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第1話

 都内中心部にある巨大なビル。通称「タワー」と呼ばれているそのビルから車で二十分ほど行った場所にあるとあるセンターから彼等は出てきた。  一方は黒髪に奥二重の長身の男。もう一方は眼鏡をかけココアのような深く暗い茶髪を持った小柄な青年だ。 「任務は対象の確保。まあ、俺達にかかれば造作もない任務だな」 「気の緩みが一番の敵ですよ」  窘めるように言う茶髪の青年の言葉に黒髪の男は「わーってるよ」と返しフルフェイスのヘルメットを渡した。受け取った青年の足下は緊張しつつも何処か浮き足立っているようである。黒髪の男は僅かに口元を歪めると青年の頭を撫でた。 「ご褒美を貰うにはまだ早すぎます」 「相変わらず真面目だなぁ。それに、頭撫でるのはご褒美だけが理由じゃねぇんだぜ」 「では、何が理由なのですか」  青年の問いに男は目を泳がせ笑うと、ヘルメットを被ってバイクへと跨がった。完全にうやむやにされてしまった。青年は少しだけムッとして外した眼鏡をジェケットの裏へしのばせてからヘルメットを被り、バイクの後ろへ跨がった。  振り落とされないように力一杯男の身体へと抱きつく。僅かなぬくもりをジャケット越しに感じると、先ほどの問いへの答えなど、早速どうでもよくなってしまった。 「さて、と。じゃあ行くぞ、怜央」 「はい。景さん」  二人を乗せたバイクは、勢いよくセンターから飛び出した。  1  初夏の眩しい日差しが街に燦々と降り注ぐ。昼下がりの穏やかな街中を、猛烈なスピードで駆け抜けていく一台の車があった。  白の乗用車。屋根に赤色のパトランプを光らせながら、車はあるビルの前で止まった。五階建てのビルの周りにはすでに数台の乗用車とパトカーが止まっている。  辺りには肝が冷えそうなほどの緊張感が張り詰めており、慌ただしく警察関係者が行き来を繰り返す。平和な街中まるでそこだけが隔離でもされているかのような別空間が生み出されていた。  そんな別空間へ停車した車から転がり出るように飛び出した若い男性が一人。彼はビルの前で立ち尽くしていた上司と思われる恰幅のよい中年男性の方へ駆け寄った。アスファルトの上を滑るように足を止めると、若い男性は背筋を伸ばし敬礼をした。 「鶴橋さん、お疲れ様です」 「よぉ、大谷くん。お疲れ」  挨拶もそこそこに鶴橋は腫れ物でも見るように瞳を上へと動かした。つられて大谷はビルを見上げる。  思わず目を顰めてしまうほどの鮮やかな青い空の下。ビルの屋上に何やら人影があった。  痩せ型でなければ肥満でもない。低身長でなければ高身長でもない。そんな男性のシルエットが陽炎のように揺らめきながらそこにいた。 「あれが、屋上に逃げ込んだっていう犯人ですか」 「そうそう。例の暴力事件の重要参考人で、自宅に向かったウチの刑事に暴力振るった挙句逃げた奴が、今まさに屋上にいるあの男だよ」  数日前の深夜零時前後。駅前の繁華街を通行していた三名の男性グループが一人の男性から暴力を振るわれる事件が発生した。幸い殺人事件までには発展しなかったものの、被害者の中には全治一ヶ月の者もいた。  警察の捜査の結果、一人の男が犯人として浮かび上がり、今日刑事数名が男に重要参考人として話しを聞くために、男の家に向かい――その後は大谷と鶴橋の話しの通りである。  犯人の男は現在屋上に立て籠もっている状態だ。最も、屋上は野外であるため、籠もってはいないのだが。 「幸か不幸かこのビルは二階と三階以外使われてないし、使われている階も夜にやっている居酒屋とスナックしか入っていない。だから今このビルには犯人しかいないって訳だ。避難誘導する必要もないし、鍵が開いてないから部屋に立て籠もったり、人質を取られたりする心配もなかったわけだが……」  鶴橋は目を顰め、天を見上げた。アスファルトの熱を巻き込んだ生ぬるい風が二人の身体を包み込む。鶴橋はゴミが目に入らないようにと顔を伏せると唸り声とともに呟いた。 「どうやら、犯人はセンチネルらしい」 「センチネルって……あの?」  この世界には少数ではあるが一定数「センチネル」と呼ばれる人間が存在している。  彼等は一般の――「ミュート」と呼ばれている――人間と比べ五感が著しく発達している、簡単にいえば能力者だ。  人には聞き取れない周波数の音を聞き取ることが出来る。数百メートル先に書かれた文字を解読することが出来る。警察犬と同じかそれ以上の嗅ぎ分けが出来る等の能力を有しているのがセンチネルの特徴だ。  これら能力の発達は五感に限られる。それに物語の中に登場するような超能力と違い、テレポートをしたり、突然掌の上に火を生み出す類いの能力を使ったりするセンチネルは現在観測されていない。  けれど「無能力の人間とは違う」。その一点だけでも、ミュートで構成されている警察一同にとって、彼等は危惧する存在であった。  それに、センチネルは能力を使う上でかなりエネルギーを消費し、脳にもかなりの負担を及ぼすらしい。普段はシールド、とやらで能力を制御しているらしいが、精神不安や肉体疲労でこのシールドが壊れ、その状態で能力を使用すれば「暴走」を起こすらしい。  その暴走が詳しくは何なのかは知らないが、暴走を起こすことは間違いない事実であることを知っていた大谷は忌々しげに屋上にいる男を睨みつけた。 「どうするんですか。センチネル相手となると何されるかわかりませんし、不用意に突っ込んで何かあったら、」 「そんなときのために、ちゃんとエキスパートを呼んでおいたよ」 「エキスパート?」  大谷が眉を顰めたその時、彼の鼓膜をバイクのエンジン音が震わせた。気に留めるほどではなかった小さな音が、次第に大きく近づいてくる。  大谷が何かに気が付きハッと道路に目を向けたときにはもう、黒の大型バイクがこちらに迫り来ていた。  バイクに乗っているのは二人。ハンドルを握っているのは長身でやや広い肩幅の男性。男性の腰に手を回しているのは小柄な高校生、下手をしたらまだ中学生ほどの男子のようだった。二人ともフルフェイスのヘルメットを被っており、顔は全く見えない。  二人が乗ったバイクはこのまま衝突してしまうのではないかと思う勢いで警察車両に突っ込んでくる。側にいた警察一同があっと声を上げそうになった瞬間。バイクは警察車両の真隣につけるような形で停車した。  声さえ出せずに震えている一同のことなど全く気に留めることなく、長身の男はバイクのエンジンを止める。ゆっくりとヘルメットを外すと、黒髪で奥二重の黒々とした瞳を持った眉目秀麗な美男が顔を覗かせた。何処かの芸能事務所にでも所属しているのではないかと思ってしまう程の男前だ。  呆然としている辺りの警察官を一瞥すると、彼は後ろでヘルメットを外すのに若干もたついている青年のヘルメットを外してやる。目にかかる程に長く暗い茶髪を有した彼は申し訳なさそうに頭を下げるとジャケットの内側から取り出した眼鏡をかけた。するとわからなかった顔立ちが露わになる。  長身の男が俳優なら、こちらはアイドルだな。一同はそう頷くと共にますます疑念が増していった。  彼等は一体何者なのか。もしや、本当に芸能人で「現場」を間違えてしまったのではないか。現場は現場でも、ここは事件現場だ。撮影現場ではないことを知らせてやらないと。  大谷が一歩足を進めると同時に、男の方もビルの方へと足を進めてきた。まるで威嚇でもしているような真剣な目つきだ。男の気迫に圧倒され思わず大谷は出した足を引く。だが、気持ちは食い下がれなかったようで、勢いよく男に言葉で噛みついた。 「なんだ、お前達」 「センチネル・ガイド保安組織「SGS」の新堂です。こっちは怜央」 「SGS……?」 「さっき言っていた対センチネル事件のエキスパートだよ、大谷くん。センチネルのことはセンチネルが一番わかるからね」 「じゃあ、こいつら二人ともセンチネルなんですか」 「いや、片方はガイドだよ」  「ガイド」――こちらもセンチネル同様、世界に僅かばかり存在している能力者だ。彼等はバランサーとも呼ばれ、センチネルの補助や制御の役割を担っている。  センチネルの五感発達とは違い相手の心や感情を読み取る能力を持ったガイドは、センチネルへの能力使用で不足したエネルギーの提供とシールド補助による能力制御を行う役割があるらしい。また先程の「暴走」を止める力もあるという。  センチネルには不可欠な存在である一方、ガイドはセンチネルに「狙われやすい」存在でもあった。  ガイドからセンチネルへのエネルギー提供は肌や粘膜の接触及び体液の摂取――とりわけ性行為によって行われるのだ。  何故性行為によってエネルギー補給が出来るのか、大谷にはさっぱり見当がつかないが、ともかくバディを組んでいる以上、目の前にいるこの二人もそういう関係なのかと思うと若干気が引けた。それが完全に顔に出てしまっている大谷を軽く叱りつけると、鶴橋は一歩前に出て自己紹介を始める。 「ご協力感謝します。私は刑事部強行犯係の鶴橋と申します。こっちは同じく強行犯係大谷です」  鶴橋に促され、大谷は渋々彼等に頭を下げる。すると新堂の後ろから駆け寄ってきた怜央という青年だけ丁寧にお辞儀をした。一方、新堂は短く「よろしく」とだけ呟くように言うと頭を――下げずに上を見上げた。軽く上げた指先は屋上で喚く男を指さしている。 「で? あれがターゲット?」 「はい」 「わかりました。怜央、行くぞ」 「了解です、景さん」  刑事二人の脇を通り、新堂と怜央はビルの中へと入っていく。それに鶴橋と大谷が続いた。大谷は怪訝そうに顔を歪め鶴橋に尋ねる。 「大丈夫なんですか、この人たち」 「心配しなくても大丈夫だ。彼等は「タワー」が設立した組織に所属する能力者事件に関するエキスパート。ちゃんとした組織で訓練を受けた人たちだよ」 「でも、タワー自体がなんか怪しくてよくわからない組織じゃないですか。一応、政府組織らしいですけど内部は何をしているどんな組織なのかもわからない。わかるのはセンチネルやガイドに教育や訓練を施す組織だということだけ。噂によれば人格矯正や人体実験なんかを……」  上の階から響いていた二人分の足音が止まったかと思えば「おい」と不機嫌そうな新堂の声が上から降ってきた。 「あまり、ウチの怜央を怖がらせるような話しはしないでくれませんか。まったく、警察はタワーやセンチネル、ガイドについて何も知らないんですね。一度、研修をした方が良いんじゃないですか? 我々のことも、あまり周知されていないようですし」 「すみません。こいつは新人でして。でも、センチネルに関する研修は確かに良いかもしれません。検討しておきます」  鶴橋の言葉に返答はなく、再び足音が聞こえ始めた。 「なんだあいつ」 「まあまあ」  その後は一切会話もなく、やがて四人は屋上のドアの前へ辿り着く。もうすでに扉の前では数名の捜査員が突入のために待機をしていた。その輪の中に新堂は一切の遠慮無しに突っ込んでいく。怜央も平然とその後についていった。 「おい、お前等、」  彼等を一切止めない先輩捜査員達に若干の疑念を覚えながら大谷は新堂の腕を掴もうとする。するとその腕が振り上げられ大谷は一瞬たじろいだ。  だが、新堂の手は大谷の方ではなく自身の左耳へと当てられた。見れば怜央も同じような仕草をしている。大谷はそこでやっと彼等の耳にインカムがつけられていることに気が付いた。  彼等の耳元から僅かに音が漏れ出てくる。聞こえてきたのは落着いた男性の声だった。 「こちらオペレーターの佐藤です。対象の情報を今一度共有致します」 「頼む」 「対象の名前は「岡崎達彦」。年齢三十二。男性。センチネル。パートナー登録無し。通院及び抑制剤の処方情報は一ヶ月前に更新されています。スピリットアニマルはドーベルマン。野生化した際の危険性は牙の発達および脚力の向上です」 「ドーベルマンってどんな犬だ?」  大谷が「ドーベルマン?」と首をかしげる。新堂は一瞬だけそちらを見てから怜央の目をジッと見つめた。怜央も応えるように新堂の目を見つめ返す。そして滔々と語り始めた。 「労働犬や警備犬として品種改良が行われた犬種です。頭が良く、警備犬、警察犬の他に麻薬探知犬や盲導犬としても活躍しています。飼い主に対しては従順ですが、家族以外には警戒心が強く、縄張り意識も強いといわれています」 「なるほどな。さすがにパートナー登録がないし、人質も取っていないなら野生化の危険性はまずないが、ありとあらゆる可能性を考えて警戒しねぇとな」 「なんだ、野生化とかドーベルマンとか」  疑問符を浮かべた大谷に対し浴びせられたのは新堂の長い溜息だった。呆れ。その二文字がはっきりと込められた息に大谷は反射的に眉を寄せた。そんな彼を新堂は悠然と見下ろす。 「スピリットアニマル」 「は?」  聞き慣れない単語。恐らく専門用語であろうその言葉を聞いて首をかしげる大谷に話し始めたのは新堂ではなく怜央だった。 「センチネルやガイドの精神が地球上に存在する動物の形となって顕在化したもののことをスピリットアニマルといいます。所謂、守護霊やオーラに近く、皆さんのようなミュートに目視することは出来ません」  言葉を句切ると怜央は急にしゃがみ込み、足下を撫で始めた。多分だがそこに「いる」のだろう。とんだ心霊現象ではないか。大谷は僅かに肩を震わせた。 「野生化についてですが、センチネルがパートナーとなっているガイドを攻撃された際などに起こす過剰な防衛反応のことを「野生化」と呼びます。センチネルは野生化した際にスピリットアニマルと同化し身体能力が著しく向上、および攻撃的になります。今回はセンチネル一人ということで危惧すべきは野生化以上にゾーンに入ってしまいそのままゾーンアウトし命の危険に陥ることなのですが、野生化も必ずしもガイドを傷つけられたときにのみ発生するわけではありません。ですので、対象のスピリットアニマルであるドーベルマンの特性を把握して……」  怜央は淡々と説明を続ける。抑揚がなく滞りなく発せられる声は何処かロボットのようだった。決して耳障りな声でも理解しにくい言葉回しでもないのだが、連発される聞いたことのない専門用語に依然大谷は首をかしげている。そろそろかしげた首が取れそうだ。 「鶴橋さんだっけ? やっぱり、センチネルに関する教育研修を行った方がよいかと。早急に」 「ははは……」  腹が立つがそれと同時自分の無知を痛感する大谷。もう彼はこの場において、黙るしかなくなってしまった。 「対象は現時点でかなり錯乱し、エネルギー消費及びシールドの破損を起こしている恐れがある。佐藤、抑制剤投与の許可を」 「対象の状態を確認するまで使用許可は出来ません」 「いざ相手にして状態伝えている間に怪我したり逃げられたらどうするつもりだよ……」 「これは、センチネル・ガイドに関する法律の第百二十六条から第百三十条によって規定されていますので。それに、インカムのカメラである程度対象の状態は把握可能ですので、状態を判断でき次第抑制剤の使用を許可します」 「わーったよ!」  新堂は不満げに怒鳴ると勢いよく髪の毛を掻き乱す。ふわりと漂ってきたやけに良い香りがいちいち大谷の癪に障った。  そういえば、この前見たSNSに「センチネルって本当に傲慢」「能力だかなんだか持ってるからって偉そう」「プライド高過ぎ」のような投稿がされていたな。大谷は静かに怜央の方へ足を進めた。 「センチネルって、みんなこうなのか?」 「え?」  大谷は怜央の耳元に顔を寄せてそんなことを尋ねる。近づくと怜央の睫毛が想像以上に長くボリュームがあることに気が付く。吸い込まれそうな程に澄んだ琥珀色をした瞳を持ったその目が大谷を見つめた。  不思議そうに目を丸める怜央。もしかしたら相方のセンチネルに聞かれると思って戸惑っているのだろうか。申し訳ないことをしたな。そんなことを勝手に考えている大谷に怜央はぎこちなく微笑んだ。 「多分、珍しい方だと思いますけど……」 「怜央、行くぞ」  僅かに扉を開き新堂は怜央に目配せをする。怜央は直ぐに真剣な目つきになると新堂の目を見つめ、無言で力強く頷いた。 「待て! ガイドまで一緒に行くのか?」 「何か悪いことがあるのか。センチネルの急なエネルギー不足や、ゾーン入りを防止するのだってガイドの仕事だ」 「さっきの野生化とやらの可能性もあるんだろう?」 「安心しろ。ガイドだってセンチネル相手の戦闘訓練はしている。そんな直ぐ危険な目に陥ることはない。怜央、確認だ。任務は対象の捕獲。場所は屋上だ。近くには他のビルもある。落下及び逃走に備えろ」 「了解です」  新堂は一気に扉を開く。熱い風が建物内へ吹き込む。それに立ち向かうように二人は毅然として屋上へと出て行った。  テニスコートほどの大きさの屋上。フェンスも張られていないその場所の中心にターゲット――岡崎は立っていた。  呆然と何処か虚ろを見つめて立っていた岡崎は新堂達の存在に気が付くと急に牙をむく。「ドーベルマン」という単語を思い出して微かに笑い声を漏らした。 「な、なんだ、お前ら! 警察か!」 「違う。タワーから来たセンチネルとガイドだ」  岡崎は自ら質問したにもかかわらず碌に解答を聞いていないらしい。新堂が言葉を全て言い終わらないうちに新堂に向かって飛びついた。振り上げられた拳。それが顔へ直撃する前に、新堂はひらりと拳をかわした。  その動きが意外だったのか岡崎は息を呑んで飛び退く。その動きがやけに機敏で新堂は眉を顰めた。 「危ねぇな。まあ、落着けって」 「うるさい! お前も、俺に変なものを!」 「変なもの? 何があったか話してくれよ」 「うるさい! うるさい!」 「……こりゃ、シールド碌に張れてないな。いつゾーンに入っても可笑しくねぇ……佐藤、抑制剤使用の許可出せ!」 「承知致しました。新堂さんの抑制剤使用を許可します」  インカムから「抑制剤」の言葉を聞いた途端、岡崎は獣のような叫び声を上げた。明らかに精神不安に陥っている。新堂は早急にジャケットの中に着込むようにつけたホルダーの中から注射器を一本取りだし、岡崎ににじり寄った。 「何する気だ……やめろ! 俺に近づくな!」 「安心しろ。過敏になった五感の作用を抑える抑制剤だ。ガイドのガイディングに比べれば軽い作用だがそれでも楽になるはずだ。このままだと下手したら精神崩壊するぞ」 「黙れ! 誰がお前なんかの話しを聞くか!」  声を荒げ岡崎が何処かへ逃げようとする。舌を出し、唾液を垂らしながら逃げ惑う彼が向かう先はビルの縁。そのさらに先にあるのは別のビルではなく、広い宙と車が行き交う道路だ。  錯乱していて逃げる先がどこなのかさえ把握していないのだろう。新堂は勢いよく振り返った。 「怜央!」  新堂が叫ぶ。だがもうすでにそこに怜央の姿はなく、岡崎が逃げた方に向き返ればふらつきながら走る岡崎と、それを追う一陣の風があった。後ろを見た岡崎は金切り声と共に立ち止まると拳を振り上げる。  何も考えていない素早くむちゃくちゃな拳は躊躇いもなく怜央に振り下ろされる。だが岡崎の拳は何の誤差もなく、導かれるように怜央の手の中へと収まった。 「遅いです」  怜央の瞳孔はまるで猫のように鋭く、細くなっていた。岡崎はそんな怜央の背後に何かを見たらしい。息を呑むと腕を捻り怜央の手を振りほどいた。  だが、今度は怜央からしかけられる。鳩尾に飛び込んできた蹴りを躱すことも出来ないままに岡崎は地面へ転がった。怜央は岡崎に馬乗りになり素早くホルダーから抑制剤を取り出す。 「佐藤さん、抑制剤使用の許可を」 「承知致しました。怜央くんの抑制剤使用を許可します」  暴れる腕を全ていなし、怜央は岡崎の頸動脈へと抑制剤を突き刺した。唸るような声が岡崎から上がる。初めこそ苦しげであったが次第に岡崎の呼吸は落ち着き、十数秒もしないうちに彼は眠りについた。 「終わりました」  報告をしながら立ち上がる怜央の額には一切汗が滲んでいない。軽いストレッチを済ませた後。まさにそんな様子で怜央は新堂の方へと駆け寄った。 「よくやった、怜央。ご褒美をやろうな」 「そ、それは、帰ってからで……」 「遠慮しなくても良いんだが……後の処理はお願いします。後ほど、タワーから医療班をそちらに送りますから」 「ありがとうございます。助かりました」 「なにやら不穏なことを言っていたし、もしかしたらセンチネルやガイドの安全を脅かす事件に彼が絡んでいる可能性があります。その際には、タワーを通してでも構いませんので、ご一報いただければ」 「そうですね。捜査して――研修の件と一緒にまたタワーに相談をします」 「そうしてくれると助かります。では」 「ま、待ってくれ」  早急に立ち去ろうとする新堂達を大谷が引き留める。二人は揃いも揃って似たような表情をすると同じタイミングで首を捻った。 「そっちの傲慢男がセンチネルで」 「誰が傲慢男だ」 「そっちの高校生がガイドなんじゃないのか」 「いえ、僕は成人していますし、センチネルです。よく間違われるのですが……こちらの新堂さんがガイドですよ」  愕然。驚きのあまり今日何度目かの声を出せなくなる現象に襲われている大谷を新堂は鼻で笑って彼に背を向けた。 「何事にも偏見と先入観は持たない方が良いぜ。刑事ならなおさらな。それじゃ、帰るか」 「はい」  大谷に向かって「あれがSGSだぞ」「わかったか新人!」などと言って笑う捜査官達の間を縫い、新堂と怜央はビルの階段を下りていく。コンクリートの階段を軽快に下っていく途中。上の喧騒が聞こえなくなった頃、後ろから聞こえていた足音が止まり新堂も続けて立ち止まった。 「景さん」 「どうした」  振り向けば、怜央が数段上から新堂を見下ろしている。その表情は先程の真剣な表情と打って変わって何処か扇情的とも取れる艶めかしさを孕んでいた。レンズの奥の琥珀が揺れる。新堂はそれを眺めながら口の端を歪めた。 「そ、その……今日の、僕、どうでしたか?」 「どうって?」 「ちゃんと、景さんの相棒として振る舞えていましたか?」  怜央は任務の度にそんなことを訊いてくる。精錬され無駄がない動き。迅速に任務を遂行するその様はまさに完璧だ。センチネルの彼に比べ、能力は有しているが戦闘においてそれが発揮されるわけではないガイドの新堂は戦闘や調査に関して至らない点が多い。むしろこちらが「相棒」と呼ばれていることが恥ずかしくなってしまうほどだ。  それなのに怜央は新堂の相棒として振る舞えているかどうかを気にする。彼はガイドやセンチネルなんて関係無しに自分に対して人として憧れを抱いてくれている。それが何だか健気で愛らしくて、新堂は堪らなくなるのだ。 「かわいいなぁ、お前は」 「へ!?」 「大丈夫だよ。今日もよく頑張ったな、相棒」  新堂はわざわざ階段を上り直すと怜央の頭を撫でる。そういえば、先程大谷とかいう刑事が気安くこんな感じで怜央に顔を近づけていたな。そんなことを思い出しながら新堂は怜央の耳に口をすり寄せた。 「帰ったら、たっぷりエネルギー補充しような」 「は、はい……え、エネルギー補充ですから……! 他意はありませんから!」 「はいはい」  ぶわっと頬だけではなく耳まで朱く染めた怜央の頭をもう一度新堂はクシャリと撫でる。  出会ったばかりの頃はもっと表情の変化も感情の表出も少なかったのに。ずいぶん懐かれたものだ。新堂は感慨深さに浸ると前方へと向き直る。  帰ったら思い切り甘やかしてやろう。勿論、たっぷりとエネルギー補給もしてやろう。彼の相棒――ガイドとして。  SGSの本部へ戻ったあとに待つ行為に思いをはせながら、新堂は階段を下って行く。上機嫌の新庄に僅かな期待を募らせて、怜央もその後へと続いていった。

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