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11 邂逅編 冬の日の別れ 3
「わかりました。もう結構です。ヴィオの勉強を見てあげる約束をしていたんだった。ヴィオおいで」
くりっとした目を見開くヴィオの手を引いてセラフィンは会釈するとさっさと家を後にした。表に出るとヴィオはまだびっくりした顔のまま、大人しくセラフィンの手を握り返した。
「そんな約束してないよ」
「いいや。本当に。ヴィオが勉強したいっていっていたから、俺たちで今はどのくらいできるか見てあげるね。ジルもまあ、結構頭いいだろ?」
「俺は勉強嫌いです。要領だけで生きてきました」
「頭がいい奴の言うセリフだな」
「そっくりそのまま先生にお返ししますよ」
「嬉しいなあ。僕の部屋に二人が来てくれるの。嬉しいな」
そう言いながらもヴィオはまたにこにことして、寒さをしのぐために頭の半ばから羽織った大人の女性向きの緋色の毛で織られたショールをひらひらとさせた。
端に美しく縫い込まれた手刺繍はどこか別のフェル族の一派で見かけたような気がする複雑な文様で、丁寧な花の刺繍が美麗な布だ。
その鮮やかな色は美しくも神秘的なヴィオの瞳によく映えていた。
「綺麗な布だね。そうしているとヴィオ、花嫁さんみたいだな」
戦後以後豊かな中央地域では花嫁衣装がとにかく派手好みとなり、今は鮮やかな赤が人気であるとジルの姉が話していた。それが脳裏にあったジルがお得意の軽口を叩いたのだ。ヴィオはぽぽっと顔を赤くした後、むぐっと口をつぐむ前に一言ぽつりと漏らした。
「これ、死んだ母様のだったんだって。僕この色が好きだからたまに使ってた。……変だよね」
これはまたまずい話を振ってしまったとジルが深く反省する前にきっぱりとしたセラフィンの声がした。
「変じゃないよ」
セラフィンは立ち止まり、じっとヴィオを見下ろしてきた。赤いショールを取ろうとしていた子供らしい暖かな手を柔らかく包み込み、ジルすら見たことがないほど穏やかで暖かな笑みを浮かべる。
そして外の清々しくも冷たい空気を大きく吸い込みながら、ヴィオのことを一気に高く抱え上げた。
「とても似合っている。赤が綺麗な瞳に映えるな。美しいよ、ヴィオ。お前は家族思いの、優しくて勇気のある素敵な子だ。だから自分を卑下したり、みっともなく思う必要はどこにもない。勉強だったらこれからいくらでもできる。沢山学んで自信を持つんだ。そうしてお前が行きたいところにいって、会いたい人に会って。しなやかに強く生きていくんだ。お前を待っている人がきっと世界のどこかにいるはずだよ」
「僕を待っている人?」
「そうだ。ヴィオを待っている人」
(僕を待っている人……)
高い高いをされるように大切に掲げられ、腕の中で腰かけさせられたヴィオは、空をうつしてより真っ青に見えるセラフィンの澄み渡る冴え冴えとした瞳を見下ろしていた。
(僕を待っていてくれる人なら、僕は先生がいいな。先生が待っていてくれるなら、沢山勉強して僕は先生の傍に行きたい……)
「沢山勉強したら……」
「なんだい?」
あまりにセラフィンの瞳が真剣で今まで見た人の中で一番に綺麗に見えて、気後れしたヴィオはその願いを言えず、思いの丈を伝えるようにセラフィンの首に抱き着くことしかできなかった。
その後セラフィンとジルは仕事の関係で中央に戻らねばならない期日ぎりぎりまで滞在し、その間にエレノアの体調は大分よくなってきた。
街で薬が得られる処方箋を書き、現在里で必要なものをアドに直接はっきりと聞き出し、のちに兄であり貴族院議員のバルクや実は著名な慈善事業家である実家の母のジブリールになんとか支援ができないか話をするつもりだった。
中央への帰宅の途に就く日の朝、ヴィオは泣いて泣いてずっとセラフィンの袖を掴んだまま離さなかった。日頃人に対して一線を引き、いっそ冷淡なほどのセラフィンすらも離れがたいのか、まるで彼を遠ざけようとしないのだ。
セラフィンの胸元までもない小さな細い身体で泣くさまは憐れで、ジルはこの二人の間になにか不思議な絆が生まれつつあるのを、ある種研ぎ澄まされた勘で悟っていた。
最後にヴィオは勇気を振り絞るように、小さな小さな声でたった一つの願いを口にしたのだ。
「先生、沢山勉強するから。僕いつか中央に先生に会いに行っていい?」
セラフィンはそんなことならもちろんだというような顔をして頷いて、愛おし子のようにヴィオの頭に優しく口づけを落とすと、ついに車に乗り込んだ。
走り出した車の中、セラフィンはバックミラーにいつまでも追いかけてくるヴィオを見て、あの日兄の乗る馬車を追いかけた、いつかの自分を重ね合わせていた。辛くなって目を瞑りかけたが気を奮い立たせて、遠ざかるヴィオを見つめていた。
徐々に遠く離れていく車に向かい、ヴィオはセラフィンには届かないと知っていながらも、どうしてもそう誓いたくてたまらず、生まれて初めて大声を出して叫んだ。
「先生!! 絶対に、絶対にいつか会いに行くから! 待ってて。僕を待っている人、先生がいいんだ!」
遠ざかる車が涙で滲んで、ヴィオはもしかしたら二度と会えないかもしれぬセラフィンを想って胸が苦しくなった。
山里の誰一人いない道に一人たたずみ項垂れていると、鈍色の冬空からは雨交じりの冷たい霙が落ちてきた。初雪が降ったのはその日の午後だった。
それはまだヴィオが何も知らず幼かった冬。
初めて人に恋い焦がれるという経験をした寒い冬のことだった。
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