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12 消えたバレンタインチョコレート

 立春を過ぎたというのに一日中(かじか)む寒さで、午後からは雪が降り始めた。牡丹雪だからどうせすぐに溶けるだろうが、白い欠片が灰色の空から落ちてくる様は見ているだけで寒い。炬燵で温まりながら仕事をしていると、ただいまという元気な声と共に侑が帰ってくる。ランドセルに付けた鈴がちりちり鳴る。   「兄ちゃあん! 外、雪だよ!」 「知ってるよ。濡れた?」 「置き傘あったから! 雪、積もるかな」 「どうだろうね。積もってた?」 「中庭はちょっと白かったよ」    上着を脱ぎ、炬燵に当たる。ほっと一息ついたかと思うとランドセルを引っくり返し、テーブルにお菓子をばら撒いた。   「雪で忘れるとこだった。今日ね、学校でチョコもらったの」 「チョコ?」 「バレンタインだよ」    カレンダーを見て、思い出した。   「でも学校にこんなの持ってって怒られないの?」 「今日だけ特別なの。クラスの女子がみんな配ってて、そんでおれにもくれた。いっぱいもらったから、兄ちゃんも食べていいよ」    と言って、個包装の袋を開けようとする。   「こら、おやつの前にうがい手洗いしないと」 「忘れてた」 「インフルエンザ流行ってるんだから気を付けないと。ちゃんと泡で洗うんだよ」 「わかってるよー」    侑の姿が洗面所へ消えるのを見届けて、健はこっそりランドセルを開ける。   「やっぱり……」    ランドセルの奥底に、他とは全く趣の異なる箱が入っている。侑は隠したつもりだろうが、健は見逃さなかった。何しろ、真っ赤なハート形の箱だ。近くでよく見ると、ますます送り主の気合が感じられる。ラブレターが入っていてもおかしくない。いや、むしろ入っているべき。何しろ真っ赤なハート形で、オフホワイトのリボンが掛けられているのだ。    これを、侑はもう開けてみたのだろうか。中身は何だろう。やっぱりハート形のチョコレートケーキか何かか。もしもラブレターが入っていたら、侑はどうするのだろう。チョコを受け取ったということは、告白も受けるつもりなのだろうか。    相手は誰だろう。同学年の子か、高学年の子かもしれない。もしもお付き合いすることになったら、一緒に登下校したり公園で遊んだりゲームセンターでプリクラを撮ったり、小学生らしいデートをするのだろうか。そうなったら、もうここへは来なくなるだろうか。   「兄ちゃーん!」    侑の声が聞こえ、咄嗟に箱を引き出しに隠した。石鹸詰め替えといたよ、と言って侑はリビングに戻ってくる。隠した箱をランドセルの中に戻すタイミングは完全に失われた。   「ねー、兄ちゃんってば。石鹸、詰め替えたよ」 「……あ、うん、ありがとう」 「もー、もっとちゃんと褒めて」    上の空のまま、差し出された頭を撫でる。冬でも相変わらず、髪の毛はふわふわだった。    個包装のチョコレートをいくつか食べた後、侑は再びランドセルを開く。中を確認するなり、あれ? と首を傾げた。健は、我ながら白々しいかと思いつつ、どうしたの、などと心配を装って訊いてみる。侑ははっきりとは答えず、家に忘れ物をしたと言って取りに戻った。    十分ほど経って、やっと帰ってきた。しかし当然ながら目当てのものは見つからなかったらしく、その落ち込みようといったらない。青ざめて、肩を落として、何度も溜め息を吐く。健の中の罪悪感が膨れ上がる。   「……そんなに大事なものなの?」 「うん……すっごく大事。だって今日、バレンタインでしょ。今日だから、なのに……」 「何、失くしたの」 「兄ちゃんには秘密……。でも、すっごくすっごく大事なの。なのにおれ、なんで……どこにやっちゃったんだろう」    疑惑は確信に変わり、罪悪感と拮抗して別の感情が湧いてくる。あのハート形の箱はこのまま引き出しの奥に仕舞っておいて、侑の目には一切触れさせずにこっそり処分してしまおうか。それが最善の方法かもしれない。そうすれば何も心配いらない。心配しているような事態は起こりえない。    しかしそんなことをしたら一生良心の呵責に苦しむだろうこともわかっている。侑にとって最善なのは、ラブレターを受け取って子供らしいお付き合いをすること、あるいはしないこと。中学生でファーストキス、高校生で初体験、というのがまともな恋愛だろう。だからやっぱり、あの箱は今すぐに返すべきかもしれない。   「……どうしよう、おれ……あんなにだいじなもの……なくすなんて……」    侑の瞳から大粒の涙がぼろぼろ零れる。ぎりぎりで我慢していたものがとうとう決壊したのだ。堰を切ったものは簡単には止まらず、侑はしゃくり上げて泣く。健はどう慰めたものかわからず、頭を撫でようとしていた手を彷徨わせる。    泣くほど大切なのか、と思うと、もう絶対にあの箱を返そうとは思えなくなる。あんなもの今すぐ引き裂いて、煮て焼いて食ってしまおう、などと酷いことを思う。目の前で侑が泣いているというのに気の利いた言葉一つ出てこず、ハートの箱のことばかり考えている自分を腹立たしく思いつつ、しかしこの割り切れない気持ちをどう処理すべきかわからない。    侑はひとしきり泣いた後宿題を始め、夜には帰った。        翌日、久しぶりに会社へ行くと、女子社員から義理チョコをいくつかもらった。初詣の時に会った事務員も、デパートで買ったというチョコレートをくれた。わざわざ用意していたのかと思うと、申し訳ない。   「十四日は出勤してくださいって言ったじゃないですか」 「すみません。すっかり忘れてて」 「本当、こういうことには疎いですよね。そんなんじゃ、侑くんに嫌われちゃいますよ。最近の子は敏感なんですから」 「……嫌われますか」 「あらいやだ、怖い顔しないでください。例えばの話ですよ。だって、イベントごとって重要じゃないですか。若い子は特に」    会社へ行ってもあまり集中できず、若手社員が気を遣ってコーヒーを淹れてくれても頭が冴えず、こんなことなら家にいた方が捗るんじゃないかと上司に嫌味を言われて、結局早めに退勤した。

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