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1.探偵と刑事と飢えた男・一

 この人生で求めているものは救済だ。魂を救済してくれる、そんな相手に巡り会えたら。ついでに肉欲を満たしてくれるとなおいい。そんな相手がもしいたら、それが愛でなくても恋でなくてもかまわない。そうは思わないか?  愛する男に微笑みと共にそう尋ねられて、エドワード・ウィルクスは正直に、「わかりません」と答えるほかなかった。そうか、と言ってシドニー・C・ハイドは笑っていた。  二人がつきあいはじめる前の話だ。 「いいかウィルクス、ミスター・ハイドには気をつけろ」  これもつきあいはじめる前の話。同僚のストライカー刑事がそう言って、ウィルクスは警戒する。最初は、ハイドがときどき警察に協力する私立探偵だから、そう言ったのかもしれないと考えた。民間の探偵なんぞに甘い顔をするなよ、というわけだ。  しかしウィルクスは急に怖くなった。もしや自分の恋慕が筒抜けになっているのかと思う。しかし、枯れ木のような年上のストライカー刑事も、そのときは気がついていなかった。ただ、ウィルクスがハイドにあまりにも肩入れしすぎるとは思っている。  仕事帰りに、ストライカーとパブに行ったときだった。固い樫材のテーブルに肘をつき、やや身を乗り出して、年上の刑事はロックのウィスキー片手に言った。 「ミスター・ハイドには深入りしないほうがいい。彼はたんに、顔が狼に似ているだけじゃない。中身もそうだ。狡猾で残忍だとは言わないよ。だが、油断するな。中身は見かけとは違う。飢えているんだよ」  ウィルクスはそのときのストライカーの表情を思いだす。ぎょろぎょろした目は真剣で、いびつな鼻の下で薄い唇はねじ曲がっていた。  中身は見かけとは違う。飢えているんだよ。  同僚の言葉を、ウィルクスはハイドには話さなかった。 ○  ロンドン全域の治安を守るロンドン警視庁に二十七歳で刑事として勤めるウィルクスは、ときどき捜査に協力してくれる探偵のハイドと親しくなった。二年前のことだ。シドニー・クリス・ハイドは親切な男で、いつも優しく気遣いの人、穏やかな気性で分け隔てなく相手を包みこむようだった。そのうえ彼は探偵にふさわしく聡明で、世慣れている。まだ若いウィルクスは、ハイドによく仕事の相談に行った。いつもまじめに話を聞いてくれ、細かいことを尋ねられても面倒くさがらず、若い刑事の経験不足を馬鹿にしたりなどしない。  だからウィルクスは、ハイドのことを心から敬愛している。  青年刑事の思慕はハイドの精神面だけにとどまらない。この探偵は大柄な体躯をいつも見事に、優雅に操っている。名家の生まれであるにふさわしく、上品なしぐさが身についている。ウィルクスがそれを言うと、「ぼくは末っ子なんだけどね」とハイドは笑う。 「ただ、上品に、それも自然にそうできるほうが、人からは信用されやすい」  『マイ・フェア・レディ』みたいな話だとそのときのウィルクスは思った。  ハイドは四十歳にして半ば白髪になった黒髪と、薄青い瞳の大柄で逞しい男だった。年上で逞しい男というタイプが好きなウィルクスは、ハイドの前に出るといつも頭が真っ白になってしまう。眩しすぎて顔をまともに見られず、暴れだす鼓動に振り回され、それでも刑事の意地でなんとか平静を保って見えるよう、努力してきた。  そんなふうに努力しなくてもよくなったのは、つい一年ほど前からだ。だが、ウィルクスはそれがつい最近のことのような気がしている。  ときどき、彼は唐突に思いだす。「飢えているんだよ」。  ウィルクスは、そんなことはないと思っていた。今でも思っている。ハイドは優しい性格で、仕事も順調で、金に困っているわけでも、人間関係や病気に悩んでいるわけでもない(少なくとも表面上は)。ハングリー精神を持っていたとしても、発揮するような逆境にはない。  たしかに、ハイドはひとり身だ。人恋しいという点で、それを派手に表現すれば「飢えている」と言えるかもしれない。しかし、彼はどうしても、ウィルクスの目に人恋しがっているようには見えない。ハイドが二十代の半ばごろ年下の美しい女と結婚し、すぐに離婚したことはウィルクスも知っていた。その結婚のせいで、ハイドはもう絶対に結婚はしない、誰とも恋愛はしないと公言していた。  まだ四十歳なんだから、悪い思い出は忘れて再婚しなさい。そういう話を、彼のまわりのおせっかいな人間が口にすることもある。  しかし大方の人間は、ミスター・ハイドが再婚なんて不毛だと言う。 「あの人は女嫌いを公言しているけれど、それはフェイクなのよ。実際は、どちらかというと恋愛や結婚にうんざりしただけ。面倒くさいことが多くて、自由を束縛されて、責任や義務に縛られる家庭生活が嫌なだけなのよ」  ――結婚生活ってそれ以上にすばらしい瞬間もあるけれど、でも、あの人は支払う代償が大きすぎると思っている。彼は見切りをつけて自分から棄権したのだから、ミスター・ハイドは諦めなさい。母親たちはそう言って、自分の娘をなだめるのが常だった。  そこまで考えると、ウィルクスはどうしてもストライカーが言った言葉が納得できない。飢えているだって? そもそも、なにに対してだ? ストライカーはあの人にいい印象を持っていない。ただそれだけだと思っていた。  だってまさか、ストライカーのほうがおれよりもハイドさんのことを正しく読んでいたなんて、思いたくないじゃないか。  しかし、実際はそうだった。 ○ 「待たせてすまない。なかなか資料が揃わなくて」  コーヒーショップの窓際の席で、アガサ・クリスティーの『愛国殺人』をペーパーバックで読んでいたウィルクスは顔を上げた。慌てて本を置いたせいで、半分ほど飲んだコーヒーのカップを倒しそうになる。茶色いコットン・カーディガンに黒いカットソーを着て、運転用の眼鏡をかけたハイドが彼を覗きこんでいた。ウィルクスは思わず立ちあがろうとしたが、それはおかしいと気がついて椅子に座ったままでいる。黒い鉄製で細身の、クッションもない椅子に長い時間座っていたので、尻が痛くなった。  ハイドはテーブルを挟んで向かいの椅子に腰を下ろした。眼鏡を外し、それを黒のトートバッグの中につっこんでから、大きな手でバッグの中をかきまわしはじめる。背後から近づいてきたすらりと脚の長いウェイトレスと目を合わせ、微笑んでコーヒーを注文した。ウェイトレスもシャム猫みたいな顔で微笑んだ。そのあいだ、ウィルクスは恋人のことを見ていた。ハイドは白いファイルにファイリングした資料を手にして、顔をあげる。窓の外を走る車の流れるような銀色のヘッドライトが、コーヒーショップの窓に当たって鈍く光っている。光はウィルクスの顔を横から照らし、次々と流れていった。整った、やや強面の顔を真正面から見て、ハイドは少し真剣な顔になる。 「どうしたんだ、ウィルクス君。今夜はいつもの二割増しで目が鋭いけれど。やっぱり、待ちくたびれたか?」  すまないと謝るハイドにウィルクスは慌てた。シミだらけになっている、赤いチェックのテーブルクロスに両手をきちんと載せて首を振る。 「いや、平気です。少ししか待ってませんよ。あなたに久しぶりに会ったから。……緊張して」  ウィルクスの言葉に、ハイドは快活な笑顔を見せた。刑事の顔がかすかに赤くなり、伏し目がちの瞳の向こうで表情は怒ったように険しくなる。すると、他を威圧する圧迫感が彼をとりまいた。顔立ちが整っているせいもあって凄みがある。しかしハイドは動じなかった。年下の青年の照れ屋で恥ずかしがり屋の性格を熟知していて、それを隠そうと怒った顔になることもちゃんと知っていた。  ハイドは手を伸ばして、ウィルクスの茶色い短髪をちょっと撫でた。そのときシャム猫のようなウェイトレスが音もなく歩いてきて、ハイドの前にコーヒーのカップを置いた。ちらりと彼の手が置かれた場所を見て、ウェイトレスは立ち止まらず歩き去る。ハイドはさらにもう一度ウィルクスの頭を撫でると、カップに手を伸ばした。 「仕事は忙しい?」  コーヒーを飲みながらいつものように気遣う言葉を口にする恋人に、ウィルクスは目の奥がうるみそうになる。……悪い癖だ。この人の前だと涙もろくなる。直さなければ。刑事はしゃんとして、受けとったファイルを開いた。視線を資料に落としながら首を振る。 「そこまでではありません。一つ、事件の捜査に関わっていますが、それは補佐の補佐という感じで。検死結果をまとめたり、それに関する資料を集めたり、事務処理の仕事が今はメインです。家に帰れていない刑事もいますが、おれは毎日帰っています」 「刑事の仕事は激務だな。……ちゃんと食べてる? また痩せたんじゃないか? 今夜はちゃんと食べた?」 「大丈夫です。食べました」ウィルクスは素直に笑いかけた。「おれは頑丈だから、平気ですよ」 「それに、若い」ハイドはコーヒーを飲みながら、薄青い瞳でじっとウィルクスを見つめた。「でも、むりはそう長くは続かないよ。気をつけるんだよ、エド」  ファースト・ネームで呼ばれて、ウィルクスはちょっと口元を緩めた。「大丈夫ですよ」と言って、半ば天国の雲の上を歩くような心地で資料をめくる。 「あなたも忙しいのに、協力してくださってありがとうございます。資料はだいたい最近のもの……ですか?」 「一九八〇年代の古い資料もあるが、考察は正しいと思うよ。保険金殺人の頻発と犯人の心理、足がつくきっかけなど」ハイドは手を伸ばし、ファイルを受けとりながらぶつぶつ言った。「老眼が早く来てしまってね。読んだり書いたり、運転のときに苦労してるんだ。……きみの顔はしっかり見えるからね」  ファイルの向こうからにこっと笑って言ったハイドに、ウィルクスはつられたように笑みを返す。それでも、胸の中で鼓動は激しくなる。このコーヒーショップの常連らしい、いくつものテーブルを囲んでいる老婦人たちのけたたましい話し声さえ、鼓動の高鳴りで聞こえなくなるほどだった。 「ざっと読んでくれたら、たぶんめぼしい箇所はわかると思うが」ファイルを返そうと手を伸ばして、ハイドが言う。「きみが知りたいんじゃないかというところには、付箋を貼っておいたよ。(その言葉の通り、蛍光イエローの付箋がいくつも貼られている)ちょっと珍しい資料で、ヤード(ロンドン警視庁)にも置いていないと思う。参考になるといいんだが」  そこでハイドはファイルをテーブルの上に置くと、ウィルクスのほうに手を伸ばした。  浮いた頬骨のあたりを触られて、刑事はびくっとする。ことさら肉の薄い部分で、ハイドの熱い指先がじかに骨に触れたようだった。ウィルクスは目を上げて年上の男を見る。そのときハイドはふと、この青年がやや三白眼ぎみであることに気がついた。鮮やかな白目はどことなく大理石でできた小さな卵を思わせる。睫毛が長く、一本一本がやや濃い茶色で、くっきりしていた。ハイドは手を離して瞳の中を覗きこんだ。 「疲れているのか、ウィルクス君」 「いいえ」 「ぼんやりしてる」 「緊張してるって、言ったでしょう。ほっといてください」  その言い方が反抗期の少年のようだったので、ハイドは笑った。彼は低く穏やかな声で言った。 「そうか。わかった。うち、来るか?」  鼓動が激しく高鳴り、喉の奥から心臓が出そうになった。大げさではなく、ウィルクスはそう感じて唾液を飲み下す。意地を張る性格が出て、負けたくないとハイドの目を睨み続けた。それでも、自然と口元に笑みが浮かんだ。 「……はい」  そう答えたウィルクスはすでにベッドの中にいるときの顔をしている。ハイドはそれに気がついたが、言わなかった。  小さな虫が飛んできて、ウィルクスのコーヒーカップの中に落ちた。 ○  ストランド街にあるハイドの探偵事務所兼自宅は、地下一階、地上三階建ての黒っぽい煉瓦造りの建物で、十九世紀初頭に建てられた(当時の都会らしい)家だった。事務所としても使われている居間には大きな模造大理石の暖炉があり、貼られた壁紙は色あせ、高い窓があり、全体的にこじんまりとしていて落ち着いている。おまけに、床に敷かれた絨毯も色あせたグリーンだ。 「もっとちゃんと家のことをしたほうがいい、ビジネス的にも」と親切心から、顧問弁護士や税理士や知人の老婦人(彼女は元依頼人で、今では世話になった彼を孫のように思っている)に言われることもあるが、ハイドは面倒くさいらしく、最低限のことだけして長らく放っていた。  それでも、ウィルクスには居心地がよかった。居間にはハイドが思いつきで集めたような奇抜でおかしな形の椅子が多く、それに比べて家自体、部屋自体はかなり殺風景であるとしても、ウィルクスはこの家が好きだった。家も自分のことを気にかけてくれる。彼はそう感じている。寝室に入るときはまだ恥ずかしさが抜けず、それなのに行為の最中は我を失くして乱れてしまう。それでも家は黙っていてくれる。  居間の窓際に置かれた、ロシア土産の紫がかったソファに背負っていた黒のメッセンジャー・バッグを置いて、ウィルクスはほっと息をついた。扉が開いて、浴室に姿を消していたハイドが顔を覗かせる。 「はい、タオル。シャワーしておいで」  ウィルクスはうなずいてハイドに歩みより、そうしながらグレーのパーカーのジッパーを片手で下ろす。その下は白いTシャツ、スキニータイプのジーンズで、ファッションに興味のない彼はだいたいいつもそんな格好をしていた。  時計を外さないと。左手首に嵌めた細身のクォーツを外し、パンツのポケットに入れる。替えの下着は持っていない。恋人の動作を見ながら、ハイドが気楽に声を掛ける。 「ボクサーパンツ、貸そうか? まだおろしていないのがあるから。でもウエスト、ちょっとゆるいかな」  ウィルクスは顔を上げ、「ありがとうございます」と答える。すぐ目の前に青い瞳があって驚いた。 「でも、借りなくて大丈夫です。だって、すぐ……」  脱ぐから、という言葉がキスで奪われる。ハイドがしたキスは触れるだけの軽いものだったが、ウィルクスの口を塞ぐ力は持っていた。年上の男は彼を見下ろす。ほとんど身長が違わないのに、なぜかハイドはいつもウィルクスの目に大きく映る。青い目を細めて探偵は言った。 「せっかくだから、いっしょに入ろうか」  ウィルクスは目を逸らしたくなり、しかしそれができない。見上げたまま口の端でつぶやいた。 「……展開が予測できますよ」 「そういう展開は嫌いか?」 「あなたはほんとに助平なんだから。……いつのまに慣れたんですか?」 「え?」  自然に目を逸らすことができた。しかしその眼差しをどこへ持っていけばいいかわからなくなり、ウィルクスは片づけられた丸テーブルの上を見た。本が一冊載っている。カーター・ディクスン、『赤後家の殺人』。赤と黒の禍々しい表紙をじっと見つめた。ハイドが口を開く。耳元で低い声がして、ウィルクスの背骨は淫らに震えた。 「どういう意味だ、エド? 慣れたって?」 「……あなたはヘテロセクシャルでしょう、シド。女しか好きになったことがない。女としか寝たことがない。でも、いつのまにかおれを抱くようになっている。とても自然に。それが生まれながらの欲望ででもあるかのように」 「きみを抱くのは愉しいよ」  ハイドがはっきり言って、ウィルクスは彼を睨みつける。しかし、その青い瞳の透きとおるような優しさに膝をついた。口の端がかすかに震える。年上の男はそれを見ていた。 「そうだな、確かにぼくは慣れてきた。男に興味はないが、きみには興奮する。きみもそうだと知って、うれしいよ」 「おれはバイセクシャルです。だから、別に不思議じゃない」  ウィルクスの声が遠く、かすむようになる。おれはなにをまごついているんだろうと思いながら、彼は痩せた体を固くした。ハイドは覆いかぶさるようだった。茶色い髪を撫でてささやく。 「知ってるか? 少し昔の、雑誌の記事だけどね。レズビアンのカップルとゲイのカップルだと、ゲイのカップルのほうが別れにくいらしい。なぜか? ――セックスがいいからだそうだ。女同士はそれほどじゃないが、男同士のセックスは、『合う』相手同士だととてもいいらしい。それで、精神的には愛想をつかして憎みあうことになっても、別れられないらしいんだ」 「あなたは『そう』だと言いたいんですか?」 「そうって?」 「おれたちは別れられないと?」 「ああ」ハイドは笑った。「そうなら、素敵だな」  彼は強い力でウィルクスの腰を抱いた。抱き寄せられ、青年はハイドの首筋に顔をうずめる。香水と肌のにおいが漂い、鼻腔の奥で媚薬の花を咲かせた。  いっしょに入ろうか、とささやかれて、ウィルクスは陥落した。

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