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言えなかったひとこと
「鹿島……! 鹿島じゃないか?」
耳障りな重機の轟音が響き、立ち上るコンクリート屑や埃が息苦しい。
学校帰り友人達と隣町のショッピングモールへ行く途中、古ビルの解体現場を足早に過ぎかけたとき、その声はかけられた。
振り向き、近付いてくる泥だらけの作業着姿の人を認めた瞬間、僕は体の動きを止めた。
呼吸も、鼓動すらも一瞬その機能を停止し、とっくに消し去ったはずのほの甘い胸苦しさだけが全身を支配した。
「久しぶりだな。元気だったか?」
1年前より日焼けして男らしくなったけれど変わらぬ端正な美貌が、当時のままに優しく微笑みかけてくる。
「武藤先輩……」
名をつぶやいたきり言葉を継げず、僕はただ茫然と彼を見返した。
僕のその反応に先輩は瞳を見開き、彼の登場で露骨に硬直し数歩下がった友人達にチラリと視線を流すと、曖昧な苦笑めいた表情を浮かべた。
そのどこか自嘲を滲ませる、寂しさと虚しさの入り混じった微笑は、太陽のように自信に満ち周り中をその光で照らしていた以前の彼には似つかわしくないもので、僕の胸はナイフで突かれたように痛んだ。
「悪かったな、呼び止めたりして。じゃ」
先輩は軽く片手を上げ背を向けて、作業現場に戻って行く。無菌培養の僕たちとは縁のない泥と埃の匂いを残して。
仕草は同じでも、上げられたその手のあまりの変わりようが、軽い衝撃と共に僕の網膜に残像を焼き付ける。変わり果てたその手に、彼と僕の今の距離を突き付けられたようで。
「鹿島君、行こうよ」
まるで会いたくない人間の幽霊にでも出くわしたような態度で、友人達は何事もなかったかのように僕の肩を叩き歩き出す。
見なかったことにしよう。何もなかったことにしよう。
みんながそう思っているのは、強張ったその表情からありありと伝わってくる。
無理もない。彼のアル中の父親が場末の酒場で口論の末相手を刺殺しその後自殺した事件は、僕たちの通うお上品な名門進学校の名を貶める大スキャンダルだったのだ。
高校を中退し、自宅を売り、住所を移して身を隠さざるを得なくなった彼のことを、今は誰もが忘却の彼方に追いやっていた。
そして、『善良な小市民』の一員である僕も、例外なくそうしなければならなくて。
不快な幻影を消し去ろうとでもするようにテンションを上げる友達の会話を上の空で聞き流しながら、忘れたはずの過去の映像が鮮やかに蘇る。
1年前の夜だ。部活の文化祭の準備に彼と二人で残った。
部長と次期部長という関係上他の部員より交流は深かったけれど、いつも多くの人間に囲まれている彼と二人きりになれることは珍しく、僕の胸は躍っていた。
それ以前から、切なさを込めてみつめる僕に、彼もその眼差しに同じ想いを乗せて返してくれたと感じるときがあった。思い込みの錯覚だと言い聞かせながらも淡い恋心はそのたびに深まって、彼の存在はいつしか僕のすべてになっていた。
「さて、準備完了。あとは明日の本番を待つばかりだな」
武道館の半分を使った巨大迷路のゴールに立って、彼は満足そうに言った。
「これ絶対評判になりますよね。出し物、毎年これにしましょうよ」
はしゃいだ僕の言葉に、彼も笑って頷いてくれる。
「来年はおまえが中心になってやれよ。もうポイントはわかっただろうから」
「不安ですよ、まだ先輩がいなきゃ……」
くしゅん、とくしゃみで言葉を途切れさせた僕の背が、フワリとぬくもりで包まれる。作業中は熱いからと脱いでいたセーターを、先輩がかけてくれたのだ。
「おいおい、風邪ひくなよ」
陽だまりみたいな彼の匂いとそのぬくもりが唐突に、本当に唐突に、来年の文化祭には彼はもう引退しているのだという現実を、寂しさと共に胸に突きつけてきた。
同時にしっかりかけていたはずの錠がはずれ、抑えつけていた想いが一気に溢れ出す。
「先輩……」
言ってはいけないと無理矢理堪えた続く一言は どうしようもなく瞳に表れてしまう。僕を見下ろす彼の目がわずかに見開かれ、そして細められた。
好き、と言ってしまう前に、頬に優しい感触が触れた。ずっと欲しかった彼の指だと認識する前に、唇が触れ合った。
いけないことだという罪悪感は全くなかった。ただ深く甘やかな感動だけが押し寄せて、僕の閉じた瞳を濡らした。
こんな奇跡ってあるんだ、と、そう思った。
先輩という名の他人の位置から少しだけ近付いた彼との、明日から始まる新たな日々を思い、全身が天使の羽根でくるまれるような幸福感で満たされた。
その夜ちょうど同じ頃、彼の父親が包丁で人を刺していたことも知らずに。
「鹿島君!? どうしたの?」
呼ばれて我に返った。友人達が驚いた顔で僕を見ている。
僕は足を止め、あわてて濡れた頬を拭った。
「ごめん、ちょっと先行ってて。後から追いつくから」
返事を待たず、身を翻す。
一番欲しいものは、なんだろう。
大切なものは、なんだろう。
それが何かわかっているのに、どうして見ないふりなどできるだろう。
本当は知っていた。忘れることなんかできないと。
足りないのは想いじゃない。足りないのは勇気だ。
ほんの少し勇気を出して、意気地なく足踏みをしている枠から飛び出すことができるなら、きっと望む自分になれる。
神様がくれた最後のチャンスを、僕は絶対ものにする。
「先輩! 武藤先輩!」
解体現場では同じような作業着の人が大勢働いている。どれが彼か特定できずに焦れた僕が声を上げると、全員が振り向いた。
奥手にいた彼が、あわてて近付いてくる。
「どうしたんだ。友達は?」
他人の距離を取り気まずげに視線を逸らし問う彼に、僕はもうためらわず一歩進み出、その手を取った。真冬の凍った現場作業で、しもやけと傷だらけになったザラザラの手は汚れて冷え切り、頬に触れてくれたときのぬくもりは全く感じられなかった。
でも僕にとっては同じだ。今掴んでいるこれだけがたった一つ、どうしても必要なものなのだ。
両手でしっかりと手を握る僕を見下ろす彼の瞳が一瞬見開かれ、苦しげに細められる。
その目の中に同じ切なさの欠片を見出して、僕の胸は1年ぶりに感動の鼓動を刻み、あの夜のように瞳は潤んでくる。
これからは、僕が彼にぬくもりを分けよう。
悲しい出来事で失ってしまったたくさんのぬくもりの、十分の一でも百分の一でもいいから、僕が取り戻して行ってあげよう。
あの日言い損なった大事な一言を告げるため、涙を拭った僕は明るく微笑み、おもむろに唇を開いた。
☆END☆
※お題:「セーター」「霜」「学園祭」
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