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番外編 青年期 ポスターの肖像 6

 セラフィンは大豪邸にすむ貴族の若様といった雰囲気だから、少なくとも今どきの独身者が好む豪奢なアパートメントにでも住んでいるか思った。  しかし早足の彼に負けじとついていった先は、高級な住宅の立ち並ぶこの界隈にしては意外と質素な外観のアパートメントの、その3階という中途半端な階の部屋だった。もちろんこの若さでこの界隈に住めていること自体がジルとの格の違いなのだろうが。彼女を連れてくることもできないと皆が嘆く、狭くて古いジルの寮の相部屋とは比べるまでもない。  ガチャガチャと鉄の扉を開けると、中は真っ暗だった。ただいまという相手を持たないセラフィンはすぐに手慣れた様子で窓から漏れる明かりを頼りに居間の間接照明をつける。ダイニングを抜けて、リビングまでくるとまた明かりを灯した。窓辺に置かれた棚の上には、写真たてと共に雑多に書類の束や本が床にまで積み上げられて置かれ、その背表紙の言語も多種多様だ。  明らかに貴族出身だろうなあというような洗練された身のこなしとにじみ出る品の良さから浮世離れしたものを感じるが、意外と地に足がついて生きている人なのかもしれない。ますますセラフィンに対しての興味がわいてきた。 「寝に帰るだけだから、大したものはおいていない。座るところを作るから待ってろ」  棚の手前にあるカウチの周り、果てはその上まで本が山積みであったが、セラフィンががさがさと大雑把に床にどかして指をさした。本人も着ていたジャケットを手早く脱ぐと、金属製の洋服掛けに手早くかけながらジルに命じる。 「ここにでも座ってろ。俺は湯浴びしてくる。終わったら交代にお前が入れ」  それは非常に日常的な言葉かけで、勝手に彼に神秘的ななにかを求めていたジルは拍子抜けしてしまった。 (そもそも俺、何でここまでついてきた? 先生と話がしたかったから? もっと知りたいって思ったから? それともただ通常の警ら勤務からいきなり演習に行かされて、ずっと連日勤務で久々の休みで気持ちが変に舞い上がったから?)  ポスターの麗人(と勝手に心の中で呼んでいた)はジルにとってはひたすらに美しい思い出の中の手の届かない存在であり、本や演劇の主人公の様に現実味を帯びているわけではない。  ただ愛でたいと憧れていただけであり、話をしてみたいとかあまつさえ恋人になってみたいとかそういった感情とはまた違う。  なのに同じ顔をした相手が気になってしょうがないなんてこれは一体どういった感情なのだろうか。  そんな益体もなく考えているとどこからともなく「にゃーん」と猫の泣き声が聞こえてきた。  扉の隙間から真っ白で目が真っ青な、飼い主によく似た雰囲気を持つ成猫が長い尻尾をゆらゆらと揺らしながらジルに向かってきた。 「ご主人似で美人だ。可愛いなあ。おいで」  すると言葉がわかっているかのように猫はジルの脛にすり寄ったのちに、音もしないほどの軽やかさで膝の上に飛び乗ってきた。 「懐っこいなあ。飼い主様もこのくらい懐っこかったらいいのに」  逆にセラフィンはまだあっていくばくもたっていない自分をどうして部屋にまで招いてくれたのか。突っぱねようとすればできたはずだ。  それでも招いたということは少しぐらいはジルに興味を抱いてくれたのだろうか。 「おい、入れ。タオルとローブはこれを使え」  一瞬息をのんでしまった。落ち着いた部屋の照明の中、仄暗く浮かび上がる真っ白な身体。白い長めのバスローブを身にまとい、胸元ははだけ気味、濡れた長い黒髪を胸上まで纏わりつかせた姿は、あまりにもポスターの麗人を彷彿とさせてジルの鼓動はおのずと高鳴った。 「おい! 聞いてるのか?」  眠さと疲れとロクに食べ物にもありつけていなかった空腹でイライラしたセラフィンは呆けていたジルの顔をめがけて勢いよくタオルとローブを投げつけてきた。  飼い主の気持ちを察してから、猫はちゃんと彼のもとに向かうと今度は滑らかな脛にすり寄った。柔らかな毛並みを確かめるような仕草でセラフィンが猫を抱き上げると瞳を細めて優しい仕草で愛おし気に頬ずりした。 (先生こんな柔らかい表情もできるんだ) 「ただいま。ソフィー」 「ソフィー?」  ジルが聞きとがめると、セラフィンは途端にバツの悪そうな顔をして髪から水滴を飛ばしながらそっぽを向いてしまった。 「早くシャワーを浴びて来いよ。泥だけだろう? 顔の傷は出てきたら手当てするからテープとガーゼは外してもいい。できるだけ水がかからなくするんだぞ」 「先生意外と面倒見がいいんですね? それとも俺に興味をもってくれたんですか?」  猫を地面に置いて立ち上がったセラフィンに、ジルはタオルとローブを手にすれ違いざま低いしっとりした声色で耳元に囁く。セラフィンは変わらぬ目線の高さで色っぽい流し目を送る。そして負けぬほど低く艶のある声で応じてきた。 「そうかもな。例えば、お前のバース性とか」 「先生も年寄りみたいにバース性で人を判断するタイプですか? 俺やなんですよね」 「で? どうなんだ?」 「はあ。まあ先生だから正直に話すとちゃんと検査受けてないんです。俺」 「普通15歳の時に学校でするものだろ? それに警察に入職するときに書かなかったのか?」 「今は法が整備されて入職時のバース性の記載有無は問われませんよ。15歳の時の検査は体調悪くて休んだ日に当たったから受けてなかっただけで…… 自分でいく再検査は実費もかかるから高いし。俺んち母さんと姉さんしかいなくて義兄さんに援助してもらってたのもあるから悪くって。それに俺、別にバース性どれでもどうでもいいかなって思って」 「信じられないな。今どきのこの国の若い奴はこんな感じなのか?」 「いまどきって。先生俺と大して年変わらないですよね?」 「俺は外国生活が長かったからな…… 離れている間にこの国は大分変ってしまったらしいな」  そういった顔はまたあの寂し気な表情で、なんだか放っておけなくなる。自分と同じくらい立派な体格の大人の男性なのに、ジルは彼を抱きしめたい衝動をタオルをぎゅっと握って逃した。 「アルファって方が就職に有利になるだろうからわざわざ言って歩くような奴なら、能力はたかが知れてるってものでしょう? 人間どんな資質を持っていたとしても、何ができるかが大事なんであって、俺はそれを証明しさえすればバース性なんでなんでもいいんだ」 「そうだな。それはお前の言うことに一理ある」  その答えにはセラフィンには納得して微笑み、ジルの頭を傷に触らない程度にくしゃくしゃと年上らしい仕草で撫ぜてやると、自分はカウチに戻ってすぐに追ってきた愛猫と共に腰を掛けた。

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