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47 再会編 黒い女
女はあまりに日常の風景から一線を画いて見えた。
長いドレスの裾を捌きながら、ゆったりと車から降り立つその姿。
切れ長でありつつ大きな目元はヴィオの一族とも、この国の女性の目鼻立ちとも違う。全ての造作が華やかで大き目かつ迫力がある。
黒づくめのその姿は女性らしい身体の線に沿った、胸元が大きく開いた悩ましいドレスを身にまとっている。
背丈はヒールを履いているとはいえセラフィンに届く大きさでヴィオは見上げるほどだった。艶やかな黒髪を美しく結い上げられ、唇は目にも鮮やかな真紅、黒々とした睫毛で彩られた瞼の際にも印象的な赤いシャドウがさしてある。
首には豪奢な黒と赤が混ざったような色の宝石の豪奢なネックレスが下げられ、耳にも同色の耳飾りが吊り上がりまるで血が滴っているようだ。
ヴィオはその気配に圧倒されて、無意識にセラフィンに買ってもらった大切な衣服の入った紙袋を胸元に抱き寄せて身を守るような動きをした。
「セラフィン、待ちくたびれたわ。あら? その子」
セラフィンはすぐさまヴィオを我が背の後ろに隠したが、女は肩越しに覗き込むような仕草を見せただけでこともなげに呟いた。
「ヴィオ、くんでしょ?」
ヴィオは思いがけず自分の名前が呼ばれたことにびくっと反応してしまった。
セラフィンにとってもそのことは思いがけぬことだったが、ヴィオは彼とは真逆のことを考えた。
(僕はまだこの街に来て何日もたってない。僕の名前を知っているってことは、先生が話したに違いないよね。それならこの人は、先生のすごく身近な人ということになる。でもこの人、なんだか僕怖いよ……)
セラフィンはさらにヴィオをかばうようにして背後に腕を回す。ヴィオは女の醸し出す何かが恐ろしくなって思わずその腕に縋り付いた。しかし不意にヴィオの脳裏にジルの声が蘇ってきた。
(『先生のところは女が来るだろ』『黒髪の、色っぽい女』)
再会した晩。疲れ果て酒にすぐに酔ってはいたが記憶がなくなったわけではない。眠気でうつらうつらしていた時に、二人が諍うような雰囲気を敏感に感じて目が覚めていた。しかし話していたその内容は、今の今までジルの軽口だと思っていたのだ。
(きっとこの人のことだ! 先生のところに来ている、女の人。黒髪の、色っぽい…… いったい誰なの? わからない……。先生の、恋人?)
セラフィンの背に庇われながらも高いところから女の黒い瞳に覗き込まれ、ヴィオは潤みかける目で女を見つめ返した。
「まあ、なんて可愛い坊やなの。ふふ。フェル族なのね。良い香り」
更に一歩踏み進んだ女の白い指先がヴィオに触れようとしたのを、目を剥きセラフィンは女性にするとは思えぬほど乱暴な仕草でぱんっと音が立つほど強く振り払う。
破裂音にヴィオは身を震わせて、セラフィンの背により一層強くしがみついた。
女は真っ赤な唇をくいっと上げるようにして嗤い、真っ赤な爪のはえた手の甲を見せつけるようする。
「あら手厳しいのね。セラフィン。私の『サファイア』? いつまでこんなところに立たせておくつもりなの。早く部屋まで入れて頂戴」
「ベラ……。貴女と話すことは、俺にはない」
「あら、貴方に私を拒むことができるの? 拒んだところで無駄だとわかっているでしょう? こうして正面から来ているうちに家に上げなさい、セラフィン」
(正面から来ない場合はどんな手に出られるか分からない。それもまずい)
かつては共に過ごしたことがある女だ。敵には容赦がないことも知っている。
しかもまだここにきて数日のヴィオの名前まで探り当てているのだから、ヴィオを餌にセラフィンを脅すことだって考えられる。相手の目的が定かでない以上、出来るだけことを優位に運びたい。
勿論明日モルス家にヴィオを連れて行きさえすれば安全はほぼ確実に保障されるが、それよりも今この状態を打開せねばならない。セラフィンは慎重に動こうと相手の出方をうかがった。
一方ヴィオの方は女の有無を言わせぬ命令口調に震えあがっていた。ヴィオにはひたすら甘く優しいセラフィンがはじめて聞いた冷徹な声で対応しているのも恐ろしい。
セラフィンの背中に顔をくっつけるようにしているので、ヴィオからはセラフィンの顔は見えないが、二人は向かい合って対峙し続けている。
(事情は分からないけど、先生はこの女性を家にあげたくない。彼女は家に上がりたい。それだけはわかる)
ヴィオは急な展開について行かれずにきゅっとセラフィンの腕を掴んだまま。セラフィンは後ろ手にヴィオの手を強く握り返してくれた。
「どうするの? そこの可愛い子を攫って私のコレクションにしてあげてもいいのよ?」
彼女が赤い宝石が輝く右手を軽く上げると停車していた車のエンジンがかかる音がした。
「この子には指一本触れるな」
セラフィンがヴィオは聞いたことがないような低い声で無礼なほど相手を威嚇し唸ったので、ヴィオはなにかただ事でない気配を感じて固唾を飲んで行方を見守る。
女性相手とはいえ、とっさの時には先生を守らねばと考えると、地面を掴むようにして踏みしめた足に力がみなぎる。
しかしふとした瞬間、かくんと腰が抜けるような脱力感も感じ、ヴィオは初めて自分の身体がコントロールできない底しれぬ恐怖を感じて、凍りついた。
(抑制剤が切れてきたから? 身体に力が入らない。なんでなの?)
「せんせい」
戸惑うヴィオがそうセラフィンに呼びかけると、いつも通りの穏やかな声で返してくれた。
「ヴィオ。大丈夫だから」
痛いほどに握り合う互いの手だけがこの状況の中で唯一の真実に感じた。
背中にヴィオのぬくもりを感じながら、セラフィンが必死にヴィオを庇う様子に女は興味深げな顔をして目を僅かに目を細めてそんな二人を見下ろした。
「昔、貴方がまだその子ぐらい愛らしかった頃に、私にすべてを捧げてくれるって言ってくれたわね。あの約束は忘れたの?」
(私にすべてを、捧げる……)
その言葉に輪が耳を疑った。それは間違いなく愛の告白だ。この|女《ひと》は、間違いなく……。
(先生の恋人……?)
重苦しい沈黙の後、セラフィンは大きく息を吐き、今度はヴィオを抱き寄せて前に立たせ、その背を押すようにアパートメントの中に入っていった。
セラフィンの後ろから女が付いてくる気配がする。ヴィオはセラフィンの身体に包まれるようにして前を歩いた。鍵を開け、ヴィオを玄関に押し込んだ直後、セラフィンが耳元で低く囁いた。
「ヴィオ、この人と話があるからお前は部屋に入って鍵を閉め、けして出てきてはいけない。いいか、部屋の外で何があってもいいというまで。わかったね?」
そして背を強めに押される。早くいけという合図なのだろう。ヴィオは鬼気迫るセラフィンの声色に後ろを振り向かずに走りだした。足が多少ふらついたが何とか言われた通りにセラフィンの寝室の奥の部屋に滑り込む。そして扉の内側、ドアノブに掛けておいた鍵を使う。もしも急なヒートに万が一なった場合に使うようにと渡されていた、ヴィオが来てから取り付けられた鍵だったのだ。
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