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番外編 青年期 ポスターの肖像 5
ジルが仲の良くなった軍側の青年がどちらかといえば入口付近から声を上げながら駆けつけてくれた。
彼は服を汚された男は顔見知りだったようだ。怒りをあらわにした男に彼もすぐさまジルに習って頭を下げた。
「申し訳ありません」
男はセラフィンから目を反らさず不快感も顕な様子で透明な酒に浸った服をハンカチでゴシゴシ擦りつける。
「お前たちが謝る必要などない。俺はこの男に言っているんだ」
恫喝にも似た声をセラフィンのすらりと伸びた背中に向けて投げつけてくる。
「大きな声を出さなくても聞こえてる。弱い犬がキャンキャン騒いで煩い」
いいしなようやくセラフィンは振り返ると、苛ついた表情で眼鏡をネイビーブルーのジャケットの胸ポケットにしまうと、結んだ髪が乱れるほどにがしがしとかきむしりながら低い声で毒づいた。
「酒をこぼしたのは悪かったが、そのあとの台詞は不愉快だな。俺は軍医だ。実際お前の方が格下だろ?」
「なんだと!」
酒を腹部にかけられた男は立ち上がると、周りの男たちの中でもさらに見上げる程の大男だ。年もセラフィンやジルより大分上に見える。鍛え上げられた太い腕や手などセラフィンの小さな頭などそのまま潰されそうなほどの巨躯だ。正直この体格差でどうしてこんなにもセラフィンが傲岸不遜な態度に出られるのかジルにはさっぱりわからなかった。
背丈はあるが兵士の中では姿形が整っている分華奢にみえるセラフィンはしかしまるで臆せずにいる。彼を凄みの利いた青い目で睨みつけ、一触即発の雰囲気が徐々に高まっていく。
先に手を出したのは軍の男の方だった。当然だろう。ここまでコケにされて引き下がるわけには部下の手前行かないはずだ。周りが止める前に大きな手でセラフィンの胸倉を掴み上げ酒が回った赤ら顔をぐっと近づけた。
「その綺麗な面、一発で形を変えてやることもできるんだぞ」
「煩い。そっちこそ汚い面を近づけるな。地べたに這いつくばわせてやるぞ」
良く通る冷たい声は冴え冴えとした美貌と相まって余計に男の神経を逆なでしたようだ。
「は? そんな細い腕でなにができるっていうんだ?」
嘲りを帯びた笑いは周りにも広がっていた。確かにどう見てもセラフィンの方が分が悪いに決まっている。『やめとけよ』や『手加減してやれ』の声が取り囲んだ周囲の人垣からも漏れ聞こえる。しかし男は脅かすつもりでぎゅうぎゅうとセラフィンの喉元を締め上げる。
「素直に詫びて、その綺麗な顔でお酌でもしてくれたら許してやるぜ」
セラフィンは寧ろ色っぽいと形容できそうなほど、妖艶な表情をして一瞬苦し気に眉を顰めた。男で上背もある相手だというのに、思わず男も見惚れかけ、妙な嗜虐心からさらに力を込めて落としにかかってこようとする。
「やめてください! 顔は!」
冗談みたいなセリフだがジルは実際にそう叫んで二人の間に割り込もうとした。その時、セラフィンの瞳が炯炯とした光を湛えて見開かれ、薄い唇がにやりとめくりあがる。
「え?」
一瞬、ジルは視界が歪んだようになってぐらっと揺れるのを感じて、しかし思わずテーブルに手をついて踏みとどまった。
しかし周りからは、がちゃん、ばたん、ガタガタと音がして、次々に人が倒れたり、足をついたりとしていく。頭がパニックになって上を向くと、さらに横にいた友人が思い切りジルに倒れ掛かってきた。それを瞬時に身体を立て直してなんとか支えて顔を上げると、そこには驚きの光景が広がっていたのだった。
まるでセラフィンが爆心地になったかのように、腕が振れないほどの遠い距離の人間までもがバタバタと膝をつき、腰を抜かしたように倒れこんでいた。
全員が全員、軍や警察の関係者ではないが、卒倒しているものの中には一般の客も混じっていた、周囲がざわざわとし始めて、少し離れたところにいるもの中には口元を手で覆っている者もいる。
入り口付近に立っていた店主が慌てて金切り声を上げて怒鳴り散らした。
「騒ぎは御免だよ! 喧嘩か? 一体なんだってこんなことになったんだ!」
「先生、あんたいったい何をしたんだ…… まさか、毒でもばらまいたのか?」
「お前立っていられたんだな? ふうん」
店のオレンジ色の明かりに暗く光る瞳が検分するように細められ、ジルは彼から診察を受けているか、もしくは実験動物にでもなった気分だった。
セラフィンは形良い大きな目をふっとジルからそらすと、白皙の美貌に冷たい笑みを浮かべたまま周りをぐるりと一周酒場を見渡す。
立っていたはずが椅子に沈み込むように座り込んでいた喧嘩相手が頭に手を当てながらゆっくり立ち上がってきた。それを素早く目にとめたセラフィンはすぐさま出入口まで倒れた人々を長い脚で踏み越えながらその場を立ち去ろうとした。
一瞬惚けていたジルだが、もちろん慌ててそのあとを追いかけ、肩に手をかけ無理やり振り返らせた。覗き込んだ顔はもう笑ってはいなかった。ただ感情が抜け落ちたような昏い目をしていることが、逆に焦がれたポスターの人物とは違う、生々しいまでの感情が伝わってきてジルは胸を鷲掴みにされた。波打つ感情を悟られまいと、セラフィンの良心に訴えかけるように言い縋る。
「あなた医者でしょう? ちゃんと皆を診てやってくださいよ。一斉に倒れるなんておかしい」
「皆直ぐに起き出すさ。ほんの脅し程度にしか出してない。……だから酒の席なんて嫌だって言ったんだ。お前は戻って皆を介抱でもなんでもしてやれ。俺はもう帰る」
その手をすぐに振り払いながら、セラフィンは長い髪を翻して店を勢いよく飛び出した。
「そんな。待ってください」
店の外はすぐに大きな道路があり、セラフィンは素早く反対側に渡ってしまったが、タイミングが悪く車や人の往来があってジルは行く手を遮られた。
足早に中央の煌びやかな夜の雑踏を歩くセラフィンを、それでもジルは自慢の脚で駆けすぐに追いすがる。しかし負けじとセラフィンも長い脚で牡鹿のように駆け出して、ちょうど通りがかった黒光りするタクシーを止めて乗り込こもうとした。
「ロット街、二丁目まで」
しかし車に乗って安堵した瞬間を奇襲され、ジルが素早く車に乗り込んできて運転手に出発の合図を送った。止めようとするセラフィンの口元を指の長い掌で押さえつけると、運転手は二人のただならぬ雰囲気を察して車を滑るように発進させた。
「お前までなんで! 勝手に乗り込むな」
「ちゃんとさっきのことを説明してください。あなただってあんな騒ぎを起こして、ただで済むはずないですよね?」
「煩い。向こうに掴みかかられたから応戦したまでだ。お前も見ていただろ?侮辱もされた」
「でもその前に貴方が酒をこぼして謝らなかったから」
「それはお前が変なことをいうから! 」
「どう変なことなんです? それを俺に話してください」
「お前に関係ない」
「あなたは思ったよりも支離滅裂な人ですね」
「お前こそ、思ったよりもずっと性格が悪い!」
「お互い様です」
つーんとそっぽを向いたセラフィンの顔がガラスに映り、ジルはもやもやとした怒りがこみ上げつつもしかしその顔を盗み見てしまった。
(見れば見る程ポスターの肖像にそっくりだ。絶対に血縁関係があるに違いないのに。こんなに近くであの顔を見られるチャンスだっていうのに俺は…… なんだってこんなことになったんだ)
しかしお互い少しずつヒートダウンしてきて、静かに進む車の揺れ、外から聞こえるクラクションの音、穏やかな雑音を聞いて黙りこくっていた。
大分たってから、セラフィンが滑らかで艶のある落ち着いた声色で吐息をつきながらジルに謝ってきた。
「悪かった…… 頭に血が上りやすいのは俺の欠点だ。それでなんでも急いてしまって大事なものを失ったり、馬鹿をやったり。いい加減大人になったし吹っ切れたと思ってたんだが、駄目だったな。年下の君に当たることではなかった」
急に勝ち気な眉を下げしおらしい表情をしてジルを見てきたものだから、急にどきどきと胸が高鳴ってしまった。
「いえ…… 気の進まなそうだった先生を無理やり連れてきてしまったのは俺の責任です」
素直にそう謝るとセラフィンが初めてジルに向かって口元を僅かにゆがませるようにして微笑んだ。
(やばい、笑った顔、綺麗すぎる。このはにかんだ感じがたまらない)
「頭に血が上りやすいようには見えないのに、俺が何か気に障ることを言ったからですか? そのポスターの人物が俺の初恋で、先生にその絵の人が似てるとかそんなこといったから。男にそんなこと言われるの、嫌ですよね?」
あえて低く落ちついた声色を意識しながらジルはじっとガラスに映ったセラフィンの目と視線を絡ませる。目が合うとセラフィンは色香の溢れる長い睫毛を伏せて、肩が触れ合うほど近くにいるジルを振り返って見つめてきた。
「お前、この顔が好きなのか?」
「はい。昔から。焦がれ続けてます」
真面目に話したつもりだが、息をつくようにふっとセラフィンは微笑する。
「いい趣味だな。俺と気が合う」
その顔はなんだかすごく寂し気に見えて胸をぎゅっと絞られたような切なさがジルを襲った。本当だったら酒を飲んで、美味しいものを食べて、得意の馬鹿話でもしたかった。そうしてジルにとっての理想の詰まった愛しい顔が嬉しそうに笑うところを見たかっただけなのに。
車は目的地で止まるとセラフィンが金を多めに払って運転手に声をかけた。
「彼を元居た場所に連れて戻ってください」
「いえ、俺もここでおります」
セラフィンが止める前にさっさとジルは車を降りて運転手に指示を出してしまった。またも呆れかえるセラフィンに可愛いともいえる表情を見せてにこっと笑いかける。
「荷物を店に置いてきてしまって、もうみな解散していたら誰かが寮に持ち帰っているかもしれないので無一文です。
先生のところに一晩おいてもらったら、明日は朝早くから走って実家まで帰ります。1時間も走ればこの街からなら帰れると思いますので」
また強引に一歩近づいてきたジルに、セラフィンはあきれるのを通り越してもう何かを言う元気はなくなってしまった。
実は軍の病院の勤務から休みなく演習場の方に回されて今日で7日目。連続勤務が終わるところでもあったので、どうにも心身ともに弱っていた時期だったのかもしれない。
日頃は恵まれた体格から見た目よりもずっとタフなセラフィンだが、今日は心を波打たされることが多くて思ったよりもずっと参ってしまった。精いっぱいの虚勢で頑張ってみたのだが流石に体力の限界だったようだ。
これ以上ここで元気の有り余っている男と悶着を起こすこと自体が疲れてしまい、静かにこうつぶやいた。
「こいよ。家はこっちだ」
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