と手△
「ウィルクスさんじゃないですか」
明るい口調で突然声を掛けられて、おれは驚いて振り返った。高級デパート、ハロッズのケーキ屋で、日曜日の午後五時過ぎに声を掛けてきた相手。
それはフランスから来た新聞記者のジャン・ベルジュラックだった。
きらきらした黒い目でおれを見つめ、扉から中に入った場所に立っている。まずいやつに会った、と正直思った。
シドがいてくれたらな、と思いはするが、すぐに「いやいなくてよかった」と思った。シドはベルジュラックのことを気にするだろうし……嫌な思いをさせたくない。
小綺麗な制服を着た若い女性店員が大きな目でこちらを見ている。
「こんにちは、ウィルクスさん。ケーキを買いに?」
ベルジュラックがそばに寄ってくる。おれより背が低いのに、なんだか存在感がある。そのすべてが、強烈なパワーを発していた。おれは振り返り、会釈した。
「ケーキを買いにきました。ベルジュラックさんも、ですよね?」
ほかにケーキ屋に来る用事なんてないよな、と思ったら、ベルジュラックはかすかに笑った。
「ええ。前にここのケーキ屋を取材させてもらったことがあって。チーフのパティシエが、以前フランスの警察で働いていた警察官なんですよ。それ以来、ロンドンに来たらちょくちょく寄ってます」
そう言って、おれの隣に来てガラスケースの中を覗きこむ。ベルジュラックが近くにいるだけで、胃が重たくなるのを感じた。彼はそれをわかっているのか、わかっていて気にしないのか……にこにこしておれに話しかけてくる。
「このヘーゼルナッツのケーキ、すごく美味しいんですよ。イギリスの菓子コンクールで一等をとったとか。それに、このピスタチオのケーキ。ハイドさんもお好きでしょう?」
急に夫の話が出て、どきっとする。たしかに、シドは目の前にあるピスタチオのケーキが大好物だ。彼はピスタチオが好きで、ここのケーキは濃厚なピスタチオの味がしてでもさわやかで、美味しいらしい。
「……なんで知ってるんですか?」
ベルジュラックに尋ねると、彼はにこっと笑った。
「前、ぼくに話してくれましたよ。初めてお会いして、パブで飲んだとき。あなたは酔っていて、忘れているみたいですが」
それは思い出したくない過去だった。ベルジュラックとパブで知り合い、おれは飲みすぎて……。あの一夜にベルジュラックと出会って、シドのことをべらべらしゃべったうえ記憶をなくしたせいで、事態は悪いほう悪いほうに転がっていった。そのことを思いだし、今でも悔やんでいる。自分の運の悪さとか、浅はかさとか。シドには自分を責める必要はないよって言ってもらうけど……。
そこまで思い出し、おれはさらに胃に胸苦しい重さを感じた。顔が自然に暗くなる。ベルジュラックは黙っておれの顔を見ていた。そして、「あの夜は、いい夜でしたよ」と言った。
それからおれの目を見つめて微笑んだ。
「ウィルクスさん、たしかここのプリン、好きでしたよね?」
「あ……。そ、んなことまで知ってるんですか?」
「ええ。ここ、イートインできるんですよ。せっかく会ったし、ちょっと食べていきませんか? 御馳走しますよ」
「えっ……」
おれは怖い顔をつくろうとした。被疑者を尋問するときや、街でけんかを止めるときにするような鋭い目を意識して、ベルジュラックをちらりと見る。みんなたいていは、これでびびるはず。
「そんな時間はありません。ケーキを買って帰らないと。シドも待ってるんです」
冷たい口調で、あえて夫の名前を出すと、ベルジュラックはからっと言った。
「まあまあ。いいじゃないですか。ハイドさんには、ぼくから連絡しておきますよ」
そう言ってスマートフォンを上着のポケットから取り出そうとしたベルジュラックに、おれは慌てた。シドによけいな心配をかけてしまう。それに……なにもないのに、なんだか後ろめたさを感じた。
「……わかりました。じゃあ、ちょっとだけですよ」
思わずそう言ってしまうと、ベルジュラックは屈託なく笑った。
おれたちは少し奥まったところにある白いテーブルについた。テーブルの上の赤いバラがムードを醸しだしていて、気が重くなる。
プリンでいいですか? それともほかに? と尋ねるベルジュラックに、「プリンにします」と答える。これならすぐに食べられそうだ。それと、アイスコーヒー。ベルジュラックも同じものを注文した。コーヒーはホットだ。
頼んだものが来るあいだ、自分からは一言も口をきいてやるものかと思った。ベルジュラックはあの得体のしれない黒い目でおれを見つめ、ふいに言った。
「手相占い、って知ってます?」
「……ええ。してもらったことはありませんが」
「最近、手相の勉強をしようかなと思ってましてね。見ていいですか?」
そう言って、返事も待たずおれの左手をそっとつかんだ。
ウェイトレスがプリンとコーヒーを持ってくる。テーブルに置くとき、手を握り握られているおれたちのほうを見て、ちょっと変な間が流れた。
ウェイトレスが行ってしまうと、ベルジュラックはおれの手をそっと左手でつかみ、右手の人差し指で手のひらをなぞりはじめた。
ぞくっとする。
指が手のひらや指先に触れ、むず痒さを覚えると同時に、なぜか体がぞくぞくした。肉体の芯が硬くなっていく感覚。
これ、まずい……!
突然とても怖くなり、全身に力を入れて体を丸める。でも、ベルジュラックの指先に手のひらや手の甲をなぞられたり、指と指のあいだを軽くつままれると、体が震えてしまうベルジュラックの舐めるような目つきにも、おれは興奮した。
そっと包まれて、撫であげられる。そのたびぞくぞくして、下品だけどチンコが硬くなっていくのを感じた。
性器に触られているわけでもないのに、なんで……!?
ショックで怖くて、パニックになりそうだった。ベルジュラックに目の中を覗きこまれ、手を煽るように触られるたび、チンコの裏側と玉にぞくぞくっとした甘い痺れが走る。
きもちいい。
おれはいつのまにか興奮して、下着を持ち上げ、濡らしていた。でも、射精までには至っていない。
ぼーっとしていた。興奮が募って、股間がいきり勃っていて、このまま出したいと思った。ケーキを前にして、健全な店の中なのに……。すり、とベルジュラックの手がおれの手に触れるたび、股間がむずむずして、たまらない。
内腿が震える。出したいんだろ、と耳の後ろで誰かがささやく声が聞こえた。それに合わせて、チンコが痙攣をはじめる。
もう少しで……!
でも、ベルジュラックはふいに手を離した。おれの目を見つめて、「いい手相ですね」と言った。
「求めれば、必ずそこに幸せがあります。それを忘れないように」
そう言って微笑み、コーヒーに口をつけた。
おれはばかみたいに口を半開きにして、はくはく喘いでいた。頭の中が真っ白になって、触られていたほうの手がぶるぶる震えている。そのとき目に、薬指にはめた結婚指輪が飛び込んできた。
おれ、夫がいるのに、この男の手で、手で……。
自分が許せないと思うと同時に、最後まで走り抜けてしまいたくて、おれはすがるようにベルジュラックの目を見つめていた。
「コーヒー、水っぽくなってしまいますよ」
あの悪魔は優しくそう言って、優雅にコーヒーを飲んでいる。おれのグラスの中で、氷が溶けて水の層を作っていた。
おれはうつむいた。思わず目に涙がにじんだ。
ぬるくなったコーヒーを一息に飲み、プリンをかきこんだ。味なんてわからない。ベルジュラックを置いて、逃げるように店を出た。
そのあと、おれはトイレで、自分の手でヌいた。そのときおかずにしたのは、夫ではなく、ベルジュラックだった。彼に卑猥な言葉を吐きかけられ辱められることを想像しながらチンコを扱き、やっと楽になった。
おれはずたぼろで帰宅した。
家に帰ったら、夫のシドがおれを出迎えて、「あれ?」と言った。
「ケーキ、買わなかったのか? 夕方で遅かったから、売り切れてたんだね。……どうしたんだ? 買えなかったから落ち込んでるのか?」
そう言って、心配した顔でおれの頭を撫でる。その優しさとぬくもりに、おれの目はうるんでいた。
「……シド。ケーキ屋に行ったら、ベルジュラックに会って……」
シドは驚いた顔をした。おれの頬骨を指の背で撫で、「大丈夫だったか?」と訊いた。その顔に動揺を感じて、うれしかった。
おれはうなずいて、笑顔を作った。
「大丈夫です。ただ、会っただけです。ケーキは種類がなくて、買うのをやめました」
「そうか」
シドはまだ気にしているみたいだったけど、おれがそれ以上なにも言わないので、頬骨を撫でる手を止めた。おれの目を見て、言った。
「なあ、エド」
「はい?」
「彼のこと、殺したくなるぼくは、おかしいのかな」
いつか、シドに手でヌいてもらおう。おれは気が狂ったようにそう思って、自分を慰めた。シドに手でヌいてもらわないと、自分がずっと呪われたままのような気がした。
でも、シドはベルジュラックのこと、殺したくなるって言った。
その言葉はおれにとって、光だった。
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