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5 花火を見た

 今日は年に一度の夏祭りだ。侑にせがまれ、連れていくことになった。どうせ隣に住んでいるのだから一緒に行けばいいのに、どうしても駅前で待ち合わせをしてみたいと言うので、わざわざ別々に家を出た。    念のため少し早く出発して駅へ向かう。早歩きで行けばいずれ出会うかと思ったが、結局侑の姿は見えないまま、何組ものカップルを追い越した。   「あ! 兄ちゃん!」    駅前の広場で、侑は待っていた。ベンチに腰掛けていたが、健の顔を見るなり立ち上がって駆け寄る。慣れない下駄を履いているものだから(つまず)いてよろけ、間一髪で健の胸に飛び込んだ。   「えへへ、ギリセーフ」 「危ないから走っちゃ……ていうか、浴衣にしたんだ」    健が言うと侑はにんまり笑い、得意げに浴衣を見せびらかす。子供らしくて可愛らしい、金魚柄の浴衣だ。帯は絞りの兵児(へこ)帯で、背中に蝶々が飛んでいる。   「よく似合ってるよ」 「ほんと!」 「うん、かわいい」 「えへ、うふふ、そーなんだ、かわいいんだ」    侑は嬉しそうに笑い、緩んだ頬を両手で押さえた。   「その髪飾りもかわいいよ」 「これね! 母さんがくれたの。昔買ったやつだけどもう使わないし、夏っぽくていいでしょって。かわいい?」    つまみ細工の向日葵が付いたパッチン留めだ。これも子供らしくて可愛らしい。ただちょっと可愛すぎるかもしれない。女の子が着けていてもおかしくない。   「ねー、かわいい?」 「かわいいよ」    髪留めを避けて頭を撫でる。ふわふわの毛が指に馴染む。侑は気持ちよさそうに目を細める。   「そんなことより、早く何か食べようよ」    駅から神社までの表参道は無数の屋台が立ち並び、いかにも縁日といった雰囲気だ。   「今日はいろんなものいっぱい食べるって決めてるんだ。そのためにお腹空かせてきた」    まずはたこ焼き、焼きそば、お好み焼き。いか焼き、焼き鳥、焼きもろこし。お腹を空かせてきたというのは本当のようで、侑は好きなものを好きなだけ食べまくった。健は財布の心配をしつつ、千円札と小銭をあるだけ持ってきたのは正解だった、などと思った。    お腹が膨れた後、休憩も兼ねて射的に挑戦する。侑は最新のゲーム機を一点集中で狙い続けていたが、ことごとく外した。   「んもー、全然当たんないよぉ」 「貸してみな」 「ねー兄ちゃん、ゲーム取って、ゲーム。そんで一緒に遊ぼうよ。すっごく楽しいって」 「でもこういうのは、難しいの狙うとだめなんだよね」    ゲーム機に一発当ててみるがぴくりともせず、逆にコルク弾の方が押し負けてしまう。   「やっぱり無理そう」 「えー」 「お菓子なら取れると思うけど……」 「じゃあ、あれとあれがいい」    要望通り、チョコボールとミルクキャラメルをゲットした。侑は、ゲームじゃないのかぁ、なんて文句を言いながら、ぬいぐるみ型のネックポーチに大事そうに仕舞った。    射的をしてお腹が空いた。今度は甘いものを制覇していく。かき氷、ベビーカステラ、チョコバナナ。そして綿あめ、りんご飴。その後また、腹ごなしに金魚すくいで遊ぶ。紅白まだら模様の金魚を狙って、侑はしつこく追いかけ回す。幸い、ポイはまだ破れていない。食べかけのりんご飴は健が預かり、時々舐める。   「あのぉ、清水さん?」    不意に背後から声をかけられた。驚いて振り向く。浴衣を着た妙齢の女性が立っていた。   「やっぱりそうだ。清水さん、最近全然会社にいらっしゃらないから、会うのは久しぶりですよね。私のこと、忘れちゃいました?」 「あ……ああ、いえ、いつもと雰囲気が違うので……」 「そうですよね。会社ではいつも制服ですもんね。清水さんはいつもとあまり変わらないですけど……そちらは、弟さん?」    いつの間にやら金魚すくいを終えた侑が、健の後ろに隠れるようにして立っている。彼女のことを、警戒するような目付きでじっと見上げている。   「小さな弟さんがいるなんて知らなかったです。おいくつ?」 「違うんです。この子は近所の子で、よく遊んであげていて」 「あら、そうなのね」    侑はむすっとむくれて、健の背中にべたべた纏わり付く。恥ずかしがり屋さんなのかしら、と彼女は笑う。   「……にーちゃん。その人、誰」 「僕の会社で事務をやってるお姉さんだよ。ちゃんと挨拶して」    こんにちは、お名前は? と優しく尋ねる彼女に対し、侑はあからさまにそっぽを向く。挙句の果てに、ヨーヨー釣りしてくるから、と言い捨てて逃げてしまった。   「あらあら、嫌われちゃったかしら」 「ごめんなさい。いつもはあんな風じゃないんですけど。人見知りするタイプだったのかな」 「それじゃあ、侑くんが戻ってくるまで、私の暇潰しに付き合ってくれません? 一緒に来た友達が型抜きに夢中になっちゃって……」    近くのベンチに座って少し話した。会社でのこと、ペットの話、友達の話、流行りのスイーツやら映画の話。女性というのはおしゃべりが好きだ。しかし健は侑のことが気になっておしゃべりどころではなく、適当に相槌を打ってばかりだった。   「ヨーヨー釣りにしては遅いな……」 「そうですね。確かにちょっと長引いてるかも」 「僕、ちょっと探してきます。もし戻ってきたらここで待っているように言っておいてください」    ヨーヨー釣りの屋台は二か所しか見つからなかったから、そのどちらかにいるのだろう。たぶん近い方にいるはずだと目星をつけて行ってみる。しかし外れだ。悪戦苦闘する子供の姿は数あれど、侑の姿はない。それじゃあわざわざ遠くの方へ行ったのかと、健は元来た道を引き返す。    人混みが増してきた。中央の広場に組まれた櫓の上で太鼓が揺れている。神社からお神輿が来る。大人の男が担ぐ大きな神輿、子供用の小さな神輿、提灯をたくさんぶら下げた山車(だし)が、列を成して練り歩く。力強い太鼓の音と甲高い笛の音に合わせ、威勢よく掛け声をかけて練り歩く。    神輿と共にうねる人波を掻き分けて健は進む。もう一方の屋台にも侑はいなかった。それじゃあどこへ行ってしまったのか。太鼓の音が異様にうるさく、気が急いた。狂気と熱気に沸き立つ群衆を押しのけて、幾人もの肩とぶつかり、足を蹴飛ばし、蹴飛ばされながら、無我夢中で侑を探した。   「あ、兄ちゃん」    ようやっと見つけた時には、神輿は遥か後方へと過ぎ去っていた。健は侑の元へ駆け寄り、息もできないほど強く強く抱きしめる。   「に、兄ちゃん?」 「どれだけ心配したと思って……どうして戻ってこないの」 「えっと……ま、迷子になって……ごめんなさい」    侑は深く反省しているように見えて、しかしわずかに喜色を浮かべているようにも見えた。   「でも、このおじさんがね、迷子センターまで連れてってくれるって言うから」    全く気付かなかったが、侑の隣には中年の男が一人立っている。健は軽く会釈をした。   「それにねー、ここ人少なくておみこし見やすかったし、あとお面も買ってくれたの」    ネックポーチと同じ、白くまのキャラクターのお面を頭に着けている。中年の男は気まずそうにこちらをちらちら見ている。健は彼に話しかけた。   「……失礼ですが、お名前とご住所を伺ってもよろしいですか。後でお礼に伺います」 「いや、いや、いいんだ。家族の人と会えたならそれでいいんだ、うん」    男は狼狽して吃る。   「本当、おうちの人と会えたならそれで、俺はもう帰るから、うん」    と言ってそそくさと立ち去ろうとするので、健は侑からお面を取り上げて男に突き返す。すると男は苦々しい表情で乱暴にお面を奪い取り、一度も振り返らず足早に去っていった。   「……あーあ。あのお面、おれのだったのに」 「侑!」    残念そうに呟く侑に、健は一言怒鳴った。侑はびくりと体を震わせ、怯えたように身を縮こませる。   「知らない人についていったらだめだってわかってるでしょ!」 「……ご、ごめんなさ……」 「知らない人から物をもらうのもだめ! くれるって言われても断らなきゃだめだよ。わかるよね?」 「……で、でも、迷子センターに……」 「あんなの嘘に決まってるでしょ。迷子の案内所はもっとあっちにあるの。こことは逆方向だよ。それを嘘言って連れ去ろうとして、お面なんかで釣って……」    深く溜め息を吐く。   「とにかく侑が無事でよかった。間に合ってよかった。変なこととかされてないね?」 「うん……されてない……」 「それならいいんだ。でも今度からはこんなの絶対にだめだからね。次はどうなるかわからないんだから。世の中には怖い人がいっぱいいるんだよ。わかった?」 「うん……うん……はい……」    侑は俯き、大粒の涙をぼろぼろ零した。   「ごめ、ごめんなさ……きらいにならないで……」    しゃくり上げながら、瞼を擦る。健は頭を撫でて宥める。   「嫌いになんてなるわけないでしょ。侑が大切だから怒ったの。もう怒ってないから、ね」 「だって、だって……」 「大きい声出してごめんね。驚いたね」    膝をつき、目線を合わせて抱きしめる。背中を摩ると落ち着くらしかった。    遠くで破裂音が響く。二発、三発、と続けて鳴る。夜空一面が鮮やかな光に覆われ、刹那の後に消える。間を置かず再び爆音が響いて、無数の火花が夜空に散らばり消えていく。侑は泣き腫らした目を見開いた。   「花火、始まった」 「もっと見やすい場所に行こうか」 「ううん。ここがいいよ。ここにいて」    祭り客の多くは花火を見るため移動した。人通りの減ったこの場所で、植え込みのちょうどいい段差に腰掛けて、二人は静かに空を見上げる。建物の影に邪魔されながらも、儚い大輪の雫が開花する。   「手、繋いでもいい?」 「いいよ」 「あ、違うよぉ。こうじゃなくて……こうだよ」    普通に握ったら訂正された。侑は短い指を絡めて満足そうに笑う。色とりどりの光にきらきら照らされた横顔は、息を呑むほど綺麗だった。   「ねー兄ちゃん。あの女の人は?」 「さぁ……友達と来たって言ってたから、どこかで花火見てるんじゃない?」 「ふぅん。……でも、兄ちゃんはここにいるもんね」 「当たり前でしょ。今日は侑とお祭りに来たんだから」 「へへ、そーだよね。バカだなぁ、おれ」    花火が終われば祭りもそろそろ幕切れだ。人々は帰り支度を始め、屋台は売れ残りの品を安値でどんどん売り捌く。金魚すくいの屋台に寄ってみると、侑が狙っていた紅白まだらの金魚はまだ生き残っていて、水槽の中を元気に泳ぎ回っていた。   「おっ、さっきの坊やじゃないか。どうだい、もう一回遊んでいくかい」 「でも、どうせ釣れないし……」 「ははは、うそうそ。お代はいいから、どれでも好きなの持っていきな」 「いいの?」 「いいのいいの。さっき遊んでくれたおまけだよ。どれがいい?」    侑はちらりと健を見上げる。健は頷く。   「えっと、じゃあこの、水玉模様の金魚、ください」 「ああ、こいつね。こいつぁ活きがよくってねぇ。きっと長生きするよ」    透明なビニールの中で泳ぐ金魚の姿は涼しげだ。侑は嬉しそうに袋を手に提げる。店主にお礼を言って、いよいよ帰路に就く。カランコロンと下駄が鳴る。   「よかったね。それ、欲しがってたやつでしょ」 「うん。尻尾がひらひらしててかわいいの。誰にも捕まらないで、おれのこと待ってたのかなぁ」    祭りの熱狂は一睡の夢のように醒め、真夏の夜風が颯と通りを吹き抜けた。    持ち帰った金魚は健の家で飼うことになった。金魚鉢を用意し、砂利を敷き詰め、水草を植えてやると、金魚は優雅に泳ぎ回った。

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