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49 再会編 無垢な瞳
震える手で鍵を握りしめたまま、ヴィオは様子がおかしかった先生とあの女性、二人が何を話しているのか気になっていた。二人が部屋にいるのかもわからないが戸口に耳を押し付けていた。
しかし丈夫なのが取り柄のヴィオなのに、いつになく身体が怠くなってきて、そのままずるずると床まで滑り落ちた。冷たい床が心地よく感じるほどにひやりと心地よく感じる。
引いたままの分厚いマットレスの方に転がっていって身体半分乗り上げ、しかしまたセラフィンが気になってゆるく腕の力だけで起き上がり、またぱたりと倒れる。そんなことを続けていたけれどどのくらい時間が経ったのか分からないが、小さな窓から差し込んでくる月の角度は少し変わった気がした。
ふいに寝室の扉が開かれた音がした。
(先生が僕を呼びに来てくれた?)
子犬のように扉まで四つん這いで近づいて、戸に張り付くように座った。
明かりをつけることすら忘れた衣裳部屋の戸口の隙間から、寝室の明かりが漏れてきた。そしてふわりと漂ってく瑞々しい花々のような華やいだ香り。
(なんの香りだろう? 甘くて、綺麗な匂い)
戸にもたれ膝を抱えたまま真っ暗な部屋の中、ヴィオは中の様子が気になって、いけないと思いつつもそっと鍵穴から中を覗き見た。
(先生、とあの|女《ひと》)
白い上下を着たセラフィンと闇に溶け込んでいるような妖艶なドレスの女。間接照明に二人の姿が浮かんで見える。
寝室の中に入ってきた二人はちょうどヴィオのいる部屋の真正面、セラフィンが使っている大きな寝台の隣に立っている。ヴィオからは横向きで向かい合う二人が見えた。
背が高く身体が大きな女性が、その前にはセラフィンがまるで魔物に操られた人のように女が軽く触れた指先の動きに沿ってゆらりとゆっくり揺れながら立っている。
それはセラフィンの美貌と相まって、幻想的な光景だと言えた。セラフィンは何故か眉根を深く顰めた苦し気な表情のまま瞑目し、女はそんなセラフィンの頬に赤い爪が鈍く光る長い指を這わせて掴み上げるようにした。
そして女性にしては大きく真っ赤な唇をゆっくりよせ、ねっとりと口紅がセラフィンのそれを汚すほど激しく唇を合わせる。そのまま彼の白いシャツを引き裂き、脱ぐとなお逞しい胸元に手を這わしていく。セラフィンの顔は女の影に入りこちらからは見えないが、その光景はヴィオの胸を大きく穿ち、ヴィオはよろよろと自らのマットレスまで這って戻ると上掛けを被って丸くなって震えて泣いた。
(どうして、なんで! ここに僕がいるのに! 早く僕が里に帰ればいいと思ったから? だからこんなところを見せるの? 家に入れるのをあんなに拒んでいたのに、急にあの女の人の言うがままになって、先生どうしてなの?)
つい数刻前までヴィオだけを見つめて微笑んでくれたセラフィンが、今はあの女性と口づけを交わしている。
『セラフィン、跪いて私の足に口づけなさい』
尊大で低い命令口調で女がセラフィンに言い放つ声がヴィオの耳にまで聞こえてきた。震えあがったヴィオは涙を零しながらそれでも起き上がって目をこする。
とてもここにはいられない。窓辺から差す月明かりを頼りに自分のリュックを這いながら探り当て、手元に引き寄せ胸に抱き寄せた。
しかし、布がさけるような音と共に呻き声と、どさっという鈍く大きな音な物音がしたのだ。
ヴィオは重たい身体を一瞬忘れ、はじかれたように飛び起きて戸口に再び寄る。急に動いたから少し眩暈がして身体が少しかしいだが、先生に何かあったのかといてもたってもいられなくなったのだ。
そしてヴィオはぷっくりと果実のように赤い唇を噛みしめながら、震える指先で鍵を開け、ふらつきながらも部屋を転げでてきた。
「あら、自分から出てきてくれたのね? 愛らしい香り……。可愛いわね、坊や」
「先生! 」
蒼白な顔のまま意識が朦朧としているのか床に上向きに倒れこんでいるセラフィンと、彼の胸を思いがけぬほど筋肉質な長い脚でもって踏みつけながら、自らは寝台の上で堂々と脚を組み座った女が真っ赤な唇を吊り上げる。
それは魔物を操るという伝説の魔女のような恐ろしく淫蕩な笑みだった。
女が掴み上げていたセラフィンの髪を放す。その乱暴な仕草にヴィオは震えあがり、さらに息がないと一瞬思うほどぐったりとしたセラフィンの姿を目にして慄いた。
セラフィンは女に無残にも裂かれた衣服の間から、鍛え上げられた上半身を晒し、完全に虚脱し気を失っている。首元と手をついていた胸元にベッタリと赤い手の跡があり、項には噛み跡が血を流す。ヴィオもそれをみて一瞬気を失いそうにあった。
しかし眼下に広がる恐怖の光景を前にしても、ヴィオは気力を振り絞って声を上げた。
「先生、しっかりして」
「鍵をあけちゃダメって言われたでしょ? 言いつけが守れない悪い子ね」
その口ぶりに怒りすら感じながら立ちすくむヴィオに向かい、ベラはそこにぽっかり暗い穴があるように見える昏い瞳を向けてきた。
「どう? 愛する人のこんな姿を見たら幻滅するでしょ? でもセラフィンが悪いのよ。私のいうことを聞いてくれないから、まだ自分が誰のもののままなのかって、身体に教え込んであげようと思ったのよ」
「僕は、先生の恋人じゃない」
「あら? そうなの? 私てっきり……」
「でも貴女も恋人じゃない。恋人だったら、好きな人にこんなこと絶対にしない」
ヴィオはセラフィンのもとに歩み寄ると、涙をぽろぽろとこぼしながらその頬を両手で温める様に摺り上げた。
「こんなに冷たくなってる。先生、目を醒まさないよ。貴女は先生に何をしたの? ひどいよ……」
泣きながら落ちかけていたシーツごと上掛けを引っ張ってセラフィンの身体を半ば包み、ヴィオは彼の重たい上半身を一生懸命わが胸に抱き起した。目をつぶったまま長い睫毛がピクリとも動かない。セラフィンの髪が乱れ露出した白い額に口づけを落として頬ずりを繰り返す。
「驚いた…… 貴方本当に無垢なのね」
わざとヴィオの位置からも見える様に情事の場面を目撃させた挑発し部屋から飛び出すようにしむけたわけだが、フェル族の少年は嫉妬や怒りより先にセラフィンの身を案じていた。ヴィオのその姿はベラにかつての半身を思い起こさせる。
「セラフィンに恋するあまり私を悪者にしているの。ひどいわ」
女はそんな風にしおらし気にいって今度はヴィオの髪を掴み上げた。ヴィオは彼女の挑発には応じず、きりっと結んでいた唇を開くとはっきりと告げた。
「先生のことは僕が一方的に慕っているだけ。先生は僕の大切な人。先生に何かあったら、僕はあなたを許さない。先生に何をしたの?!」
女はヴィオに向かって眩し気に目を細めると、赤い唇を歪ませずに弧を描いて微笑みかけてきた。婀娜っぽいそれではなく素顔を垣間見せたような笑み。ヴィオにはそれが意外にうつる。
ヴィオは瞳の中に燃える太陽の環を煌かせて真っすぐにじっと彼女を見据えたままだ。ベラは根負けしたように色っぽく息を吐く。
「そうね。前回よりも暗示が効きにくくて、抵抗がひどくてぜんぜん思うとおりに動きやしないわ。まあ、この前もあんなにつまらないセックスったらなかったわね。流石にもう、セラフィンの一番はこれじゃあないのかもしれないわ」
女はつまらなそうな顔をして、寝台の上に転がっていた青紫の香水瓶に手を伸ばし、ヴィオの頭上で腕を蛇のようにしならせながら一吹きした。
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