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61 略奪編 ジブリール・モルス

本篇に戻ってまいりました。香りの虜囚以来、久しぶりのジブリール(セラフィンたちモルス4兄弟の母)登場です。 その日、やんごとなき貴婦人であるジブリール・モルスは朝からそわそわしていた。 というのも15歳の時から留学し、帰国後10年近く近所に住んでいるというのに生家にまるで寄りつかない末の息子が本当に久しぶりに帰ってくるというのだから。 手紙のやり取りはするものの、今は便利な電話があるのに声を聞かせてはくれない。もっぱら話はマリア伝いに伝言されるばかりであったのに。 (きっときっと、何か大切な話を直接したいんだわ。そうに違いないわ) 前回セラフィンが自ら生家を訪ねてきたのは今から5年前。その時は兄バルクと父ラファエロに頼まれてソフィアリの番であるラグの故郷の里を訪れ、その近況を報告しに来た。そしてジブリールに彼女が支援している団体を通じて学校を作ることができないかソフィアリは自らそう申し出てきたのだった。 それはジブリールにとって意外過ぎる展開で、もちろん他の家族も誰もが驚いていた。 セラフィン話によればドリの里は思った以上に壊滅的な被害を受けており、もはや里としての機能は失われているということ。国からの支援は人々の間で分散しており、うまく役立てられておらず里を再興したいものとよその土地で一からやり直すものの中で対立が生まれて中途半端な復興を果たしたこと。また地域社会の中で彼らは孤立してしまったため、子どもたちは満足に学校にも通えていないと。 ジブリールはその話に胸を痛めていた。もしも里に彼が戻れていたら。社会的にマイノリティまた精神的な支柱として里の人々を求心できたであろう国の英雄にしてその里の出身であるラグ・ドリ。しかし彼は息子のソフィアリを支え守る番としてけしてハレヘの街を離れることはできない。つまりは彼をいわば『引き抜いた』モルス家にもそれ相応の責任もあるとセラフィンはいいつのり、それは確かに一理あると父もバルクも考えていたようだ。 『もちろん、俺にできることならばなんでも協力したいと思っている」 セラフィンが複雑な感情を抱えていたはずの『ドリの里』のため、ここまで言わしめる程の何かがあの里にあったのだろうが。しかしそれにしても急な彼の変化に家族は皆不思議に思ったものだった。 その話し合い以来再びぱたりと実家に寄りつかなかったセラフィンが、どうやら大切な客人を連れて帰ってくるらしい。 夫のラファエロの耳にもその一報ははいっていたが、彼は抜けられぬ用事があり、できるだけセラフィンとその客人を夜まで屋敷に留めるようにとクギを刺しつつ後ろ髪をひかれながら出かけていったのだ。 「せっかくだから、中庭でゆっくりおしゃべりがしたいわ」 そんなジブリールの思い付きで白や黄色の夏薔薇に囲まれた中庭の東屋は美しいティールームに仕立てられた。お気に入りのティーセットを運ばせて、備え付けられたつるりとした白い大理石のテーブルに明るいレモン色のテーブルクロスを引き、夏薔薇にミツバチが飛んだ柄のお気に入りのプレートを使い、そこにはカラフルな可愛らしい菓子が盛り合わせられる。 「気に入ってくれるかしら。セラフィンが連れてくる子。きっと若い子よね? 甘いお菓子は好きかしら」 中央の夏は涼しい。そよそよと吹く風が適度に自然の情景を残しつつも季節の花々が美しい中庭に立ち、ジブリールはやや天に顔を向けたまま瞳を閉じた。 双子の息子は子どもの頃この庭が大好きだった。今でも瞼を瞑ればそこに、彼らがじゃれあいながら駆け回る姿がありありと思い出せる。 そわそわと席についたりまた立ちあがってまた庭から東屋にもどり、そしてまた立ちあがって庭の入り口の方を眺めたり。 かつての侍女頭でありつつ、現在も息子のセラフィンの様子をうかがってきてくれるマリアが、そんな女主人の様子に苦笑した。 「ジブリール様、いい加減落ち着いて下さいませ」 この屋敷の女主人であり、高名な慈善家であるジブリールであるが、ジブリールが嫁いだ時にはすでに侍女頭だった高齢のマリアにしてみたら、突然攫われるようにしてラファエロと番になり、この屋敷で夜ごとホームシックでしくしく泣いていたのを慰めた少女の頃のままの印象なのだ。いくつになっても彼女にどうしても甘くなってしまう。 「ねえ、やっぱりこのドレス、少し若作り過ぎるわよね。セラフィンにあきれられてしまうわよね。着替えてこようかしら」 少女趣味と言えなくもない淡い水色のドレスだが、未だ肌に染み一つなく実年齢よりは10歳は若く見えるジブリールが身にまとっている分には全く違和感はない。 「お似合いですからもうお座りください。ジブリール様」 しかしこれほどジブリールがうろたえるのも無理もない。昨日の夕方、まずはセラフィンが勤め先からちょうど彼の自宅を整えているであろうマリア宛に連絡を入れてきて、マリア伝いでジブリールに自分が昔使っていた部屋か、さもなければ客間を一部屋使わせてほしいという申し入れをしてきたのだ。 そして今度は夕方にアズラエル百貨店のマダム・リュバンの店から連絡が入り、明日午前中に洋服をお届けに上がるという趣旨の報告がなされた。 マリアは今でもセラフィンの家に弟子である現役の侍女を毎度一人は連れて週に一回程度セラフィンの元を訪れている。マリアは長らくモルス家のつかえてきた女性で、モルス家の使用人が使う棟の中に自分の部屋を持っている。若くして夫に先立たれて天涯孤独となった彼女は、人づてに先代夫人に紹介されてモルス家に入った。それからは一身に仕事に打ち込み、現在でも使用人たちのご意見番でありつづけている。もちろんジブリールにとっては母親よりも身近な女性だ。 そのマリアからセラフィンが最近家にまだ少年の域をでていないような若い男を留め置いて面倒を見ていると耳を疑うような報告があった。まさかこんなに早く実家につれてくるとは。 その上、午前中のごく早い時間に旧知の友であるマダムリュバンが自らセラフィンのものではなくその少年のものという洋服と、ものすごい量のスケッチ画を持ち込んできたので日頃おっとりとしたジブリールも流石に驚いて手にした優美なカップを取り落しかけたほどだ。 今朝はコバルトブルーの海のように真っ青なドレススーツ姿に首に大粒のダイヤとパールをあしらったネックレスをつけて、マダムは興奮気味にまくしたててくるからジブリールの眼はチカチカしてしまった。 『ジブリール様! おめでとうございます! 本当に愛らしいオメガの男の子でしたのよ。写真館の店主も本当に麗しい二人だったって、二人で昨日の晩は盛り上がってお酒が進みましたわよ。お写真も後程写真館から届くと思いますわよ。私、勝手が過ぎるとは思いましたけれど、どうしても湧き上がるインスピレーションを抑えることが叶わなくて、婚礼衣装のスケッチをお持ちしましたわ』 『婚礼衣装!』 セラフィンとおよそ結びつかない煌いた単語にジブリールは嬉しいやら動悸が止まらないやらで眩暈がしそうになってソファーに深く腰掛けなおしたものだった。 その、マダムの置き土産である婚礼衣装とやらのスケッチはマリアが両手にもって、めくっては目を見開いて『奇抜なものが多すぎますわ』と苦言を呈している。 「ねえ、マリア。セラフィンが連れてくるのはきっと番にしたい子なのよ! ああ、あの子にそんな日が訪れるなんて、聖堂にいって愛の女神様に感謝の花束を今すぐに届けに行きたいぐらいだわ。なのに番の相手の母親がこんな感じで頼りなく見えたらいやじゃない?」 「とにかくもう見えると思いますから落ち着いて下さいませ」 そうしている間に若い侍女が先触れにやってきたのだ。 「セラフィン様がみえました。こちらに向かっておいでです」 ジブリールとマリアは互いに笑顔で顔を見合わせ、テーブルの上も季節の花々で彩られた席について二人の到着を待った。

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