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番外編 青年期 ポスターの肖像 4

 年の頃なら父親世代の穏やかな軍医の後押しを受けた甲斐があり、ジルは意中のセラフィンを飲み会に誘うことに成功した。しかし白衣から私服に着替え(たいした時間はかからなそうな)があるという本人に巻かれないとも限らない。寮で同室の男に集合先の店名を手早く伝えると、急いで医務室のある建物の玄関まで戻ってきた。どうせ郊外にあるこの演習場から市街地に戻るまでは専用のバスに乗らないといけない。もれなくここを通ると踏んだからだ。  案の定、バスの停留位置に先回りしていたジルにセラフィンは僅かに驚いた顔を見せると、流石に避けるわけにはいかずジルの後ろに並んで立った。 「先生、ご準備早かったですね。店はバスの停留所から近いんですけど、迷うといけないんで一緒に行きましょう」  見るからに嫌な奴やら、見るからに色目を使ってくるような輩だったら今までもツヤはそれとなくセラフィンから遠ざけてくれもした。もちろん、セラフィンに懸想して互いに喧嘩になった看護師たちからも。しかしジルは明らかに育ちのよさそうな優し気な青年で、ツヤのお眼鏡にかかってしまったのだろう。ものすごく無邪気な笑顔が逆に忌々しい。  セラフィンは苦々し気に眉をひそめながら診療中にかけていたのと同じ銀色の縁の眼鏡のブリッジをたくし上げた。  バスの中でも色々と話しかけたのだけど、セラフィンは『ああ』だの『いいや』だのしか答えず取り付く島も与えない。  しかしジルはどちらかといえば気が長い方で姉がいるせいもあって相手にあわせるもの嫌いじゃないのだ。今回は妙に強引な自分が出てきているが、本来はこんな強硬な手段にでるタイプではない。今回は特別。あんなにも少年期に焦がれたポスターの中の人物に瓜二つな顔に出会えたのだ。血縁の関りがないはずはない。このまま会えなくなってしまうことが惜しくてたまらなくなってしまったのだ。  こうして巡り合えたのは何かの運命だとジルは湧き上がる歓喜が抑えきれないのを感じていた。  バスを降りた後もセラフィンはさっさとどこかに行きそうだったので、ジルはにっこり笑いながら店までエスコートした。といってもセラフィンは背が高く、ほかの警官や軍人と比べたらもちろんほっそりしているが、均整がとれた美しい体つきをしているので、どちらかといえば王子様とお付きの騎士といったていであったが。  皆で待ち合わせをしてそれぞれが気ままに集まってくる予定の店は、軍の寮から遠くないので軍人のたまり場とのこと。このあたりで一番広くて値段も手ごろ多少騒いでも周りに迷惑をかけないと、今回演習で一緒で仲良くなった軍の若手に教えてもらった店だ。  黄昏時、夕日が差し込む扉を開けると中からはすでにムッとした熱気と飲食店特有の臭気が抜けてきた。彼ら以外にも見るからに活きのよさそうな若い男ばかりが集まってがやがやととにかく忙しない。 次のバス、次のバスと30分遅れでバスが停留場につくたび、店内は大男で賑わってきた。  食べ物と酒、そしてたばこの煙までもがぐちゃぐちゃに交わった薄暗い店内。  騒がしいのが苦手なセラフィンは一番苦手としている場所で最初からへきへきしている。そんな一番端っこの席にいるセラフィンをさらに壁際に押し付ける勢いで隣にジルが座ってきたため、狭すぎて身動きすらできない。 セラフィンはいらいらしてぐいっとジルの肩を押しのけた。 「おい、狭い! 邪魔だ」 「あ、はいはい。すみません」  ジルは何が楽しいのか他の友人たちの輪には加わらず、じっと壁側のセラフィンの顔を見つめては、にやにやしながら豪快に安酒を飲んでいる。 額を切ったばかりで本当はあまり飲酒は好ましくないとは思うが、まるで気にしていないようだ。大学を出たばかりというから、この中では若い方だろうが、この酒の席も彼が声をかけて開いたらしいがそんなに人望があるのか?  「お前、俺と酒を飲んで楽しいのか? あっちのやつらに交じってこい。」 「楽しいですよ」 「俺のことを何も知らないくせにな」  するとまたあの、甘ったるい顔をジルがしてきたのでセラフィンは安酒をぐびりと飲んで、口に合わずにすぐにカップをしみだらけの机の上に置いた。 「知ってますよ。その顔だけはずっと」  元々陽気であまり後先を考えないタイプのジルは、このまま今夜セラフィンと親しくなってしまいたくて、駆け引き抜きでぐいぐい押すことにしていた。  ジルは女性から好まれそうな年下の若者らしい優し気な顔で頬に肘をつきながら、またセラフィンの顔を絵画でも見るような熱心さで眺めてきた。  セラフィンは眉を顰めたまま記憶を辿ってみるが、あまり思い出したくもない学生時代を紐解いても、見知った顔でもなし。そもそも年は多分ジルの方が2.3個下だ。セラフィンが15歳からの8年近くも外国で過ごして帰国したのは昨年のこと。学校で重なってはいないと思う。しかし一つの可能性が思わず口をついてできてしまった。 「顔? お前…… ソフィーを知っているのか?」 「ソフィー?」  その名を口にするだけでまだ胸がずきずきと痛むのだ。ジルの薄い黄色い緑が混じった向日葵のような色合いの目がきょとんと見開かれた。その顔は知らない顔だ。余計なことを言ってしまったとセラフィンは眼鏡をかけた顔を伏せる。また横を向いてしまったセラフィンの白い貌に、ジルは女性を口説くときよりもずっと砕けた調子で彼の肩に手をかけようとして振り払われた。  しかしジルはまるでへこたれない。稀にみるしつこさにやはりくるのではなかったとセラフィンは座席下に置いた鞄の持ち手を探りながら、早くも帰り支度をはじめようとした。 「ねえ、先生。眼鏡外してくださいよ。それでもってそのくくった綺麗な髪の毛下ろして、それからそのカップ持って俺の方を向いて下さい」 「なんで俺がそんなことしないとならないんだ」 「先生のそれ、眼鏡。その顔隠してるんですか? 演習場ではかけてなかったですよね? 綺麗な顔なのにもったいない」 「あの、くそ暴れるやつらを縫うのに眼鏡してると危ないだろうが。それとたまにお前のような輩にしつこくされるからだ」 「俺以外にもいるってわけですかね。ポスターみてその顔好きになった人」 「ポスター?」  およそ好意的な反応とは言えなかったが、やっと自分の方を向いたセラフィンに、ジルは得意げに語り出した。 「香水のポスター。先生そこに描かれていた人によく似ているんです。その人は俺の初恋と言っても過言じゃないです! 昔、姉に連れられて紫の小瓶っていう香水を買ったんですけど、それが珍しいオメガのフェロモンを模した香水で、ハレヘって街のメルト・アスター香水店で作ってるって代物で……」  顔色が変わったセラフィンが突然テーブルを揺らしながら立ち上がった拍子にまだ半ばまでしか減らしていなかった飲んでいなかった酒のカップが倒れて、前の席の男に降りかかってしまった。 「おい、お前! 服が濡れただろうが」 「申し訳ありません」  即座に反応したのはジルの方だった。すぐさま母親に叩き込まれた洗練された仕草で詫びを入れると、洗濯の行き届いたチーフを相手に手渡して謝った。  相手が自分たちの仲間ではないとわかっていたし、みながここに座りたがらなかったのは、その身体の厳つさ、大きさから、若手にとっては先輩にあたる軍関係者なのだろうと把握していたからだ。  その場は収まったかのように見えたが、そのあとのセラフィンのとった行動が悪かった。鞄を掴むと詫びも入れずに札を投げつけるようにテーブルに置き、踵を返して店を出ていこうとした。 「ふざけんな! 議員の息子だか弟だか知らないが、コネで軍に入ったお坊ちゃまは、俺ら下賤のものには詫びもいれられないのか」  かなり大きな声で一括され、流石に周りがざわつき始めた。 「なにかあったのか? 」

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