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探偵と刑事と暴威・二
「あなたがショックを受けていたと聞きました。ぼくのことを心配していたんでしょう?」
とんだ茶番だ。ストライカーにすべてを知られているウィルクスはそう思ったが、ラクロワは真実を知らないため、話を合わせる。
「あなたが刺されたと聞いて驚きました。ええ、少し……ショックでした。別れたときはどうもなかった人がこんな目に遭うなんて」
「あなたが気にすることじゃない。命を狙われるのは初めてじゃないんです。真実を多く知る仕事ですからね」
そうですね、とつぶやいて、ウィルクスは引き裂かれそうになりながらベルジュラックの目を見た。
「ところで、おれに伝えたいことって?」
「ああ」ベルジュラックは笑顔になる。
「ヴィクトル、悪いんだが、クローゼットからぼくのスマートフォンを取ってきてくれないか?」
ラクロワがクローゼットに向かう。戻ってくるまで、死のような沈黙が固まって病室を支配していた。
ラクロワからスマートフォンを受け取ると、ベルジュラックは礼を言い、画面を起動させてアルバムを開いた。ウィルクスを手招きする。
逃げ出しそうになりながらも、なんとか寄っていったウィルクスは、震えながら画面を見た。そこに映っているのは自分自身だった。ソファの上で、高ぶった男根をあらわに、涎れと涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪めているウィルクス。
ウィルクスの顔が真っ青になり、固まって、顔を逸らした。
ウィルクスの反応を見守っていたラクロワには、なにがなんだかわからなかった。矛盾するようだが、ラクロワはウィルクスが少し動揺しやすい人間であると思っていても、一般市民とは違うと思っている。ロンドン警視庁に勤める刑事なのだ。そんな彼に、そんなにも恐怖と嫌悪を与えるもの。そのときラクロワは一瞬、ウィルクスは自分の「なにか」を見せられたのだ、なにかとても恐ろしいものを、という気に襲われた。
しかしラクロワは理性でそれを否定した。ベルジュラックがウィルクスを脅かす、ウィルクス自身の「なにか」を持っているわけはない。そんなことはあり得ない。
ベルジュラックは写真を見せると、「ウィルクスさん、見て」と彼を呼んだ。ウィルクスの視線が写真の上に戻ってくると、ベルジュラックはそれを削除した。
ウィルクスの目の端が痙攣する。
ベルジュラックはさらに、削除した写真が移動する「ごみ箱」フォルダを開き、その写真を完全に削除した。そして言った。
「完全に削除しました。あなたもぼくも、ほかの人間も、誰も二度と目にすることはない。ぼくが言った三つの条件も取り消します。ここにいる人間全員を証人にし、もしぼくが誓いを破れば死んで償います。だからなにも心配いりませんよ、ウィルクスさん」
しばらく沈黙があった。ウィルクスに変化が現れたのは、そのしばらくの沈黙の後だった。
ウィルクスは床にしゃがみこんだ。崩れ落ちて、動かなかった。
ラクロワとストライカーが駆け寄る。ラクロワが抱き起すと、ウィルクスは細かく震えていた。目が虚ろで、シャットダウンしたコンピューターのようだった。完全に糸が切れてしまったのだ。
「ウィルクスさんは、いろいろ心配していたようだから」ベルジュラックが静かに言った。
「きっと、ほっとしたんでしょうね」
ラクロワはウィルクスの顔を覗きこんだ。魂を抜かれてしまったみたいだった。体の震えは止まらない。ウィルクスの顔を見ると、ラクロワの心にベルジュラックに対する得体の知れない怒りが沸き起こった。
「ジャン、きみは……」
ラクロワがウィルクスの体を支えたまま、なにが言いたいのか自覚しないまま焦燥に駆られて口を開いた瞬間、ストライカーが言った。
「ムッシュー・ラクロワ。ウィルクスをミスター・ハイドんとこに連れてってやってくれ。おれは話の続きを聞く」
そう言ったストライカーの声は冷え切っていた。彼はベルジュラックを睨みつけると、ウィルクスをかばうようにその前に立った。
ラクロワはどうしていいのかわからなかった。ただうなずき、力が抜けてぐにゃぐにゃしているウィルクスの体を抱えて、病室を出た。
〇
それから十分後、ラクロワとウィルクスはハイドの病室に戻ってきていた。
ハイドはウィルクスが呼びだされて、ひどく心配していた。彼が思ったより早く帰ってきて明るい顔つきになったが、しかしウィルクスの姿を見たとたん顔つきが変わった。
ウィルクスはまだ震えていて、ハイドの顔を見ても反応を示さなかった。ただ、ラクロワが夫のそばに座らせてやると、ウィルクスはハイドの顔を少し見たあと、がたがた震え、椅子の背もたれにもたれかかって崩れ落ちた。ラクロワが支え、なんとか座らせてやる。
ハイドはベッドから降りるとウィルクスの体を抱きしめた。ウィルクスは抱きしめ返さない。棒切れのように両腕を体の脇につけ、目を閉じていた。ハイドはしばらく抱きしめていた。
「ムッシュー・ラクロワ」
ハイドのその声を聞いたとき、ラクロワは総毛立った。その静かな声の内から、激しい怒りを感じた。
ラクロワを見たときのハイドの目もまた、いつもの彼の目とは違っていた。血に飢えた殺人者のように、その目には狂気の光があった。
しかし、ハイドは冷静だった。怒りに任せてラクロワを怒鳴ることはなかった。ただ、彼の存在のすべてが燃え盛るような怒りを表わしていた。
「ムッシュー・ラクロワ。わたしたちを助けてくれませんか?」
ラクロワは思わずあとずさりしそうになった。
「助ける……とは?」
尋ねると、ハイドの目が食い込んできて彼の胸を刺した。
「ムッシュー・ベルジュラックがぼくに話した、エクス・エクスの話。ベルジュラックはいちばん最初の事件の犯人は今のエクス・エクスとは別人だと考え、その犯人を自分の友人の刑事だと言った。この刑事について知りたいんです」
「調べてはいます。その刑事はもう亡くなっているんでしたね。だが、該当するような刑事は今のところ……」
「もしかしたら、警察官ではないかもしれない。あるいは、フランス人ではないか」
ハイドはウィルクスの体を抱きかかえて、睨むようにラクロワを見据え、言った。
「その男が何者かわかったら、エクス・エクスのことがわかる。そして、ムッシュー・ベルジュラックのことも」
ウィルクスは薄目を開けるとハイドの体に弱々しく腕を回した。ハイドが抱きしめる。
「ぼくたちを助けてください」
ラクロワは返事をせずハイドの顔を見つめた。
しかし、もうこのときには、ラクロワは真実を知るしかないという思いに押し流されていた。
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