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夜明けのサンタクロース

 12月のこの時期になると、見慣れた町の景色が一転華やいだものに変わる。  自転車の前かごに積んだ朝刊をしもやけだらけの手で1軒ずつ丁寧にポストに入れながら、真琴はクリスマス仕様に飾られた家々を眺める。昇り始めたばかりの朝日にほんのりと照らされているツリーやモール、壁にめぐらされたたくさんの電飾は、きっと夜になるとキラキラのイルミネーションで輝いて、道行く人の目を楽しませてくれるのだろう。  今日は25日、クリスマス当日だ。  8年前、まだ父がいた小学3年生までは、真琴の家でもツリーを飾り家族で丸いケーキを切り分けて食べた。ほしかったカードゲームを、サンタクロースが夜中そっと枕元に置いていってくれた。 けれど、父が借金を残して失踪してしまってからは、クリスマスはただの『12月25日』で、他の日と変わらない普通の日になった。  町が彩られるのを見て、真琴は今年もクリスマスがきたことを知る。自分とは遠いイベントになってしまったけれど、この時期独特の綺麗な町を見るのは好きだった。  夜になると飾りつけられた温かい部屋の中、家族が笑顔でケーキにロウソクを灯すのだろう。子どもたちはサンタを待って枕元に靴下をつるし、どきどきしながら眠りにつくのだろう。  それを想像すると、寒さで縮こまった真琴の体も気持ちも、少しだけほっこりとしてくるのだ。  サンタがプレゼントを配り終えた静かな朝、真琴は朝刊を配って回る。  新聞配達が終わったら工場の仕事が遅くまであるけれど、今夜はがんばってはやく帰ろう。病気で寝付いている母とまだ小学生の妹のために、小さなケーキを一つずつ買っていってあげよう。  借金取りから逃げ回る日々が続いて、いつのまにか家族から笑顔が消えてしまっているけれど、可愛いケーキに小さなろうそくを立ててあげれば2人とも笑ってくれるかもしれない。  真琴は白い息を吐きながら、見上げた空にそっと願う。  もし、サンタクロースが本当にいるのなら、イブの仕事を終えた今夜はきっと時間があるだろう。妹と母のために少しだけ家に寄ってくれないだろうか。  ところどころ雨漏りがし壁にはひびの入ったボロアパートだけれど、優しいサンタは嫌がらずに上がっていってくれるに違いない。  せっかくのクリスマスなのに、寒い1日になりそうだ。ヒューと吹いた北風に最後の一軒の朝刊を配り終えた真琴は、自転車を止め両手に息を吹きかけた。  前方で何かが動く気配を感じ、顔を上げた。目に入った異様なシルエットに、目が釘付けになる。  赤い服、赤い帽子の長身の人物がまっすぐ真琴に近づいてくる。  サンタクロース……! もしかしたら、願いがもう叶ったのだろうか。 「っ……」  でも、真琴はその人に見覚えがあった。白い髭で顔の半分が覆われていたけれど、間違いない。配達の途中、いつもこの付近で会う人だ。  彼は、毎朝ジョギングをしていた。たまに足を止めて拳を構え、ステップを踏みながらパンチを繰り出すような仕草をするところを見ると、駅前のボクシングジムに通う人なのかもしれなかった。年齢は真琴より少し上くらいで、逞しい長身とキリッとした横顔が印象的な人だった。  毎朝すれ違うたびに、かっこいいなと思っていた。会わなかった日は何かあったのではと心配になった。  いつしか彼とすれ違う場所では、自転車を降りて押して歩くようになった。彼の方もなんとなくだけれど、真琴と行き過ぎるときは少しだけ走る速度を落としてくれているような気がした。 『おはようございます』とか『いつも早いですね』とか、一言気軽に声をかければもっと近づけるはずだった。けれどここ数年の生活で、知らない人に話しかけたり笑いかけたりするやり方を、真琴は忘れてしまっていた。  そして真琴同様、彼もそういう人慣れしない性格のように見えた。  たまに目が合うときがあっても、どちらからともなく気まずげに逸らした。彼がスイと横を向いてしまうたびに、真琴は自分の着ている褪せたジャケットや、汚れたスニーカーのみすぼらしさが気になり俯いた。  嬉しくなったり、恥ずかしくなったり、悲しくなったり、何年も凍りつかせていた感情が、彼と会うたびにかすかに動き出す感覚に戸惑い、怖くもあった。  いつも風のように走っていってしまうその彼が、今正面を向いて近付いてくる。しかも、サンタクロースの扮装をして。 「メリークリスマス!」  呆然と立ちすくんでいる真琴に、サンタは片手を上げて明るく言った。髭だらけでその表情は見えないけれど、とても優しい瞳が真琴を見下ろしてくる。  どうしたのか急にトクトクと音を立て始める鼓動が相手に響いてしまわないかと、真琴はおろおろとあわて、俯く。  フワリと、首に温かいものが触れる感触にハッと見ると、サンタがふかふかした紺色のマフラーを巻きつけてくれていた。 「いつも寒そうだから気になってたんだ」  見上げると、サンタは照れたように目を逸らす。髭の上から少しだけのぞく頬が赤く染まっている。  マフラーはきっと、彼の体温で温められていたのだろう。8年ぶりにもらうプレゼントから伝わるぬくもりが、ゆるやかに全身を包んでくれる。  なんだか急に、胸が苦しくなった。  しあわせな聖夜の町を見ながら思っていた。サンタクロースはきっと、プレゼントと一緒にとても温かい何かを届けてくれるのだろうと。ただ、届ける人は最初から決まっていて、真琴のところにはもう来てくれないのだろうと。  そんなことはなかった。真琴のところにも、ちゃんと来てくれた。  こんなに温かいものと、こんなにどきどきする素敵な気持ちを届けてくれるために。  真琴の顔をチラリと見て、サンタは見るからにあわてる。 「や、俺やっぱ相当痛いか? なんて話しかけたらいいかわからなかったんだよ。これでもいろいろ考えたんだ」  不器用で照れ屋なサンタはばつ悪そうに肩をすくめてから、意を決したように正面を向いた。 「と、とにかく、まずは名前からだ。俺は南章吾。おまえは?」 「……南、章吾さん」  彼の名前を繰り返す。なくしていた大事なものを真琴に返してくれた、大切な人の名前を。  そして勇気を出すために、マフラーの端をギュッと握り締めた。 「ぼ、僕は、渡辺真琴です。あの、サンタさん、今夜うちで、クリスマスのお祝いをするんです。えっと……よかったら、来てくれませんか?」  ほっと肩の力を抜いて、彼が笑った。笑って、大きく頷いてくれた。  真琴も笑った。彼と一緒に笑った。  8年ぶりに迎えた笑顔のクリスマス。風はヒューヒューと冷たかったけれど、マフラーはとても温かかった。 ☆END☆

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