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48 再会編 暗示

「なあに、|淑女《レディ》の前でばたばたと。あの子にもそばにいてもらえば良かったじゃない」  我が物顔でセラフィンの居住スペースを犯してきたかつての愛人は、女王のような風格で窓辺に立つと軽く手を上げ表に向かって合図を送る。 彼女の動きを集中して追っていたら、少しだけ前回の訪問時のことを思い出してきた。 (たしかこの間も、外に合図していた)  ベラはいつでも手下の男たちと行動を共にしていた。周到な彼女のことだから一定時間合図を送らなかった場合などは、手下に踏み込まれることも考えられる。とにかくヴィオの安全が第一だった。  短時間に色々頭を巡らせるが相手の出方が分からない以上、防戦に徹するに限る。  ヴィオ一人ならばあの場から逃げろと言われたら逃げきることはできただろう。対一般の人間ならば、追われたとして本気のフェル族の走りに叶うものはそういない。  しかし土地勘のないヴィオを抑制剤が切れかかった状態で無責任に街中に放つわけにはいかなかった。 (明日にはヴィオをモルス家へ連れて行く予定が、先回りされた)  そう、今一番の気がかりはヴィオは昼の分の抑制剤の効果が切れかかっていることだ。屋外でもあれほどの香りが抑制剤を欠かさず投薬している自分にすら洗い立ての石鹸のようなともなくばミュゲのようなヴィオの甘く清楚な香りをありありと感じることができた。 (家の中で俺が時間稼ぎをしている間中、部屋に閉じこもっていてくれたらじきにジルが来る。あいつも警官だから日頃から抑制剤を飲むことは義務付けられているし、ヴィオさえ保護してくれたらそれでいい)  それよりもベラに意識を混濁させられてしまった自分が、万が一ヴィオを噛んでしまったらそれこそ自分が許せなくなるだろう。  逆に言えば自分の中にヴィオを我が物にしたいという欲望があると確信しているからこそ、無意識に項を噛んでしまう可能性は高いと言えた。  こちらの心の奥深くまで犯してくるような女の昏い目を見つめ返しながらさらに最悪の状況を考えてぞっとする。セラフィンもアルファのフェロモンをこれでも出しているが、それにはまるで動じず立ちふさがる女の迫力はあの頃と変わらない。 (正直俺と番になるよりも、ずっとまずいな……。ヴィオ絶対に部屋から出ないでくれ) 「セラフィン。あの子、フェル族の子。貴方の恋人?」  セラフィンが即答できないでいるとベラは窓辺からふりむきセラフィンに近寄ってくる。 「首輪もしてない、噛み跡もない。そういうオメガを傍においてるってことはそういう関係じゃないの? 」 「……」  無論、今セラフィンにとって一番愛しい相手はヴィオであることは断言できるが、この女の前でそれをすることはリスクが伴う。 (下手にヴィオに興味をもたれたくない)  にじりよってくる女から一歩下がると嘲け笑いを浮かべられる。女はどんどんとセラフィンに向かって歩を進めると、赤い爪でセラフィンの肌が傷つかぬぎりぎりの強さをもって頬をなぞっていく。 「私があの子に何かしそうで怖いの? そんなに大事な子なの?」 「無駄話は好かない。今すぐお引取りを」  ベラは明らかに気分を害された顔をしたが、気を取り直したように大きく目を見開いて口だけでにっこりと微笑んだ。 「フフ。貴方には恋人も番もいない。私にもいない。何も問題ないじゃない? それに貴方がまだ私の暗示にかかるっていうことは、そういうことでしょ?」  まだ過去に囚われていることを指摘されてセラフィンは焦れ、女を怒りを込めて睨みつけた。 「五月蠅い。今更俺に何の用だ?」 「そういう口の聞き方はいやね。知ってるでしょ? あの頃と変わらずに綺麗なセラフィン。書影を見たとき懐かしくて堪らなくなったわ。研究もしっかり続けていたようで、偉いわね。ねぇ? 知ってるでしょう? 取り巻きは沢山いたって、アルファなのに妖しいほどに美しくて、私の中の『女の部分』を埋めるにふさわしいのは貴方だけ」 「貴女は俺を屈服させるのが好きなだけであって、俺を愛していたわけじゃないだろ」 「違うわ。私は私を丸ごと受け入れてくれる|存在《ひと》が欲しかっただけよ? 拒んだのは貴方」 「……愛していると思った時期もあった。でも支配は愛じゃない」 (結局あれからベラもすべてを受け止めてくれる相手に巡り会えなかったから、今更こうしてここに来た。少し前の俺と変わらない。俺たちは似た者同士、負け犬同士だ) ベラの闇夜のような瞳に燃え立つような赤い光が見えてくる。 (暗示をかけられるかもしれないが、俺はあの頃とは違う)  女が胸元に挟んで持っていたガラスのアンプルをテーブルの上に投げつけるとそれは砕け散って紫の小瓶の、ソフィアリの香りが強く香り立つ。  それが暗示の引き金になることは薄々承知していたが、ヴィオを守り時間稼ぎをするためにはやむを得ない。それに自力でこの暗示にあらがってやりたいという意地も出てきた。アルファとして、彼女に負けるわけにはいかなかった。 『セラフィン、昔みたいに情熱的に私を抱きなさい』  かつては暗示と共に響いていたソフィアリの自分を求める声はもう聞こえない。しかし身体は自由な動きを封じられ、女が差し出した指先をセラフィンは夢遊病者のような足取りで近寄り手に取った。

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