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ぬくもり

「こんばんは!」  高い声とノックの音に扉を開けると悪魔が立っていた。いや、正確には悪魔の扮装をした子供だ。  尖った耳に黒い翼、細く長い尾と三叉の槍を持ったその小悪魔は、邪悪さの欠片もない天使のような顔でニコニコと笑っていた。 「Trick or treat!」  ああ、今日は10月31日、ハロウィンの夜だ。  それにしてもこんな町外れの森の中の一軒家まで、子供が一人で訪ねてくるとは思わなかった。  24歳にしてすでに人間関係に絶望し、好んで隠遁生活を送っている得体の知れないダークファンタジー作家の私を、町の人間も敬遠し近付いてはこない。ここ数年知人ですら訪ねて来ないものを、いきなり見知らぬ子供の訪問を受けるとは予想外だった。 「君みたいな子供が外を歩く時間じゃないよ。帰りなさい」  表情を険しくして見せても、小悪魔は満面の笑顔のまま動こうとしない。 「Trick or treat!」  と、元気な声で繰り返す。  不審人物かもしれない私を全く警戒していないその純真な無邪気さ、久しぶりに触れる子供特有の真っ白く力強いオーラが眩しかった。 「待ってて」  部屋にとって返し、ファンからもらったクッキーの小袋を持って来ると、突き出された両手にそっと乗せてやる。 「ありがとう、お兄ちゃん! はい、これあげる!」  満月みたいに笑った子供が、満月みたいな丸いプレートを差し出した。  ニコニコマークのワッペンだ。 「またねー!」  森の中に消えて行くその小さな背を、玄関先に立ち尽くしたまま私はずっと見送っていた。  手の中のワッペンに彼のぬくもりが残っているように感じて、凍っていた手のひらがほのかにくすぐったく疼いた。  満月顔の小悪魔は翌年も、その翌年も、閉ざされた私の家の扉を叩いた。毎年彼の来訪を期待して私が秘かに用意するマドレーヌやパイは、おかげで無駄にならずに済んだ。  大人であろうと子供であろうと人間が嫌いで、気楽な一人の生活に満足していた私にとっては厄介な闖入者であるはずの彼の存在が、硬く閉ざした胸にスルリと入り込んできたのは不思議だった。  年毎に、彼との会話は少しずつ増えていった。彼はとてもよく笑い、よくしゃべった。 「お兄さんはここに一人で住んでるの?」とか「仕事は何をしてるの?」とか、ソファに座って菓子を頬張りホットミルクを飲みながら質問してくる彼に、言葉少なに答える私。  だが、交わす言葉の一つ一つが、乾ききっていた胸に優しい霧雨を降らせ潤してくれるのだ。  拙いが一生懸命な説明から、彼が毎年この時期になると法事で町の祖父母の家に遊びにくるのだと知った。 「近くに住んでればしょっちゅう来れるのにね」  と、残念そうにぷーっと膨らませるその頬にそっと指先を触れさせると、ギスギスしていた胸の奥にまろやかな優しさの明かりが灯った。  彼が来始めて6年目の夜、急にいつもと違った歓迎をしてみたくなった。私には珍しい、ちょっとしたいたずら心だ。  イメージ啓発用のマネキンをわざわざ物置から引っ張り出して、服を着せソファに座らせた。テーブル上にはパソコンを置き、背後から見るといかにも私が仕事をしているようにセットした。そして私自身は彼にあげる菓子を詰めた袋を持って、ドアの影に身をひそめていた。 「こんばんは!」  開け放しておいた扉から、彼がぴょこんと顔を覗かせる。人形の後ろ姿を私だと思い込んだ顔がパッと輝いた。 「お兄ちゃん、仕事中?」  パタパタと入って来ると、人形の肩に手を置き顔を覗き込む。 瞬間、大きなシャボン玉が目の前で弾けたように、表情が驚きに固まった。 「わぁ!」  叫ぶなり、彼は人形の前に回った。両腕を掴み、激しく揺さぶる。 「お兄ちゃん! お兄ちゃん!?」  その顔は驚くほど真剣で、ふざけている様子など全くない。日頃機能しているのをほとんど意識することのない私の心臓も、存在を誇示するかのように高鳴り出す。 「なんだよ! ずっと一人でいたから人形になっちゃったのかよ! なんで俺が来るまで待ってらんなかったんだよっ!」  その本気の嘆きに茫然とする私の手から菓子の袋がこぼれ落ち、淡いパステルの包み紙にくるまれたキャンディーがバラバラと床に散らばった。  ハッと顔を上げた彼の目が私を認め、泣きそうに歪んだと思った次の瞬間には、その腕の中に捕らえられていた。 「よかった! ちゃんといるじゃん!」  いつのまにか中学生になっていた彼の身長はもうほとんど私と変わらず、腕も胸も子供のそれではないことに初めて気付いた。  広くなった彼の背に恐る恐る手を回すと、凍土に射した陽だまりが硬い氷を溶かしていくように、全身がぬくもりで満たされた。  このぬくもりはもしかしたら、生きていくために必要なものなのかもしれない。  漠然とそう思った。  そして一つだけ、確信した。  カレンダーから10月31日が消えない限り、彼が毎年来てくれるというのなら、この先何十年という味気ない私の人生にも、やわらかい希望の光が射すに違いない。  翌年のハロウィンから、彼は姿を見せなくなった。その日がいつか来ることを、私はどこかで覚悟していた気がする。  子供ではなくなった彼は田舎の森に住む変人作家のことなど忘れて、彼に相応しい太陽のような友人達と毎日を楽しんでいるのだろう。  まばゆい光の中で輝き笑う彼の姿を遠く思い描きながら、私は10月31日を指折り数え、その日を待ち続けた。  もう甘い菓子など喜ばなくなってしまっただろう彼のためにケーキやクッキーを用意して、扉を揺らす風の音にさえ敏感になりながら、そこに立つ彼の姿を想像した。  そうやって彼を待つことが、私の凍った物憂い人生の中で唯一の救いだった。  待つことは私に許された最後の希望であり、決して叶わない夢でもあった。  そしていつか夢をみることに疲れたとき、私はきっと、寂しくて死んでしまうのだろう。  彼のぬくもりを思い出したまらなくなると、最初にもらった満月のようなワッペンをそっと胸に押し当てた。そうすると、咽ぶような痛みもほんの少しだけ楽になった。  寂しさを知ったことでつらさも増えたが、それを知る前に戻りたいとはなぜか思えなかった。  彼が来なくなって5年目のハロウィンの夜、叩かれた扉を開けると見知らぬ青年が立っていた。 「よぉ、久しぶり! よかった、まだいたな」  驚いて声も出せない私に、見違えるほど立派になった彼は満月のような笑顔を向けると、大きなトランクと旅行バッグを重そうに床に下ろした。 「じいちゃんとばあちゃんが死んでからこっち来られなくなっちまったけど、俺もやっと高校卒業したし、両親説き伏せて一人で出てきたよ。今日からあんたのアシスタント兼住み込み家政夫として雇ってくれ」 「君は……何を言ってるんだ……」  声が震えた。待ちすぎて、おそらくおかしくなってしまったのだろうと思った。  幻覚に違いない彼にうっかり触れて目の前で消えられてしまったら、絶望して二度と立ち直れなくなる。それが怖かった。 「私はこれまでも、これからも一人で十分だ。大体、君の事なんかずっと、忘れていたよ」  彼は困ったように苦笑すると、肩をすくめ視線を流す。彼の大好きな苺ショートとマロンタルトが、お茶のセットと一緒にきちんと用意されたテーブルの上に。 「あんたは絶対、待っててくれてると思った。俺があんたを忘れられなかったようにな」  夢が叶ったことを認められず臆病になっている私を、成長した彼の力強い腕が引き寄せる。  私の頼りない体をしっかり包み込めるくらい逞しくなった腕も胸も、昔と変わらぬぬくもりを伝えてきた。  ああ、これは、夢じゃない。  致命傷になりそうなほど蓄積された寂しさが、サラサラと細かい粒子になって消えて行く音がする。 「ずっと一緒にいようぜ」  囁かれた暖かい一言が凍りついた胸に届いて、溶け出した氷が一筋頬を伝った。 ☆END☆ ※お題:「ハロウィン」「悪戯」「満月」

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