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35 再会編 尊い君2
セラフィンの自宅のある駅は昨日ヴィオがカイたちと降り立った中央駅を挟んで南側にあり、中央駅を通り抜けて北側にある病院までは昨日と同じ電車に乗った。後ろめたさからどこかで姉たちとすれ違わないかと内心は気が気でなかったヴィオだが、祭りですら見たことのないような人出の中央駅はわざわざ待ち合わせても出会えるのか難しいのではとないか思った。
病院につくと先生と共に職員用の通用口を通してもらい、先生が白衣に袖を通すのを待って一緒に昨日仕事を紹介してくれると言っていた紹介窓口の女性のところに挨拶に来た。
「あら、昨日のヴィオくんね。本当にモルス先生とお知り合いだったのね。あえて良かったね」
親切な受付係の女性はそう言って二人を見上げてにこにこしている。
するとヴィオの背後にぴったりと見守るように立っていたセラフィンが、保護者のように軽く会釈をしてくれてヴィオはちょっぴり恥ずかしくなってしまった。
そのまま面接先のティーサロンまでついてこようとしたから、流石に固辞する。
「いいか、面接の後は午後の診療まではロビーで時間をつぶして私が来るのをまっているんだぞ。一人で出かけてはだめだ」
「えー。隣りの公園ぐらいだめですか? あと、下の噴水! 昨日じっくり見られなかったから」
「診察が済んで薬を飲むまでは駄目だ。今度私の出勤前に、散策すればよいだろう?」
(先生過保護すぎるよ。カイ兄さんよりすごいかも)
やはり昨日の今日でオメガの自覚を持てと言われても実感がわかず、まるで呑気なヴィオだ。その後店長が即決してあっさり決まったカフェの仕事を初日から手伝うことになり、午後の診療ぎりぎりまで仕事を教わりうろつくどころではなくなってしまったのだが。
ロビーにいないヴィオをセラフィンが血相を変えて探しに来たが、借りたひらひらのエプロンだけを私服の上に身に着けた姿で明るい笑顔を浮かべながら嬉しそうにぶんぶん手を振るヴィオを見て、心の底から安堵する。日頃かかない汗をいろんなところにかきセラフィンはどっと疲れてしまった。
午後になってかかったバース性の専門医は昨日の医師とはまた違う人で、その人にオメガとしての生活の心得をヴィオはみっちり確認された。多分姉のリアが持ち去った方の紙には書かれていたであろう内容だ。
中央でオメガが受けるかもしれない理不尽な仕打ちはセラフィンに代わって医師が説明してくれることになって、ある意味セラフィンの狙い通りではあった。説明の間ヴィオは赤くなったり青くなったりと百面相を繰り広げていた。
急に心細さが増してきたのか、ぎゅうぎゅうと小さなころのようにセラフィンの袖口を握りしめてきたので指先で手を探り、セラフィンは優しく握り返してやる。診療後ヴィオは無口になると、帰り道では片時もセラフィンの傍を離れずにいた。
家に帰ったらすぐに抑制剤を飲んでまたセラフィンの傍にすりよる。子どもの頃の彼に戻ったような仕草に、セラフィンは甘やかしたい気持ちが限りなく溢れて思わずヴィオを抱きしめかけた。しかしヴィオを里に返すためには中央での生活のリスクを本人なりに感じ取ってくれなければならないと、必要以上にケアをしないように努めたのだ。
「ヴィオ、怖くなったか?」
言外に安全な里に戻るかと示唆したのだが、ヴィオは思案気な顔をしたままソファーの上に膝を丸めて座り込み、首をまた大きくぶんぶんと振っていた。
「何も起こってないのに、心配をしすぎて怖がるのは愚か者だって父さんも言ってた。大体の心配事はそうならなかったことのほうが多くて、うまく行ったことの方は人は忘れてしまうんだって」
そんなことを呟いても落ち込んでいる様子だったが、それでも翌朝にはまた元気に飛び起きて、今までは今は亡き愛猫がしてくれていたように、セラフィンの寝台に飛び乗って起こしに来てくれた。
「先生! 今日もお仕事一緒に行くんですよ! 起きてください! 朝ごはんの作り方教えてください」
そんな風にいいながら、窓から差し込む光に輝く菫色の瞳は金色の環を伴ってきらきらと輝いている。ゆっくり目覚めるセラフィンを待ちきれないように、身体に直接乗らない程度には覆いかぶさってゆさゆさとされた。
朝の目覚めすら賑やかになって心臓が飛び出そうになったが、セラフィンはじんわりと温かい幸せを感じていた。
里や周囲の地域から一歩も出たことのなかったヴィオは、どうせすぐに里心が付くだろうと思っていたセラフィンの予想は大きく外れた。
彼は若さと柔軟性で見る見るうちに中央の生活に馴染んでいったのだ。
幼かったあの日、看板の字が読めなくて街の誰にも声をかけられず、べそをかいていた男の子が、中央の街に出てきて生活しようと試行錯誤している。
何度も読みこんでよれよれになった中央のガイドブックや交通の路線図をリビングにきて開いてはセラフィンを質問攻めにしてくる。家に連れて帰って欲しいと泣きつれるのを予想していたのだが、嬉しい誤算に複雑ながら内心はセラフィンも喜びを隠せなかった。
人手が欲しかったせいか又は紹介者の力量かすぐに採用された病院のティーサロンで、引き締まった身体に素晴らしく似合う黒のパンツに黒のベスト。それに白いシャツを制服としてすぐに用意し支給してもらった。こういったきちんとした格好をしたのは初めてでとても嬉しかったらしく、わざわざ休憩中にセラフィンに披露しに来たのが愛らしい。看護師たちもかっこいいし可愛いと絶賛していた。
ヴィオ以外の給仕は女性しかおらず、皆揃いの淡いイエローのブラウスに黒のスカート、その上に白いひらひらしたエプロンをつけ、似たり寄ったりの背格好だ。その中で頭一個皆より大きいヴィオのしなやかな姿はひと際よく目立つ。年上の女性ばかりの職場で可愛い可愛いとちやほやされているようだ。昼はまかない付きでなおありがたい。
セラフィンがなじみの患者に誘われて一息をつきに行くと、はにかんだ笑顔で給仕してくれる。明るいところで軽やかに動く彼の姿を知らず目で追い続けてしまって、会話がそぞろになったセラフィンだった。
きびきび動き、力持ちで、輝くばかりに愛らしい少年は仕事仲間の評判も上々のようだ。
ヴィオはセラフィンの家の中でもじっとせずに何かと手伝いをしたがり、くりくりした瞳でじっと見てくる様が可愛くてたまらないのだ。去年愛猫を亡くしてからさらに寂しさを増した家の中があっという間に明るく輝いて見えた。
次の春に学校に入るために、仕事と抑制剤を飲んでの生活に慣れていこうとした。そのためにはまずは一か月、この生活を続けてみるという小さな目標を立て、次の一か月は……とあれこれ計画を練っている。ヴィオはそうした部分は非常に現実的でかつ建設的で、努力を惜しまずこつこつと頑張るタイプのようだ。天才肌のセラフィンとはある意味真逆の存在ともいえる。
心配していた抑制剤の副作用だが、そちらも心配がいらなかった。
医大生時代、医療の分野では大陸一であるテグニ国に留学していたセラフィンは、フェロモンの分泌に関する研究室にもいたことがある。
その彼が慎重にその容量を微量な単位まで調整した抑制剤は副作用がほとんどなくヴィオに効いているらしく、アルファであり割とフェロモンには敏感である彼が近寄ってもほぼ気にならないほどの、ほんの僅かなフェロモンしか出なくなった。オメガ用の首輪自体を哀しげな顔をして嫌がったヴィオのためにセラフィンが腕によりをかけた結果だった。ただしこの薬を飲むと酒に酔いやすくなるため当分外では禁酒となった。
(そもそもフェル族のフェロモンは同族により強く作用するというからそこまで神経質にならなくともよいのか? しかしそれは女性のオメガや男性のアルファの統計であってヴィオに当てはまるとは言い切れない)
フェル族を長らく研究してきたセラフィンにとって、一歩下がった視点で見るとヴィオは研究対象として非常に魅力的な存在だった。
多くのフェル族の男子が語ってきた伝説的で希少な存在。それがフェル族の男性オメガであったからだ。
(かつて、フェル族、ドリ派のオメガは生命力の源を宿す大地の女神を宿した神の化身、生きている神として崇めたてられてきた。番は持たず多くの夫を持ち、沢山のアルファの子を産み落として、その一族に繁栄をもたらす存在として言い伝えられてきた。他の派にもそれぞれ別の伝承があるがみな似たり寄ったりだ)
世が世ならば、里から出ることなど到底叶わず、
セラフィンは近寄ることすらかなわなかった。神に近い尊い存在。
いやもしかしたらあの雪崩事故さえ起こらなければ、自分とヴィオがこうして出会うことすらなかったかもしれない。
そしてヴィオがフェル族のオメガとしれたら、それこそ別の派からの求愛も絶えることはないだろう。
ヴィオにはまだ話していないが、5年前帰り際、里で出会った一族の若者と軍のつながりで中央の基地に来ていた時に、軽く挨拶を交わしたことがある。彼は周りの若者の中でもひと際逞しく凛々しい若者に成長していた。
彼は軍では知らぬものはいない戦争の英雄で、未だに人気がある『彼』の甥としてちょっとした有名人となっていたのだ。
(彼はきっとアルファだろう。一族の中でヴィオの番となることを皆が望んでいると考えるのが妥当だろうな)
ずっと年が離れた自分よりも、ヴィオを守れるだけの力もありつつ程よく若い。あの青年とだったらヴィオとは素晴らしく似合いの一対になるだろう。想像に難くない。
それをどこか面白くなく苦しく思う自分の心向きが芽生えていることにセラフィンは気が付いていた。
(一刻も早くあの子を家族のもとに返してやらなければならないというのに。
傍に置いていつまででも見守っていたくなる。あの笑顔を返してくれるだけでこの世の喜び全てを得た心地になる。こんな気持ちを俺が持つようになるとはな……。ヴィオか来る前、俺は今まで何が楽しくて息をしていたのかもう、忘れた。もしも失ったら……)
外来が終わり机に向かって別の仕事をしていたはずなのに、いつのまにかヴィオのことばかり考えてぼんやりしまっていた。しかしそのうっとりと甘い空想に満たされた部屋の静寂はノック音で打ち消されたのだ。
「先生、ちょっとよろしいですか?」
「どうぞ」
聞き覚えのある看護師の声に振り返ると彼女の後ろに、トウモロコシ色の髪の毛が目に入る。友人のジルが立っていたのだ。
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